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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第二章:思い出せないのに、どうして私に優しくするのですか?

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赤いドレスの女性が、先輩に抱きつきました

牛鍋屋は賑わっていた。


「あら?」


不意に、甘い香水の匂いがした。

赤いドレスの裾が、湯気の向こうで揺れる。

次の瞬間、その人は足を滑らせたように、先輩の胸元へ手を添えた。


肩まで短く切り揃えていながら、体にピッタリした赤いドレスを着た美女だ。モダンガールだ。



「なっなんですか?」


先輩は驚いた様子でその若い女性を引き離そうとした。ますます、その女性は、ふらりとよろめき、先輩の体に密着した。


「一色百合乃です。あなたに今、惚れましたわ」


とんでもない可愛らしい女性だった。頬を赤く上気させ、キラキラした瞳で先輩を見つめている。


帝都の貴公子と呼ばれる先輩が、令和でいうアイドルなら、彼女も今をときめくアイドルといった存在なのだろう。女性グループのセンターにいそうな、何か芳しい香りをあたりに放ちそうな女性だった。肌に密着させたモダンガールの衣装も、とてもキマっていて、彼女が先輩に密着する光景は、2人揃うと美男美女過ぎた。



「……今まで会ったことないですよね」

「ないです。ふふっ。百合乃、あなたみたいな人をずっと探していました。あなたは、私の運命の人です」


私は衝撃を受けて、何もできなかった。体が固まり、湯気の向こうで、格好にそぐわない純情そうな若い娘が、先輩に抱きつくのをなす術もなく見ていた。


先輩はさっと百合乃と名乗った女性の腕を振り解き、紳士的に笑顔を作って、私の方をさりげなく示した。


「あなたの申し出は断ります。私には連れがおります」


先輩の言葉に、初めて百合乃さんは私を見た。


「あっら、こちら弟さん?まぁ可愛らしい」


私は目を伏せた。どうしたら良いのかわからない。


私の中で、初めて、詰襟姿で丸眼鏡で先輩と連れ立って歩くという幸せに浮かれている自分が、惨めな存在なのかもしれないという疑いが芽生えた。


――私は何をしていたのだろう?


――浮かれて、先輩の横にいれるということに夢中になってしまって……。


「弟よりずっと大切な人だ。失礼だが、お引き取りいただきたい。今日、私はこの人と牛鍋を楽しみにやってきたのだ。この人にご馳走したいのだ。だから、邪魔しないで」


先輩は百合乃さんにそう言った。


一色百合乃さんはあっけに取られた表情をした。


「えっ!?」


まるで、お断りされたことが今まで一度もないと言った表情だ。


先輩は、牛鍋屋の個室から、一色百合乃さんを静かな仕草で追い出してしまった。そのやり方はエスコートしているようにも見えたが、表情は厳しい表情をしていた。


「りんさん、気分を害させてしまったね、すまない」


先輩は私を気遣って、椅子を引いて、私を座らせてくれた。丸眼鏡が湯気で曇った。涙で私の目が曇っているのかもしれない。どっちなのか、もはや分からなかった。


「私は……おそばにいれるので、つい……浮かれていました……」


先輩は、私の言葉を聞いて、どんな表情をしているのか分からなかった。私がうつむいていたままだったので。


「りんさん、顔をあげて。ほら、美味しいから食べよう」


先輩は、私の牛鍋をお皿に取り分けてくれた。銀縁メガネも外し、私の丸眼鏡もゆっくりと外してくれた。


「個室だから、眼鏡はもういいでしょう。私はあなたにご馳走したかったのです。食べてください。ここは美味しいのでしょう?」


先輩は少年のような笑顔を見せた。伏し目がちで店内に入ってきた時とは大違いだ。


「私はあなたがそばを歩いてくれて、そして、私と一緒に歩くために、あなたがその詰襟を着てくれて、本当に感謝しています。あなたに、そんな格好をさせてすまない」


先輩は、私を見つめて言った。


「でも、あなたのその姿を見ると、なぜかここがとても温かくなって、落ち着くのです」


先輩は自分の胸をそっと拳で叩いて見せた。


「あなたがそばを歩いてくれて、今日、私はとても幸せだ」


先輩はそう言って、恥ずかしそうに額に触れた。そして、長い指がそっと私の頬に伸びてきて、私の涙を拭ってくれた。


「ずっとこうしたかったんだ。初めて離れで会った時も、あなたは涙をこぼしたでしょう?あの時から、ずっとこうしたかった」


先輩は優しく私に言った。



「な……何か思い出しましたか?」


私は半泣きの小さな声で聞いた。


先輩は困ったような顔をして、首をかしげた。


「思い出していない。でも、心が温かいんだ。あなたと歩いた四谷から新宿御苑までも、御苑の中でも、活動写真館でも、ここでも、なぜか心がとても温かいんだ。それは、この2年で初めてのことで、私はその感覚を以前も持っていたような気がする」


先輩はゆっくりと話してくれた。



私は泣きながら、牛鍋を食べた。

湯気で視界が滲んだ。

でも不思議なくらい美味しかった。



帰りは路面電車で帰った。離れまでの道のりは、幸せな徒労感に溢れていた。狭い路面電車の中で私と先輩の肩はぶつかり、私たちは、夕暮れまでの道のりを、電車から見える遠くに沈む赤い太陽を見つめながら、黙って帰った。


幸せだった。



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