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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第二章:思い出せないのに、どうして私に優しくするのですか?
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記憶を忘れた先輩に『可愛い』と言われました

「よし、りんさん、では行こうか」

朝食を終えた先輩が、金縁眼鏡を押し上げて私を見た。私は慌てて奥の部屋へ駆け込み、夏用の詰襟に袖を通した。


今日は新宿へ行く日。


以前、先輩が私を連れて行ってくれた道を、今度は私が案内する。

離れの暮らしにも、少しずつ朝の決まりごとが増えていた。新聞が離れ用に用意されたのと、ラジオが増えて、縫い物の間の楽しみが増えた。



先輩は、お母様が仕立ててくれたという洒落た洋装で、ベストを着て金縁メガネをしていた。長く伸びた髪が、どことなく色気を漂わせていて、何度見てもドキッとしてしまう。


――私に笑いかける仕草は、昔と変わらない……。



「行ってらっしゃい!」

「タエさん、お昼はいらないと思う。今日は、りんさんと一緒に牛鍋屋に行ってみることにしたから」


「はいはい、存じ上げておりますよ。美味しいご飯をお二人で食べてらしてください」


「タエさん、色々、申し訳ないのですが、行ってまいります」

「りんさん、遠慮なんて要らないのですよ」


タエさんは火打石を験担ぎにカチッと叩いて微笑んだ。


「これはぼっちゃまが記憶を取り戻すための散策の旅なのですから」


「あんまり……プレッシャーをかけないで、タエさん」



先輩は真っ青な空を見上げて、眩しそうな笑顔を見せて言った。


それだけで、私はドキッとしてしまう。


まずは、四谷の花房の屋敷から歩いて、武家屋敷や大名屋敷を通り抜ける。

そして、新宿御苑まで行く。


そこでお花見をしたり散歩をする。11時からは武蔵野館で活動写真を見る。

牛鍋屋に寄って、帰りは路面電車で四谷まで戻る。


これが全工程だ。


以前に先輩が私を連れて行ってくれたコースだった。桜の花見の時のだ。


今頃の新宿御苑は、杜若が咲いている頃だろう。


先輩の髪が5月の風に揺れていた。


――先輩、前にもこうやって歩きました……思い出してくれますか……?


私は以前のことと比較しながら歩いてしまった。


金縁眼鏡の奥の瞳は楽しそうに煌めいていた。


「道は覚えていらっしゃいますよね」

「あぁ、この辺りの道は子供の頃から通っているからね。自分の家の庭のように覚えているよ」


「新宿御苑で桜の花見をしたことがありますか?」

私は思わず聞いてしまった。私が先輩に連れて行ってもらった時は、先輩は子供の頃以来に来たと笑って仰っていた。


「あるよ。子供のころね。だから、今日は久しぶりだな」


私は胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。


――やっぱり、覚えていらっしゃらないのですね。


桜の木の下を歩いたことも。私にお団子を半分くださったことも。


「ですよね。今日も杜若のお花など、たくさんのお花が綺麗に咲いていると思います。春には桜が綺麗なんですよ」

「そうなんですか」

「……はい!」


そう言って、私は笑った。

先輩に気づかれないように、そっと視線を落としながら。


初夏の風が、石垣の向こうの若葉を揺らしていた。市電の鈴の音が遠くで鳴る。



先輩は背が高く、歩幅も大きい。

私は少し小走りになりながら、隣を歩いた。


「りんさん、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」


先輩はそう言って、少し歩く速さを緩めてくれた。


人力車や自動車が走る道ではない裏道を、私たちは軽やかな足取りで歩いて行った。



――今日、新たな思い出ができるといいな。


私はそう思って隣を歩いていた。




御苑の木陰のベンチに座り、私たちは休憩していた。風が涼しい。


藤が終わりかけていて、新緑に溢れ、薔薇の始まりを告げていた。芝生の上では子供達が走りまわっている。


あたりは初夏の芳しい香りに満ちていた。温室のガラ越しの光が反射し、キラキラと太陽の下で輝いている。初夏の風が、先輩の長い前髪を揺らした。


「あ、てんとう虫!」


私は先輩のシャツの袖にてんとう虫がいるのを見つけて、とっさに手を伸ばした。先輩も指を伸ばし、私たちの手が触れ合った。


――あっ!


電流が放たれたかのような衝撃が走った。触れた瞬間、胸の奥に熱が走った。


先輩も思わずビクッとした様子で、私の手を握った手を離した。


「す……すまないっ」


先輩は私に謝った。私は温かい指に、2年前の記憶が呼び起こされてしまいそうで、下を向いて顔を見られないようにした。顔が真っ赤になっていたと思う。



――恥ずかしい……。


先輩に私が何を考えたか分かるはずがないのだけれど、私の脳裏に浮かんだのは、あの土砂降りの夜のあの出来事の先輩の姿だったので、私は赤面してしまった。


先輩は軽く咳払いをした。先輩の顔をそっと見上げると、先輩はなぜか頬を真っ赤に染めていた。


――せんぱい……?


先輩はいきなり私の食べかけの団子の串を手に取り、口にほおばった。


そして、真っ赤になった。


「し……失礼した。これはりんさんの団子でしたねっ……」


先輩は自分の振る舞いに我ながら驚いた様子で、私に釈明をしようとして、謝ってきた。


いつもの冷静な先輩には似つかわしくない慌てっぷりに、私も思わず吹き出してしまった。


ふふっ。


「り……りんさん、ちょっと笑わないで……可愛すぎるから……」


先輩の口から、とんでもない言葉が飛び出したような気がして、私はハッとして先輩の顔を見上げた。笑うと少年っぽい先輩は、顔を真っ赤にして、団子をもぐもぐしていた。



――可愛い……?可愛いとおっしゃいましたか?


先輩の言葉が、胸の奥に落ちてきた。

喜びで、息ができなくなりそうだった。


私も真っ赤になり、黙ってお茶を飲み、むせてしまった。

咳き込む私を、先輩は慌てて背中をさすってくれた。新宿御苑の木陰のベンチで、詰襟に丸眼鏡の私と先輩は、奇妙な2人に見えたかもしれない。


そのあと、新宿武蔵野館に移動して、活動写真を見る予定だった。私は先輩に連れられてきたことが何度かあった。


贅沢な作りのそこは、私にとっては先輩とやってきた大切な思い出の場所だ。


新緑溢れる明るい御苑から、薄暗い館内に入ると、別世界だった。

隣に座る先輩の横顔が、映写機の光でいつもより美しく照らされていて、私は心が落ち着かなかった。


最初、私は何度も先輩の横顔を見てしまった。映画より、先輩を見てしまう。


――楽しめているのでしょうか?


先輩の様子を私は確認しすぎて、先輩と何度も目が合った。


その度に、顔を寄せて「なんです?」と先輩が聞いてくるので、耳元で先輩の低い声が聞こえると、私はその度に飛び上がりそうになった。


先輩の顔が接近してくるだけで、心拍数がどうかなりそうだった。


そのうち、私は映画に夢中になった。手を握り締め、夢中で画面にくぎ続けになっていた。


「綺麗だな」


声がして振り向くと、先輩は私の顔を見ていた。


――虹の時と同じ……!


私は赤面してしまい、先輩の顔を見つめるのが恥ずかしくなり、慌てて画面の方に視線を戻した。

胸の鼓動が止まらなかった。


増水した川の上にかかった虹を見た時と——同じ表情だった。




活動写真館を出ると、初夏の陽射しが眩しかった。

「お昼にしましょうか」

「えぇ!」

私たちは、予約していた牛鍋屋へ向かった。

その時はまだ知らなかった。


そこで、とんでもない女性と出会うことになるなんて――。



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