始まったばかり
夕方間際、夕飯の段取りを済ませた私は月岡の華道のお稽古に行った。沙千代のことが気になったからだ。
「あら、花房のお嬢様、いらしたのね!」
20人あまりの女中さんやお弟子さんから次々に声をかけられた。子供の頃から月岡のお屋敷にはよくお邪魔していたので、ここ2年、足が遠のいていたが、月岡の皆さんは私のことを覚えてくれていた。
「沙千代さんのお稽古を受けようと思いまして」
「ちょうど今始まりますよ。さ、こちらへ!」
私は昔は一緒に稽古を受けてきた沙千代の教室に滑り込んだ。
「よろしくお願いいたします」
「では、みなさん、今日も美しく生けてまいりましょう」
沙千代は私を見つけて一瞬目を丸くしたが、口元を綻ばせた。私は軽く会釈をして、お花のお稽古に精進した。
小一時間ほどすると、沙千代の教室が終わった。
「りんさん、相変わらず、お上手ですわ。舞の方でもまたよろしくお願いしますね」
「本当に、花房さんは昔から習われているからか、かないませんわ」
口々に顔見知りの生徒さんにお声をかけられ、私も嬉しかった。ここ数日、離れにこもっていたので、外の世界の方とお会いして、新鮮な気持ちだった。
「りんちゃん、こっちこっち」
沙千代に手招きされて、私は慣れ親しんだ月岡の屋敷の奥深くに案内された。沙千代の部屋があるのだ。
久しぶりにくる沙千代の部屋は、昔と少し変わっていた。大人の部屋になったというべきだろうか。だが、子供の頃から見ている内装はあまり変わらず、間取りも同じで、私は一気に子供の頃に戻るような気持ちになった。
「りんちゃん、鷹条様とは真剣なのよね?」
「えぇ」
「そう。ずいぶん、私が知っている鷹条様とは雰囲気が違うようだったから」
「記憶をなくされているの。私のことも覚えてらっしゃらないわ」
沙千代は私の顔をハッとして見つめた。
「……覚えていない……?何もかも?あなたと帝都を巡ったことも?」
沙千代の言葉で、私の胸の奥に何かがつかえた。熱いものが込み上げてくる。涙を堪えようとして目をしばたいた。
でも、だめだ。鼻の奥がつんとして、みるみるうちに涙が溢れた。切ない感情で胸がしめつけられて痛い。
はぁ……ふ……。
息がうまく吸えない。涙が次々溢れて、私は沙千代の肩に額を押し付けた。
「りんちゃん、息をして、ほら!大丈夫だから」
沙千代の温かい腕が私を抱きしめた。
嗚咽が込み上げてくる。肩が震える。私は声にならない声をあげて、泣いた。後から後から涙が溢れてきて、みっともなく泣いた。
止めていた思いが決壊を起こしたかのように溢れた。ただ、ただ、沙千代の前で幼い子供の頃のように泣いた。
「いいのよ、いいのよ。大丈夫だから、りんちゃん、泣いていいのよ」
沙千代はそう言って私の背中をとんとんと優しく叩いてくれた。
沙千代の肩は温かかった。
「……ずっと……ずっと……誰にも言えなかった……」
沙千代はうんうんとただ頷いて、背中を優しく叩いていた。
「恋をしてしまったの……鷹条様なんて芸事の家の娘には身分違いなのに……恋をしてしまったの……」
沙千代も泣いていた。
「りんちゃん……辛かったねぇ……わかるよ……」
沙千代は泣きながら、私の肩を抱きしめた。
「ね……私、先輩と……その……一線を超えてしまったのよ……2年前、先輩の記憶が無くなる前のことなの」
私は沙千代の顔を見上げて、必死に本当のことを、言葉を振り絞って言った。
沙千代の目は大きく見開かれて、驚いた顔から一気に心配そうな顔になった。
「りんちゃん!鷹条さんは、本当にそのこと覚えていないの?」
私はうつむいて、泣きながら震えながらうなずいた。
「……なんにも……覚えていないの……」
沙千代は黙って、私の背中を優しくとんとん叩いてくれていた。
「いい?よく聞いて、りんちゃん。鷹条様が花房の家にきたのは偶然じゃないわよ」
――え?
私は顔を上げた。
「赤い糸で結ばれているかのように戻ってくるのかもしれない。昔ね、うちに鷹条の奥様がよく稽古にいらした際、香りが変わったのよ……」
沙千代はどこか遠くを見つめた。
「花の香りではない香りになったの。子供だったけれど、今でも覚えているわ。鷹条のお家の方々って香りにまつわる不思議なお話が昔からあるでしょう?」
沙千代は励ますように、涙に濡れた私の顔をのぞきこんだ。
「花房のお家に来たのは、りんちゃんでなければ、鷹条様の記憶を戻せないからかもしれない。でも、りんちゃんが一緒にいれば、きっと記憶は戻る」
沙千代は私の肩をギュッと抱きしめた。
「分かった?まだ、終わっていない。りんちゃんと鷹条さんの恋はまだ始まったばかり。これからなのよ」
沙千代は私の顔をじっと見つめて諭すように言った。
「……始まったばかり?」
私はその言葉がストンと胸に落ちた。
切ない思いから、前を向けるような言葉に聞こえたのだ。
「私もね、駆け落ちしようかと思っている人がいるんだ。新聞社の御曹司でねぇ。今度会わせるね。りんちゃんと話せて良かった。駆け落ちをもうちょっと待ってみる。もうちょっと踏ん張ってみるかぁ」
沙千代は天を仰ぐようにしてそう言うと、私の顔をニコッと見つめた。
「りんちゃん、泣いたらお腹空いたでしょ。カステラ持ってくる!」
沙千代は元気よくそう言うと、パタパタと部屋を出ていった。
「私の恋は始まったばかり」
声に出して言ってみた。
――そっか。
――そうなのか。
先輩の記憶はないけれど、今も私のそばにいてくれる。私は先輩のおそばにいられる。
なぜだが、その言葉が私の心に明かりを灯したのだ。
美味しいお茶とカステラをいただいて、私は洗い流されたような気持ちで帰路に着いた。
帰ると、離れの前で、先輩は、一番星を見つめて佇んでいた。
「遅くなってごめんなさい。月岡でお花の稽古をしてきました」
私が急足で駆け寄ると、先輩は振り向いて穏やかな顔で言った。
「りんさん、今日は星が綺麗ですよ。月も綺麗ですね」
私は空を見上げた。
はずむ息で先輩のそばに駆け寄ったので、息を整えながら、空を一緒に見上げた。
「あなたがメガネをかけている姿、月みたいですね」
「月?」
「みていると、なぜか落ち着くんです」
私は先輩の顔をハッとして見上げた。
こんな言葉は言われたことが今までなかったと思う。
「私は何も覚えていない。皆が私のことを話すのを聞いて、他人の話のように聞こえました。でも、あなたのそばにいると、この離れにいると、なぜか私は、今はそれでもいいと思えました。この2年、ずっと焦っていた気持ちが、嘘のように消えたように思いました」
先輩の言葉に、私は胸をつかれるような思いだった。
――2年間、先輩はお一人で苦しまれていた!
「りんさん、また、帝都を一緒に散歩してくれますか?」
その言葉に私は胸の奥がじんとしてしまった。
「はい、喜んで」
先輩は穏やかに笑った。
夜空には、月と一番星が並んでいた。
私たちはしばらく黙ったまま、春の夜空を見上げていた。




