忘れられた花嫁——先輩は、私を忘れてしまった
「花嫁にする」と先輩は言ってくれた。 私の全てを捧げた夜に。 白檀の香りの中で。
その約束を守ってくれる人は—— 消えてしまった。
薄紫の帳が揺れるたび、金木犀の香が静かに広がった。令和のお香とは別物の、まるでホワイトムスクのような香り、だと思った。
大正で私が恋した帝都の貴公子は、長身で着痩せするタイプの凛々しく美しい顔立ちの方だった。今でいうアイドルみたいなものだ。先輩が帝都を歩くだけで、女学生や女性たちの黄色い声が群がった。
障子の向こうでは雨が降っている。帝都の夜は、春だというのにまだ冷えていた。
雨音だけが、静かな離れに響いていた。
先輩とそういう踏み込んだ関係になった夜の後、私は前世を思い出した。
また、振られてしまった、と私は思った。前世の相手のお家は、東証一部上場している大きな会社の御曹司だった。私との関係は認められなかった。私の親のことで、結婚が認められなかったのだ。フラれたあの日のことを覚えている。泣きながら帰ると、雪が降り出して、駅から少し離れた道で、男たちに追われた。「そこのお姉ちゃん!止まって!」と集団で追われた。ドラマみたいに恐ろしいことがあるんだなと走りながら思っていたら、雪で濡れた階段で、足を滑らせて倒れて頭を打った。その後から記憶が無い。
熱に浮かされたようなめくるめく時間のあと、先輩はいつも優しかった。
乱れた髪を整えるように、そっと手を伸ばしながら。
恥ずかしそうに目を逸らす私を、愛おしそうに見つめて。
私たちの秘密の関係は、いつもときめきと後ろめたさと切なさが入り乱れていた。
私は本気で恋をしていた。
でも、先輩が私をどれほど想ってくださっているのか、最後まで分からなかった。
一緒にいる時は、先輩は私をまっすぐに見てくれた。
私は舞を継ぐ家の娘だった。令和なら屈指の家柄と言えたが、大正で華族の相手とは認められなかった。
彼は帝都でも名の知れた華族の跡取り。私にとっては香の師範代だった。
鷹条雅親——『帝都の貴公子』と呼ばれるほどの美貌の持ち主だった。
本当であれば、大正の時代、私たちの婚姻は許されなかった。
18の私が恋した相手は——決して私などが触れてはならない、高貴なお方だったのだ。
皇族筋の彼は香道に優れており、帝大在学中だった。
一方、私は帝都の女学校に通っていた。
彼に初めて出会ったのは、香会だった。
彼は、私の香道の師範代になった。
「先輩」
私はそう呼び、お慕い申し上げていた。
うっかりその名をお呼びしてしまえば、この身分差の恋が終わると思っていたから。
部活の輝かしい美貌の先輩、二学年上の学校一のイケメン先輩、皆の憧れの先輩。
「先輩」という響きだけで、転生したことを思い出した私にとっては、ときめきを含んだ呼び名だった。
「おりん」
「はい」
彼の唇が、そっと私の唇に触れた。両手が肩に置かれ、私は背を伸ばすようにして彼の唇を受け入れた。
「離れがたいが、もう行かなければ。また連絡するよ」
先輩は、私に恋を教えた。
指先の重ね方も。見つめられるだけで息ができなくなることも。
唇を重ねるたびに、胸が苦しくなることも。抱きしめられるだけで、全てが溶けていくことも。
帯を解かれる音に、どうしようもなく胸が震えることも。
全部、先輩が教えてくれた。
雨の夜、白檀の香りに包まれながら、私は何度も先輩を求めた。
前世を思い出したあと、前世でフラれた自分が頭をよぎらなかったわけではない。でも、私は夢中で恋をしていた。
「花嫁になって」と彼が言う言葉を信じた。
でも、ある日突然、あのお方はいなくなった。
あのお方の父上が失脚したから。
宮中を揺るがす政変だった。
一夜にして、鷹条家は帝都から姿を消した。
あのお方の行方がわからなくなった。
誰が私たちを売ったのか——今も分からない。
***
「おりんちゃん、ちょっと」
「はい」
家元に呼ばれた。
「先輩」が消えて2年経っていた。
舞の家元の娘として、私は毎日忙しく過ごしていた。
夜になると、「先輩」が恋しくて泣いた。
先輩の指が私に触れたことを思い出すから。
先輩が私を見下ろす時の眼差しも、低い声も、広くて逞しい胸も、どれも大切な思い出だった。
先輩に抱きしめられるたび、胸の奥が熱くなって、声も出せなくなっていたことを思い出すから。
大正の帝都の貴公子は、今まで見たこともないほどの魅力を備えた人物だったから。素直に、もう一度、会いたかった。
障子の向こうで、雨の音がしている。
私は父の前で、正座して座っていた。
「離れにいる客人を世話してくれないか。秘密の客だ。お前にしか任せられない」
父はまっすぐに私を見て、頼み事をしてきた。
――秘密のお客様?
私は戸惑ったがうなずいた。家元である父からの申し付けは絶対だった。
離れは庭園の奥にあった。
藤棚の向こう、小さな池を超えた先。
滅多に人を近づけない客用の屋敷だ。
襖の向こうに、人の気配がした。
なぜか、胸が脈打った。
「おりんと申します。これからお世話させていただきます」
頭を下げた私が顔を上げると、「よろしく」と懐かしい声が返ってきた。
白檀の香りが、そっと胸をかすめた。
その瞬間、懐かしさと切なさで胸が苦しくなる。
――先輩。
忘れられるはずがなかった。
それは、記憶を失った先輩だった。




