りんさん、と呼ばれた日
――せ……せんぱい……?
私をにこやかに見る先輩は、私に初めて会ったような顔をして私を見た。
先輩の目に映る私は、いまや知らない娘だ。
雨で冷えた離れには火鉢が置かれ、赤い炭が静かに熾っていた。
父は言った。
「記憶を失っている。人目を避ける必要のあるお立場の方だ。高貴な生まれのお方なので、やがてお立場を取り戻すまでの間、我が家でお世話させていただく」
その3点だけが私に伝えられたこと。
――私のこともお忘れですか?
「お体の調子はいかがですか?」
私はさりげなく先輩の顔を見上げた。
窓から先輩の肩に光が差し込み、雨間に太陽が差し込んだのか、後光がさしているように見えた。私には先輩が眩しすぎた。
涙が溢れた。
無事だった。
それだけで胸がいっぱいだった。
どれほどお慕い申し上げていたか、本当は伝えたかった。
だけれど、言えなかった。
「なぜ泣く?」
先輩は、私の涙に戸惑ったような表情で聞いた。そう尋ねた先輩の指先は、一瞬だけ私の顔の涙を払おうとするかのように私の頬に手が伸びた。けれども、先輩自身も、なぜそんなことをしたのか分からないというように、手をそっと下ろした。
「いえ、以前、私の香の師範代をしていただきました。ご無事でいらしたことに安堵して、つい……」
「そうか。私のことを知っておったか」
先輩の顔が、曇った。
「何も覚えておらぬ。すまない」
先輩の言葉は冷たく胸に響いた。
――本当に、わたくしのことも全てお忘れになったのですか……?
私の心は底なしの沼に落ちたように、沈んだ。
私がこんなにも恋焦がれているのに、先輩は私のことなど、綺麗に忘れてしまった。
おりん、とまた呼んで欲しかった。
「名はなんと言う?」
「おりんでございます」
「そうか、りんさん、これからよろしくお願いします」
およそ他人行儀な言葉が先輩の口から出た。
雨の音が止まないあの日、そのあとも幾度となく私を抱きしめてくれた先輩は、ここにはもういなくなった。
私の心は震えた。
「よろしくお願いします。鷹条様」
私は両手を畳について、ゆっくりと頭を伏した。
涙を見られぬように。
唇の端が震えてしまった。
そのまま後退り、顔を見られぬように、呼吸の乱れを悟られぬように息を止めて、姿を隠した。
引き戸を開けて、玄関を飛び出した。
雨に顔が濡れて、涙なのか雨なのか分からぬように、濡れながら歩いた。
藤棚の下で立ち止まった。
雨が肩を濡らしていた。
足が、動かなくなった。
私のを抱きしめてくれた先輩は、私のことを覚えていない。
忘れられてしまうほど、私は小さな存在だったのかもしれない。
鷹条雅親。
その名を、私は何度心の中でお呼び申し上げただろう。
帝都で知らぬ者などいない高貴なお名前を、私だけが「先輩」と呼んでいた。
鷹条家は帝都でも知らぬ者のない名家。
私などがお近づきになるには、あまりにも遠い存在だった。
それでも先輩は、私を親しみを込めて「おりん」と呼んでくれた。
私と先輩だけの、2人だけの秘密だった。
――おりん。
あの声を、忘れられるはずがなかった。
甘く囁き、耳元で私を慈しむ言葉を何度も言ってくださった先輩。
私たちは、なんだったのだろう。
私は頭を振った。
先輩がご無事であったこと。
これは救い。
先輩は、やがて本来あるべき場所へ戻られる。
私はお支えしよう。
先輩のことを、誰より知っている私が、おそばでお支えしよう。
――私は二年と少し前のことを、思い出した。




