雨の夜、先輩は私をりんちゃんと呼んだ
夕方から降り出した雨は、夜になる頃には帝都を呑み込むような土砂降りになっていた。
離れの雨戸を叩く雨音が激しい。
私は廊下に立ち尽くしたまま、何度も門の方を見ていた。
――先輩、まだ帰ってこない……。
タエさんはとっくに帰った。離れで1人で待っていた私は、土砂降りの雨になったのを見て、母屋に帰るきっかけを失ってしまっていた。
――理人さんとご一緒に出かけたから、大丈夫のはず。でも遅すぎる……。
先輩は家元が用意した自動車で、理人さんと一緒に出かけて行った。花房の運転手が運転する自動車が、どこに先輩を連れて行ったのかは知らない。
一条家、三条家、九重家。
理人さんとの会話から漏れ聞こえた名前は、どれも私でも知っている華族のお家ばかりだった。
先輩は、本当はああいう世界の人なのだ。
胸の奥が、冷たくざわついた。
日が暮れてかなり経つ。
雨で空気が冷えてきた。火鉢に火を起こし、私は湯を沸かし直そうと、外に出て、風呂釜に薪をくべ始めた。
めらめらと火が燃える様を見ていると、あの夜の事をどうしても思い出してしまう。
土砂降りの雨。ぴかりと空が光り、遠くで雷が落ちた。
――また菖蒲の季節。
私のこの2年間は、なんだったんだろう。
――もし、先輩があちらの世界へ戻ってしまったら。
私との暮らしは、雨の夜の幻みたいに、消えてしまうのだろうか。
――もしかして、先輩はもうここには帰っていらっしゃらないのではないだろうか……。
そんな考えが頭に浮かんで、胸の奥がスーッと冷え切るのを感じた。
華族の方々が、先輩を放っておくとは思えなかった。
あんなにお美しい先輩のことだ。記憶が戻らなくても、是非、先輩に婿に来てほしいと思う家はあるだろう。
私はハッとして顔を上げた。
目を凝らした。傘をさした誰かが離れの玄関に続く小道を歩いてくる。
――先輩……?
かけだした私は、土砂降りの中から現れた先輩の姿を前に、泣いているのか笑っているのか分からない感情に襲われた。
「おかえりなさいっ!」
「あ、りんちゃん、まだいてくれたのか」
「は、はい。お待ち申し上げておりました」
「早く、傘に入って!」
先輩は、私の肩を抱くようにして、傘の中に入れてくれた。先輩の腕が私の肩に触れる。
「りんちゃん、ちょっと走るよっ!ほら!」
先輩は私の顔を見て、そう耳元で言うと、私の肩を抱き抱えるようにして走り始めた。
私も傘の中で一緒に走った。
傘は小さく、私の左肩は濡れ、先輩の右肩は雨に打たれていた。
走るたび、体が触れた。
離れの玄関についたときは、2人とも結構濡れてしまっていた。
「私のせいで、濡れてしまってごめんなさい。お風呂が沸いておりますので、お入りになられた方がいいです」
私は慌てて手拭いを先輩に差し出して、先輩の肩やお顔を拭こうとした。その手を先輩は優しくつかみ、私に言った。
「私はいい。りんちゃんの方が濡れているから。先に湯に浸かってきた方がいい。風邪を引くから。私はそのあとでいい」
――先輩……?りんちゃんと呼んでくださっている?
私はそのことに呆然として、嬉しさが全身を貫いた。
「ほら、とにかく先に入ってきなさい」
先輩は、私に対する口調が、少しだけ昔に戻ったようだった。
額に張り付いた濡れた前髪が、先輩のお顔をいつも以上に色っぽく、大人びてみせていた。シャツが雨に濡れて体に張り付き、たくましい胸板を浮き上がらせていた。
あの夜の、私しか知らない先輩を知っている私は、まっすぐに見られなかった。
このままおそばにいたら、何か自分が昔の事を口走ってしまいそうで、私は慌てて胸に蓋をするために、素直に風呂に入ることにして、玄関を上がり、風呂場の方に急いだ。
私の顔は火照っていた。
――あっ、着替えを持って入らなければ……確かお客様用の浴衣がこのあたりにあったはず……。
この離れは、花房の屋敷が持つ客用の離れなので、寝巻きのための浴衣や羽織、布団などが最初から用意されていた。
私は白地に花の柄が染められている浴衣を手に取り、急いで湯につかりに行った。
濡れた髪が首筋に張り付き、着物は結構濡れてしまっていた。
湯は私が先ほど沸かし直したので、温かかった。先輩を待たせているので、私は急いで湯に浸かった。髪をお湯で濡らして頭の芯から温まると、湯から上がった。
手早く浴衣を着て、先輩のところに急いだ。
――先輩が風邪を引いてしまわれる……。
慌てていた私は、火鉢のことを考えていて、廊下を曲がった瞬間に、先輩にぶつかり、先輩の胸の中に飛び込んでしまった。
「あぁっ!」
私は濡れた髪が広がるのも構わず、先輩から離れようともがいた。
「うっ」
声にならない声をあげた先輩は、自分の腕の中に飛び込んできた私を見て、とても驚いた顔をした。
「……りんちゃん、前もこんなことあった……?」
先輩は掠れた声でそう言って、私を見下ろした。透き通るような瞳が何かに揺れている。
――せ、せんぱい?思い出しました、か……?
私が先輩を見上げると、先輩の指がそっと私の濡れた髪に触れた。
まるで、あの夜のように。
私の胸に言葉にならない感情が湧き起こり、先輩を見上げる目に涙が込み上げてきた。
先輩の胸の中は温かかった。
「……何かが引っかかっているんだけれど……よくわからないんだ」
先輩はそう囁くように言った。何かを掴もうとしているかのように、指先で私の髪を優しく撫でた。
「ごめんっ!りんちゃん、馴れ馴れしいですよね」
先輩は突然ハッと我に返ったようで、風呂場に向かった。先輩の頬は耳まで真っ赤になっていた。
風呂から上がった先輩は、あの時の浴衣にそっくりな浴衣を着て、濡れた髪のままで食事をする部屋まで来た。
火鉢には赤い火が熾り、部屋を少しばかり温めていた。まだ雨は止まない。
用意していた食事を出した。
先輩は「いい湯だった」と私に伝え、「りんちゃんも一緒に食べましょう」と言った。
土砂降りの雨の音が聞こえる中で、私たちは遅い夕飯を食べた。
先輩は、今日あったことを一言も話さなかった。
ただ、ただ、目の前の先輩が濡れた髪で浴衣の襟元を緩めてそこにいるだけで、私の記憶の中の雨の音と先輩の姿が重なり、胸が震えてしまった。
先輩は、時々、私の姿を見て、何かを考え込んでいるようだった。
「りんちゃん、私たちは会ったのは、香席でだったよね?」
不意に、先輩にそう言われて、私はうなずいた。
「はい」
「あとで、もう一度、さっきの感じを確かめたいんだけれど……」
先輩は、言い淀んだ。頬が赤く、耳まで赤く染まっている。
「りんちゃんに触れた瞬間だけ、胸の奥が苦しくなるんだ」
先輩は私の目をまっすぐに見た。
「その……こんなことをお願いして大変申し訳ないのだけれど、私にとっては大事なことなんだ。何かが頭の中に引っかかるんだ。協力してもらえないだろうか」
私は嬉しかった。
――先輩の中に、私との記憶があるのであれば、それを引き出せるのであれば……。
「はい、喜んで」
私は明るく言った。なんでもないことのように。
「そうか。良かった。ありがとう」
先輩はほっとしたように言ったが、私にとっては、針のむしろかもしれなかった。
「決して変な意味ではないが、今日はもうこの土砂降りは止みそうにないから、泊まっていくといい。客用の布団がこの離れにはたくさんあるようだから」
先輩はそれを真っ赤になりつつも言った。
私はうなずいた。
――思い出してくれるのであれば……。
食事が終わったあと、先輩は私の肩をそっと抱いた。
私の心臓が止まりそうになった。
「ぶつかった時の感じにしたいんだ」
先輩は囁くように私に言った。
私の胸の鼓動は早鐘のように打ち、私は身体中がカッと熱くなっていた。
私は先輩の胸に引き寄せられた。
先輩は、そっと私の濡れた髪を指で撫でつけてくれた。先ほど先輩が私にした仕草だ。
それが、どれほど天国のような気持ちにさせてくれるのか、先輩はきっと知らない。
私は心臓が破裂しそうに思った。
透き通った瞳が私を見つめ、時折、何か記憶の中を探るように、先輩は私の顔をのぞき込んだ。浴衣の襟口や袖から、先輩の肌が見えるたびに、私は飛び跳ねそうになった。
――あぁ、神様……私に平気なフリをさせてください。
その夜、私は心が乱れるのを感じながら、客用の布団の中で眠りについた。
雨は夜通し降り続けた。
先輩は、その晩は思い出さなかった。
あの土砂降りの夜のことも。
菖蒲の家で過ごした日々も。
私たちが交わした約束も。
何一つ。
それでも。
私の髪に触れた時。
私を抱き寄せた時。
先輩の瞳は、揺れていた。
忘れてしまったはずの何かを、必死に追いかけているように。
私はただの花房の家の娘。
先輩と結婚の約束をした仲だとは——恥ずかしくて、恥ずかしくて、死んでも言えなかった。
——どうか……せんぱい……思い出して……。




