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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第三章:先輩とは、誰だ?

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どうして、あなたなの

「あなたのことなんか、大っ嫌いなのよっ!」


平手打ちされた。火花が散るような痛みが頬を直撃し、私は崩れ落ちた。頬がヒリヒリと痛み、涙がこみあげた。


「鹿乃子さまっ!」


鹿乃子様を止めようとする周囲の者の静止を、鹿乃子様は振り切って私に詰め寄った。


「どうして、あなたなの……」



――痛いっ!


離れに先輩がいるのが、バレてしまった。

私がお世話をしていることも。



月岡の華道のお稽古に行って、沙千代と一緒に花房の屋敷に戻ってきた時、屋敷の前に運転手付きのハイカラな自動車が止まっていると思った。


お稽古にいらっしゃる方々は、自動車で送迎されて来ても、お稽古の間は自動車は止まっていない。お迎えの時間にまた運転手が自動車を運転してくるからだ。


屋敷の中に入る正門から玄関に続く道を少し先に行ったところで、鹿乃子様が待ち構えていたのだ。


今日はお着物をお召しになられていた。黒い帯を締めた薄紅の着物が、今日の鹿乃子様には似合いすぎるほど艶やかだった。


「舞の力なんか、鷹条家の香りの力には何の役に立たないのよ!」


沙千代が私の前に飛び出してきて、鹿乃子様の前に私を庇うように身を置いた。


「鹿乃子様、これは、記憶を取り戻すための措置なのです。ご本人様のご意志でもございます。本当に鹿乃子様があの方の身をご案じされているなら、お分かりになるはずです!このままでは、このままでは……あの方は復帰できませぬ」



震える声で沙千代が言った。

 


私は砂利に頭を擦り付けるようにして、頭を下げた。砂利に正座をしたまま。


手のひらに小石が食い込んで痛い。



「申し訳ございませんっ……わ……わたくしが、あのお方ご身分と釣り合わないことも、私などがおそばにいることのできないお方であることも存じ上げております」


私は涙が止まらなかった。


「ただ、お世話をしたいのです。あの方のご記憶が戻るまででいいですので、お願いでございます」



「香席で3年前にあなたに会ったわ。あの人が師範代になった香席でね。あなた、やっぱり、あの時から……?」


私は顔を上げられなかった。真実だからだ。


「そんなわけないでしょう、鹿乃子さん」


静かな声がした。

玉砂利を踏む音が近づいてくる。

私が顔を上げると、綾小路理人さんが立っていた。


すぐに私の肩を抱いて、立ち上がらせてくれた。私の手のひらからは血が出ていたが、私は気にしなかった。


家元が走ってやってきた。私の様子を一目見て、何があったか察知したようだ。



「これはこれは九重様。私どもは、お願いされて、ご嫡男の面倒を見させていただいております。政変でご不便な状況もあるということで、こちらで密かに匿っていた状況でございます。九重様がこのように声を荒げてしまいますと、他の方にこの状況が漏れてしまいます。どうか、くれぐれもご内密にしたい状況でございます」



鹿乃子様は、ハッとした様子で、周囲の人を見た。


鹿乃子様の身に何が起きたのかは、帝都中の誰もが知っている話だ。


誰の話を、何の話をしているのか、人々の口に簡単にのぼるだろう。



「わかりました。今日は帰ります。お騒がせしました。ごめんなさいっ!」



鹿乃子様はそれだけ震える声で言うと、身を翻して走るようにして表に待たせてあった自動車の方に行った。侍女らしき方々が2名、慌ててついて戻って行った。



「来なさい」


家元は厳しい声で私に言うと、母屋の方に戻って行った。


「さっちゃん、ありがとう」

「ううん。りんちゃん、大丈夫?」


私は黙ってうなずいた。なんとか笑顔を作ろうとして、失敗した。ぎこちなく微笑もうとする私の肩を、沙千代はそっと抱いた。


理人さんが私に言った。


「りんさん、ごめんなさい。私がダメだったんだ。私がここに来たことが、私を見かけたと言う花房の舞の生徒さんから、九重鹿乃子さんに伝わってしまった」


理人さんは頭を下げた。



「鹿乃子さんは、昔から勘が鋭い方なんだ。子供の頃から、雅親のこととなると人が変わったみたいになる人でね。舞を習わない私が花房の屋敷に来ていたと言うだけで、雅親と紐付けてしまった。九重の家は、香りの移ろいに敏い。何かを感じ取ったのかもしれない。あなたが、雅親が師範代を務めていた香席に来ていたのも覚えてらしたんだ」



私は力無く首を振った。


「いえ、いずれどこかで、バレてしまうことですから、理人さんのせいではございません」



でも、鹿乃子様はすごい執念をお持ちなのだと分かった。


――花房の屋敷で理人さんをお見かけしたという話だけで、私と先輩を紐づけてしまわれた……。



私は、理人さんに頭をもう一度下げて、家元の元に行くために母屋に向かって歩き始めた。



「さっちゃん、私の部屋で少し待っていてくれる?」



私は沙千代を振り向いてお願いをした。



理人さんは私に会釈をして、離れの方を指さしてうなずくと、足早にその場を去って行った。


「りんちゃん、わかったわ。お部屋で待っている」


沙千代は頷いた。


沙千代は昔から花房の屋敷に出入りしているので、家の者は皆、沙千代を私の部屋に案内してくれるだろう。


私は鉛のように重く感じる足を無理やりに動かして、家元の元へ向かった。




座敷の窓は開け放たれ、庭に咲く菖蒲の花が見えていた。家元である父の部屋から見える庭には、毎年菖蒲の花が咲くのだ。



暦はすでに6月に入っていた。


雨に煙るモダンな洋館や、石畳が濡れる銀座の街並みを、つい昨日先輩と散策してきたばかりだった。しとしとと降る雨が続く中で、晴れ間を縫うようにして、私と先輩は新緑の中で散歩を重ねていた。


今日は、束の間の晴れ間が見えたと思ったら、こんなことになってしまった。



「大丈夫か?」


家元は私の目をまっすぐに見て聞いた。


「はい、このくらいはなんともございません」


私は静かに答えた。


「あのお方の記憶はまだ戻らない……だが、確実に顔色が良くなり、心なしか最近笑ってらっしゃる姿を拝見できるようになったと思う」


家元は私に静かに言った。


「よくやってくれていると思っている」


私はハッとして家元である父を見つめた。



「これからも、いろいろある。政変が起きたということは、嵌められたのだ。元に戻そうとする者たちと、それを阻む者、いろんな方がいらっしゃる。九重様は、家の都合より、鹿乃子様のお気持ちで動かれたのだと思う。引き続き、頼みたいが、りんにできるか?」


私は胸のうちで、覚悟を決めた、と思った。


「はい、私ができる限りのお世話をさせていただきとうございます」



私は家元に頭を下げてお願いした。


「分かった。ありがとう」



家元は優しい目をして、私を見た。幼い頃、父のこんな目に遭遇したことがあった。私は不意に懐かしい思いがして、笑みをこぼした。



「その調子だ、笑っている方が福が来る。辛ければ、また泣けばいい」


コトンッと、池の鹿威しが鳴った。



私は静かに部屋を辞して、沙千代が待ってくれているはずの自分の部屋に行った。


「さっちゃん」


沙千代は昔のように、私の部屋の畳敷きの和室の上に置かれたベッドの脇の椅子の上に座って待っていてくれた。


小さなテーブルの上には、英国製純銀のティーセットが置かれてあり、ティーカップには紅茶が注がれていた。


カステラに羊羹を包んだシベリアが小皿に置かれていた。



私が顔を見せるとホッとした表情になった沙千代は、笑顔でシベリアの小皿を持ち上げて見せて、食べ始めた。


「顔を見たら、ホッとしたわよ。りんちゃん、食べよ」

「うん」



私たちは、しばらく無言でシベリアを頬張った。


熱い紅茶を喉に流し込み、涙も一緒に流せたような気持ちになった。


「怒って当然だから、鹿乃子様は」


私はポツンと言った。



「あっ、忘れていた。氷嚢ひょうのうを用意してもらったのよ」


沙千代はそう言って、私に差し出した。


しばらく、冷たくひんやりとした氷嚢を顔に当てると、気分もだいぶ落ち着いてきた。


「よし、じゃあ、鷹条様のところにいきましょう」



沙千代に手を引かれるようにして、私は離れに行った。歩いている間、沙千代は私の手を繋いでいた。


離れの前で、腕組みをした先輩がいた。心配そうな顔をした先輩は、いつかの土砂降りの日の先輩を私に思い出させた。


先輩は、私の姿を見るなり、走ってきた。


そして、私をそのまま抱きすくめた。


「ごめん……本当にごめん……私のせいで、すまない」


先輩は抱いていた手を解くと、私の頬を両手で包み、私の顔をのぞき込んだ。


「痛かったろう。本当にすまない。私のせいだ」


先輩の瞳は透き通っていて、いつかの、過去のたくさんの先輩の瞳と同じだった。キラキラした瞳で私の目をごくごく近くからの見つめていた。



「いえ……平気ですよ。たいしたことありませんよ」

 

私は安心させるようにゆっくりと言った。


先輩はもう一度私を抱きしめた。



理人さんは、そばでその光景を驚いたように見つめていた。


沙千代の姿が目に入った先輩は、沙千代に深々と頭を下げた。


「不愉快な思いをさせてしまった。本当にすまない。りんさんを庇ってくれたと理人から聞いた。ありがとうございました」


先輩の言葉に、沙千代は胸が打たれたように口元を綻ばせて胸に手を当てた。


私を見て、くしゃっとした笑顔になり、黙って頷いて合図をした。


「タエさん、氷嚢、あるかい?りんさんの頬がまだ腫れているから、冷やしたいんだ」


先輩は、私の肩を抱くようにして、離れに連れて行き、私はタエさんが用意してくれた氷嚢で頬を冷やした。沙千代とタエさんは、テキパキと夕飯の支度を一緒にしてくれていた。


先輩は、理人さんと何かを相談しているようだった。



「ちゃんと説明しよう。今の私には、りんさんがどうしても必要なんだ」


先輩の声が、不意に耳に飛び込んできた。

私は氷嚢を握りしめたまま、息を止めた。


菖蒲の花の季節がやってきていた。




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