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白檀と雨 ——先輩は、私を忘れてしまった

薄紫の帳が揺れるたび、白檀の香が静かに広がった。


障子の向こうでは雨が降っている。帝都の夜は、春だというのにまだ冷えていた。



ことが終わると、いつも抱きしめてくれる人だった。


恥ずかしがる私を愛おしそうに見つめ、抱きしめてくれた。


私たちの秘密の関係は、いつもときめきと後ろめたさと切なさが入り乱れていた。


私の恋は本気の恋で、彼の気持ちは分からない。


でも、私を抱きしめてくれる時は、彼は私だけをまっすぐに見てくれた。


私は舞を継ぐ家の娘だった。


彼は帝都でも名の知れた華族の跡取り。私にとっては香の師範代だった。


私たちの婚姻は許されなかった。

18の私が恋した相手は——決して私などが触れてはならない、高貴なお方だった。


皇族筋の彼は香道に優れており、帝大在学中だった。


一方、私は帝都の女学校に通っていた。


初めて出会ったのは、香会だった。

彼は、私の香道の師範代になった。

 

 

「先輩」

私はそう呼び、お慕い申し上げていた。

うっかりその名をお呼びしてしまえば、この身分差の恋が終わると思っていたから。


  

「おりん」

「はい」



彼に口付けをされた。両手が肩に置かれ、私はそっと背を伸ばすようにして彼の口付けを受け入れた。


「離れがたいが、もう行かなければ。また連絡するよ」


先輩に抱きしめられるたびに、私は恋が深くなっていくのを感じた。

 

恋する気持ちも、人を愛おしく思う気持ちも、全て先輩が教えてくれた。




でも、ある日突然、あのお方はいなくなった。

あのお方の父上が失脚したから。

宮中を揺るがす政変だった。

あのお方の行方がわからなくなった。



***

 

「おりんちゃん、ちょっと」

「はい」


家元に呼ばれた。


「先輩」が消えて2年経っていた。

舞の家元の娘として、私は毎日忙しく過ごしていた。


夜になると、「先輩」が恋しくて泣いた。


先輩のことを思い出すから。


先輩が私を見つめる時の目線、瞳、声、どれもこれも大切な思い出だった。




障子の向こうで、雨の音がしている。

私は父の前で、正座して座っていた。


「離れにいる客人を世話してくれないか。秘密の客だ。お前にしか任せられない」


父はまっすぐに私を見て、頼み事をしてきた。


――秘密のお客様?

 

私は戸惑ったがうなずいた。家元である父からの申し付けは絶対だった。



離れは庭園の奥にあった。

藤棚の向こう、小さな池を超えた先。

滅多に人を近づけない客用の屋敷だ。

 


襖の向こうに、人の気配がした。

なぜか、胸が脈打った。

 

「おりんと申します。これからお世話させていただきます」


頭を下げた私が顔を上げると、「よろしく」と懐かしい声が返ってきた。

 

白檀の香りが、そっと胸をかすめた。

その瞬間、懐かしさと切なさで胸が苦しくなる。


――先輩。


忘れられるはずがなかった。

 

それは、記憶を失った先輩だった。



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