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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第二章:思い出せないのに、どうして私に優しくするのですか?

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秘密のデート

「こんにちは」


朝食の片付けをタエさんとしていると、離れに来客があった。


「おぉ、理人(りひと)か!」


驚いたような顔をして、先輩は少し嬉しそうに笑った。先輩のご友人らしい。


「あらまぁ、理人(りひと)坊ちゃん」

「タエさん、すみません。突然に、押しかけてきて。ここで雅親が世話になっていると聞いて、様子を見にきました。これ、お土産です。病人見舞いに甘いものと思ってね」


理人さんは、初めて見る私に優しそうな笑顔を見せて、お土産の洋菓子の箱を渡してくれた。日本橋の有名菓子店の焼き菓子の詰め合わせだった。


「あ、私の世話をしてくれている花房の家元のお嬢さんだ」

「あぁ、雅親のことをよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」


そんなやりとりをしたのちに、先輩と理人さんが話し始めた。


綾小路家の次男だとタエさんが教えてくれた。有名な華族のお方だが、先輩とは幼馴染らしい。鷹条の家に幼い頃から訪ねてきてくれていた、一番仲のいいご友人らしい。イギリスにも一緒に留学したとタエさんが教えてくれた。


理人さんが持ってきてくれた箱を開けると、甘いバターの香りがふわりと広がった。幸せの香りだ。小さなマドレーヌと、砂糖をまぶした焼き菓子が綺麗に並んでいた。


タエさんが早速、珈琲豆を挽き始めた。


「理人さんはお砂糖が必要ですが、ぼっちゃまはブラックですよ」


タエさんが私に教えてくれた。何度か喫茶店に先輩と行ったことがあったので、先輩がブラックを好むことは知っていた。


「あ、私がやります」


私はタエさんに代わって手挽きミルを回し始めた。カリカリという音と共に、深い珈琲の香りがしてきて、先輩と理人さんの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


「イギリスにいたときは、お前が毎朝淹れてくれたんだよ」

「ぜっんぜん覚えてないけど」

「いやぁ、お前が淹れてくれたのは美味かった」

「そっか。じゃあ、りんさん、タエさん、私がやろう」


笑顔の先輩がお勝手に顔を出して、私たちにそう言ってくれた。私は手挽きミルを先輩に渡した。



先輩は、何も考えていなさそうなのに、豆を挽いて、やかんのお湯を使ってドリップしてくれた。部屋中に珈琲の香ばしい香りが立ち込めた。


「イギリスは覚えていないんだろ?」


「あぁ、覚えていないけれど、やり方はなんだか分かるんだよ」

「はい、タエさんとりんさんもどうぞ。理人、お前、砂糖入れすぎ」

「いいの、いいの。お前はブラックだろ」

「そうかな」


そんな和やかなやりとりをしながら、皆で美味しい焼き菓子と珈琲をいただいた。


「あぁ、そういえば……『後輩と珈琲を飲んできた』と言ってた時があったな……」


私は思わず顔を上げた。


「……後輩?」

「そうそう。お前、仲の良い後輩がいただろ。お前、ずいぶん可愛がってただろ、あの後輩」


その瞬間、私の手が止まった。


「ほら、丸眼鏡の……」


ゴホッ。

思わず、むせてしまった。 ゴホゴホと咳き込む私にタエさんがそっと背中をさすってくれた。



理人さんは、目の前の私を見ても気づかない。


「大丈夫ですか?」


理人さんも心配そうに私を気遣った。


「だ……大丈夫です」


私はそう言って、顔を伏せた。


いきなり「後輩」という言葉が出てきたので、慌ててしまった。


「うーん、何年生だったんだろう。お前がよくつるんでいた帝大生がいたんだよ。あぁ、名前ぐらい聞いておけば良かった」


理人さんは悔しそうにそう言った。


――お願いっ!後輩が私だと気づかないで!


「まぁ、そのうちしばらくしたら、連絡があるさ」


理人さんがそう言って、話の矛先を変えたので、私としてはほっとしていた。




理人さんは小一時間ほど話した後に帰っていかれた。帰られる前、お勝手で片付けを進めている間に急にヒソビソ話が聞こえた。


「お前の家が、あんな終わり方をするとは思えない」


理人さんの声だった。先輩の反応は分からなかった。




理人さんが帰宅されてからは、私たちは大騒ぎだった。


帝都を散歩するにあたり、巷で有名な先輩の姿を、全くの別人に仕立てることでタエさんと私は大騒ぎをしていた。


「昔のぼっちゃまは、ずっと短髪でいつもきっちり髪を整えていらしたんですよ。このくらいの伸び放題の時は、過去のいつの時にもございません」


タエさんはそう言って、見たこともない、先輩の洋服を出してきた。


「この洋服は、奥様が仕立ててくれたのですが、ぼっちゃまは一度も袖を通したことがございませんでした。今の髪型でこの洋服を着たら、誰もぼっちゃまだと気づきませんわ」


私は先輩の洋服姿を初めて見た。淡い色の上品なベストにスッキリとしたシルエットのズボンに、真っ白いシャツを着て、伸び放題の髪の毛が妙に色気のある影を先輩の顔に作っていた。



私はあまりの格好良さに、胸がどきどきして、頭がくらくらした。


「ほら!ぼっちゃまが西洋から持ち帰った眼鏡ですよ」


タエさんは活き活きとした様子で、箪笥の奥から小さな箱を取り出してきた。古い革張りのその箱の中から、金縁眼鏡が出てきた。


――あぁっ、あの時の眼鏡……。


そう、先輩が私にキスをした時の眼鏡だった。


「これをおかけになれば、もう別人ですわ」


私は胸がいっぱいだった。

ただただ、頷くしかできなかった。


「りんさんの目から見ても、私と分からないか?」


先輩が私に聞いた。私はにっこりと笑って、ただ「はい!」というだけで精一杯だった。何か言ったら、涙がこぼれると知っていたから。


「では、少々お待ちを」


私はそう言って、今朝自分の部屋の箪笥の奥から持ってきた風呂敷を持って隅の和室を使わせてもらった。手早く詰襟に着替えて、丸眼鏡をかけて先輩とタエさんの前に姿を現した。


「まぁっ!可愛らしい!」


タエさんは手を叩いて喜んでくれた。何も言わなくても、私たちの間では、暗号のような感情を共有していた。


――先輩は覚えていらっしゃらないと思うけれど、これは特別な……私の……私と先輩の2人だけの秘密のデートのようなもの。


「うん……なんだろう。見ていると落ち着くな」


先輩は不思議そうにそう言った。



⸻見ていると落ち着くな……。


確かにそう仰った。私はうつむいた。涙が目の端に溢れそうになったから。



「今日は、あんみつやに行こうと思います」

「りんさん、今朝焼き菓子を食べたばかりだけれど……」

「まぁまぁ、ぼっちゃま。いいではないですか。ぼっちゃまも千時屋のあんみつは大好きでしたよ」

「そうなのか?」

「えぇ、大好物でした」

「なら、行ってみるか。りんさん、頼む」

「はいっ!」


帝都の空は晴れていた。私と先輩は2年ぶりに連れ立って、帝都の街に出かけた。離れを出る時にスズランの花の脇を通りながら、先輩がつぶやいたのが聞こえた。


「そろそろ、菖蒲が咲くかな」


私は思わず、青紫の菖蒲が揺れていた、あの家を思い出したが、何も言わなかった。小さく棘が刺さったように胸が痛んだ。


帝都の初夏の風が、先輩の長い髪を静かに揺らしていた。先輩と並んで歩けるだけで、幸せだった。


――千時屋で、九重鹿乃子さんと出会うまでは。




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