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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第二章:思い出せないのに、どうして私に優しくするのですか?

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忘れていても


店内は、ハイカラな袴に着物姿の女学生達や、洋装の若い女性達で賑わっていた。私は先輩を連れて千時屋にやってきていた。


白いエプロンをした紺色の制服姿の女中さんに、あんみつ2つを注文して、私と先輩は食べていた。


「うまいっ!」

「ですよね?ここのあんみつは絶品なんですよ」


先輩は金縁眼鏡をかけていても、美しかった。先輩とあんみつを食べに来て以来、私も来ていなかったので、私にとっても2年ぶりのあんみつだった。


「私たちは……眼鏡兄弟みたいだな……」


先輩は私の顔を見て、吹き出しそうになって言った。


その笑顔が、初めて私に詰襟を貸してくださった時の笑顔にそっくりで、私は泣き出したいのか、笑いたいのかよく分からない境地だった。


とろりとした餡に、もちもちの白玉。

「実に美味しそうに食べるんですね」


先輩は私が食べる様子を見て、言った。


「私がここが大好きだったというのは、一緒に来る誰かが好きだったから、じゃないかな……」


頬杖をついて、お茶を飲みながら先輩が言った時、私はドキッとして顔を上げた。


先輩と目が合った。


「いや……私は昔からそんなに甘いものが好きなたちではなかったのです。確かにここのあんみつは美味しい。でも、きっとタエさんが言うように、千時屋のあんみつが大好きだったと言うなら、きっとこれが好きな人が近くにいたからなんじゃないかなと思っただけですけどね」


先輩は、少し首を傾げながら、考え込むように言った。


――そんな……先輩は私に合わせていたの?


私は記憶の中の先輩の姿を見つめた。

先輩はよく千時屋のあんみつやに行こうと私を誘ってくれた。


――あれは……私のため?


その時、後ろの席に賑やかな集団が座った。


「ねぇ、憧れの鷹条様は今どこでどうしてらっしゃるのかしら?」

「本当に……もう一度、帝都の貴公子を拝顔したいものですわ」


「どなたも見たことが無いということは、またイギリスにご留学なさっているのではないでしょうか?」


「次に帰国された時は、今度こそお近くに行ってお話ししてみたいものですわ」

「帝都の貴公子さまに恋焦がれていましたからね、一条さんは……」


「帝都中の娘の憧れでしたから」


ひやっとするようなおしゃべりを4人の女性達が話し始めた。浅草の映画館の帰りのようだ。



映画の話から、あろうことか、先輩の話を始めた。先輩は彼女達に背を向けて座っていて、何気ない様子であんみつを食べている。



――どうしよう……先輩にも聞こえていらっしゃる!



賑やかな女性陣は、華やかな淡い色の洋服を着ていた。そこに、一段と華やかで美しく着飾った女性が合流してきた。


だが、次の瞬間、店内は凍りついた。


雅親(まさちか)さんの話なんて、もうどうでもいいわ!二度としないで!」


女性の鋭い声がした。


私はそっと眼鏡越しに見た。九重鹿乃子(ここのえかのこ)様だと分かって、冷や水を被せられたようにハッとした。

私の前の先輩は、黙ってあんみつを口に運んでいる。


まるでご自分の話だとお分かりになっていないようだが、鷹条雅親というお方は、ご自身のことだとお分かりになるはずだ。


――先輩、だいじょうぶですか……?


その時だ。


「あら、鹿乃子様」

空気が止まった。


「ごきげんよう。覚えていらっしゃいます?同じ女学校におりました、華道の家の——」

「あら、あなた……」


淡い黄色い着物を品よく着付けた若い女性が声を鹿乃子様にかけた。


「月岡沙千代でございます。最近、月岡の家元が寂しいと申しておりました。やはり、鹿乃子様のようなお美しい方がいらしてくれないと、華がなくなった様で寂しいと」


「まぁ、そうね……また近いうちにお稽古にお伺いしますわ」


鹿乃子様はいつもの華族の顔に戻られた。


私はほっとした。


喫茶店の中の温度も元に戻ったようで、それまで固唾を飲んで様子を伺っていた客たちも、和やかに話し始めた。


――さっちゃん……。


久しぶりに姿を見たが、私の幼馴染の月岡沙千代だった。華道の家元の娘であり、舞の家元の娘である私とは、幼い頃から気が合い、家を行き来する仲だった。全国に弟子がいる芸事の家の娘として、共通事項が多く、私たちはなんでも話せる仲だった。女学校も同じだった。先輩と出会うきっかけになった香席も、沙千代が私に代理出席を頼んだ席だった。


京都にお互いに別邸があるのも同じで、帝都の屋敷だけでなく、京都の別邸でも互いの屋敷を行き来するほどの仲だった。


沙千代に話していないことは、先輩のことだけだ。何でも話せる仲だったのに、先輩のことだけは話せなかったのだ。



沙千代は私に気づいていないと思ったが、違った。

先輩が入り口でお会計をしている時、ちょっと離れたところで待っていた私のところに、着物姿の沙千代がそっと近づいてきたのだ。


「りんちゃん」

「さっちゃん」


「やっぱり、りんちゃんだったのね……3年前にも何度かりんちゃんを見かけたのよ。前もその詰襟に眼鏡姿で歩いていたでしょう?」


私は驚いて目を見張った。目の前の沙千代は、イタズラっぽい表情で私を見つめた。

「そ……そんなこと……」

「誤魔化したって無駄よ。幼馴染の姿は見間違えないわ。でも、安心して。だーれにも言っていないから」


私はフーッと息を吐いた。


「ね、鷹条様とはまだ続いていたのね」


風が吹いて、綺麗に結い上げた沙千代のうなじの髪を揺らした。


「芸事の家の娘同士、恋したら大変よね……」

「さっちゃん?」


ふふっと沙千代は含み笑いを浮かべた。私は思わず先輩の姿を目で探した。そろそろお会計が終わる頃だ。


「私もね……お見合いを断り続けているの。そろそろ、限界よねぇ……」

「さっちゃんにも、お慕い申し上げているお方がいるのね?」


私の問いかけに、沙千代は恥ずかしそうに頬を赤く染めてうなずいた。


「そう。家元には言えない相手よ。駆け落ちしようかなと思っているんだけれど」

「……待って……ちょっと待って」


私は慌てた。


「最近、ちっとも華道のお稽古に来てくれないじゃない。私ばっかり舞のお稽古に精進しているのよ」


沙千代はほっぺを丸く膨らませて、私を睨んだ。


「行く、近いうちに必ずお稽古に行くわ。その時に、もっと詳しく話してくれる?」


私は沙千代に約束をした。先輩が私を探している。


「今度、鷹条様にもご紹介してくださる?どんな方なのか、りんちゃんのこと本気なのか、私も確かめたいから。でも、あのりんちゃんが一緒に座っていなかったら、絶対に鷹条様だと気づかなかったわ。秘密は守るわよ」


沙千代はそれだけ囁くと、笑顔を私に向けて、浅草の道をそのまま去って行った。沙千代は近くの人力車に手を挙げて乗った。


「今のは知り合い?」


耳元で低い声がして、私は驚いて振り向いた。


先輩の綺麗な瞳が私の顔のすぐ目の前に合った。


「えっと……幼なじみです」

「華道の月岡のお嬢さん?」

「そうです」


先輩は納得したように、うなずいた。


「亡くなった母が、私が子供の頃から華道のお稽古に通っていたから」


先輩はそれだけ言うと、懐かしそうに空を見上げた。すっかりお昼を食べ損ねた。朝食の後に焼き菓子を食べて、そのまま浅草まで来てしまった。


「ね、私はここで映画を見たことがあるみたいだ」


先輩は私を振り向いて言った。

私はドキッとして先輩の顔を見上げた。


「誰といつ見たのかは分からないんだけれど、ここは知っている。映画館に入るとどういう感じかも分かる。子供の頃に来た記憶はないんだけど、知っていると言うことは……理人(りひと)か誰かと来たということだね」


私は答えられなかった。喉の奥が、ぎゅっと苦しくなったから。


「子供の頃の記憶しかないんだけれど、鹿乃子さんはああいう方に育ったんだね。彼女と見に来たのかな……?」


胸に鋭い痛みが走った。


「相当怒らせたみたいだけど、まだ怒っているんだな。とんでもないことをしたんだな」


先輩は風に髪を靡かせながら、歩き始めた。私はその横をついて歩いた。並んで歩いているけれど、先輩は私の知っている先輩のようで、違う。


――何をどう説明すればいいのかまるで分からない。



「でもね、一つ分かったんだ。多分だけど……鹿乃子さんがあんみつを好きだから、千時屋に何度も行ったわけじゃないってこと。それは違うと思った。別の誰かがあんみつが好きだから、私は千時屋に通ったんじゃないかな」


先輩は何気ない調子でそう言った。


私は何も言えなかった。 頷くことも、否定することも、できなかった。


私の胸は、泣きたいほどの感情でいっぱいになった。


「帰ろっか。りんさん。タエさんが待っているだろうし」


先輩は私を振り向いてそう言うと、私の顔を見てまた吹き出した。


「りんさんの普段の姿を知っているからか、笑っちゃうんだよなぁ。詰襟に丸眼鏡が似合い過ぎる」


先輩は、昔と同じ顔で楽しそうに笑った。


私も泣き笑いのような顔になって、足早に先輩について行った。


「あ、危ないっ!りんさん」


急いで走ってきた人力車が私にぶつかりそうになり、私は先輩に引き寄せられた。


先輩の胸が急に近づき、私はそのまま腕の中に抱き留められた。


「え……?」


先輩はかすかにそうつぶやいて、混乱したように私を見つめた。


「前にもこんなことがあった……?」


私の胸の鼓動は大きく打っていた。先輩にまで聞こえそうだ。


「……そんなことあるわけないか」


先輩はそう言うと、あっさり私の肩を抱いていた手を離した。


先輩は苦笑した。


その横顔を見た瞬間、私の胸が苦しくなる。


――先輩は、本当に何も覚えていない……。


――それなのに、どうしてこんなにも優しいのだろう……。



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