記憶を忘れた先輩に『可愛い』と言われました
「よし、りんさん、では行こうか」
朝食を終えた先輩が、金縁眼鏡を押し上げて私を見た。私は慌てて奥の部屋へ駆け込み、夏用の詰襟に袖を通した。
今日は新宿へ行く日。
以前、先輩が私を連れて行ってくれた道を、今度は私が案内する。
離れの暮らしにも、少しずつ朝の決まりごとが増えていた。新聞が離れ用に用意されたのと、ラジオが増えて、縫い物の間の楽しみが増えた。
先輩は、お母様が仕立ててくれたという洒落た洋装で、ベストを着て金縁メガネをしていた。長く伸びた髪が、どことなく色気を漂わせていて、何度見てもドキッとしてしまう。
――私に笑いかける仕草は、昔と変わらない……。
「行ってらっしゃい!」
「タエさん、お昼はいらないと思う。今日は、りんさんと一緒に牛鍋屋に行ってみることにしたから」
「はいはい、存じ上げておりますよ。美味しいご飯をお二人で食べてらしてください」
「タエさん、色々、申し訳ないのですが、行ってまいります」
「りんさん、遠慮なんて要らないのですよ」
タエさんは火打石を験担ぎにカチッと叩いて微笑んだ。
「これはぼっちゃまが記憶を取り戻すための散策の旅なのですから」
「あんまり……プレッシャーをかけないで、タエさん」
先輩は真っ青な空を見上げて、眩しそうな笑顔を見せて言った。
それだけで、私はドキッとしてしまう。
まずは、四谷の花房の屋敷から歩いて、武家屋敷や大名屋敷を通り抜ける。
そして、新宿御苑まで行く。
そこでお花見をしたり散歩をする。11時からは武蔵野館で活動写真を見る。
牛鍋屋に寄って、帰りは路面電車で四谷まで戻る。
これが全工程だ。
以前に先輩が私を連れて行ってくれたコースだった。桜の花見の時のだ。
今頃の新宿御苑は、杜若が咲いている頃だろう。
先輩の髪が5月の風に揺れていた。
――先輩、前にもこうやって歩きました……思い出してくれますか……?
私は以前のことと比較しながら歩いてしまった。
金縁眼鏡の奥の瞳は楽しそうに煌めいていた。
「道は覚えていらっしゃいますよね」
「あぁ、この辺りの道は子供の頃から通っているからね。自分の家の庭のように覚えているよ」
「新宿御苑で桜の花見をしたことがありますか?」
私は思わず聞いてしまった。私が先輩に連れて行ってもらった時は、先輩は子供の頃以来に来たと笑って仰っていた。
「あるよ。子供のころね。だから、今日は久しぶりだな」
私は胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。
――やっぱり、覚えていらっしゃらないのですね。
桜の木の下を歩いたことも。私にお団子を半分くださったことも。
「ですよね。今日も杜若のお花など、たくさんのお花が綺麗に咲いていると思います。春には桜が綺麗なんですよ」
「そうなんですか」
「……はい!」
そう言って、私は笑った。
先輩に気づかれないように、そっと視線を落としながら。
初夏の風が、石垣の向こうの若葉を揺らしていた。市電の鈴の音が遠くで鳴る。
先輩は背が高く、歩幅も大きい。
私は少し小走りになりながら、隣を歩いた。
「りんさん、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
先輩はそう言って、少し歩く速さを緩めてくれた。
人力車や自動車が走る道ではない裏道を、私たちは軽やかな足取りで歩いて行った。
――今日、新たな思い出ができるといいな。
私はそう思って隣を歩いていた。
御苑の木陰のベンチに座り、私たちは休憩していた。風が涼しい。
藤が終わりかけていて、新緑に溢れ、薔薇の始まりを告げていた。芝生の上では子供達が走りまわっている。
あたりは初夏の芳しい香りに満ちていた。温室のガラ越しの光が反射し、キラキラと太陽の下で輝いている。初夏の風が、先輩の長い前髪を揺らした。
「あ、てんとう虫!」
私は先輩のシャツの袖にてんとう虫がいるのを見つけて、とっさに手を伸ばした。先輩も指を伸ばし、私たちの手が触れ合った。
――あっ!
電流が放たれたかのような衝撃が走った。触れた瞬間、胸の奥に熱が走った。
先輩も思わずビクッとした様子で、私の手を握った手を離した。
「す……すまないっ」
先輩は私に謝った。私は温かい指に、2年前の記憶が呼び起こされてしまいそうで、下を向いて顔を見られないようにした。顔が真っ赤になっていたと思う。
――恥ずかしい……。
先輩に私が何を考えたか分かるはずがないのだけれど、私の脳裏に浮かんだのは、あの土砂降りの夜のあの出来事の先輩の姿だったので、私は赤面してしまった。
先輩は軽く咳払いをした。先輩の顔をそっと見上げると、先輩はなぜか頬を真っ赤に染めていた。
――せんぱい……?
先輩はいきなり私の食べかけの団子の串を手に取り、口にほおばった。
そして、真っ赤になった。
「し……失礼した。これはりんさんの団子でしたねっ……」
先輩は自分の振る舞いに我ながら驚いた様子で、私に釈明をしようとして、謝ってきた。
いつもの冷静な先輩には似つかわしくない慌てっぷりに、私も思わず吹き出してしまった。
ふふっ。
「り……りんさん、ちょっと笑わないで……可愛すぎるから……」
先輩の口から、とんでもない言葉が飛び出したような気がして、私はハッとして先輩の顔を見上げた。笑うと少年っぽい先輩は、顔を真っ赤にして、団子をもぐもぐしていた。
――可愛い……?可愛いとおっしゃいましたか?
先輩の言葉が、胸の奥に落ちてきた。
喜びで、息ができなくなりそうだった。
私も真っ赤になり、黙ってお茶を飲み、むせてしまった。
咳き込む私を、先輩は慌てて背中をさすってくれた。新宿御苑の木陰のベンチで、詰襟に丸眼鏡の私と先輩は、奇妙な2人に見えたかもしれない。
そのあと、新宿武蔵野館に移動して、活動写真を見る予定だった。私は先輩に連れられてきたことが何度かあった。
贅沢な作りのそこは、私にとっては先輩とやってきた大切な思い出の場所だ。
新緑溢れる明るい御苑から、薄暗い館内に入ると、別世界だった。
隣に座る先輩の横顔が、映写機の光でいつもより美しく照らされていて、私は心が落ち着かなかった。
最初、私は何度も先輩の横顔を見てしまった。映画より、先輩を見てしまう。
――楽しめているのでしょうか?
先輩の様子を私は確認しすぎて、先輩と何度も目が合った。
その度に、顔を寄せて「なんです?」と先輩が聞いてくるので、耳元で先輩の低い声が聞こえると、私はその度に飛び上がりそうになった。
先輩の顔が接近してくるだけで、心拍数がどうかなりそうだった。
そのうち、私は映画に夢中になった。手を握り締め、夢中で画面にくぎ続けになっていた。
「綺麗だな」
声がして振り向くと、先輩は私の顔を見ていた。
――虹の時と同じ……!
私は赤面してしまい、先輩の顔を見つめるのが恥ずかしくなり、慌てて画面の方に視線を戻した。
胸の鼓動が止まらなかった。
増水した川の上にかかった虹を見た時と——同じ表情だった。
活動写真館を出ると、初夏の陽射しが眩しかった。
「お昼にしましょうか」
「えぇ!」
私たちは、予約していた牛鍋屋へ向かった。
その時はまだ知らなかった。
そこで、とんでもない女性と出会うことになるなんて――。




