もう一度
「離ればかりにこもっていても、記憶は戻りませんよ。お二人でお屋敷のお庭を散策なさってきてはいかがでしょうか」
そうタエさんに言われた。
言われてみればそうだ。
先輩の記憶を取り戻すことが、先輩にとっては最優先事項だ。
「では、りんさん、花房の庭を案内してもらえますか」
先輩は私にそう言った。
タエさんが、朝ごはんの片付けもしてくれるというので、私と先輩は朝の散歩にでかけた。
花房の屋敷は、非常に広大だった。舞のお稽古をする関係で、広い座敷がいくつもあったが、庭も広大だった。
私は先輩とまた2人で歩けるということで、それだけで嬉しくて嬉しくて、心が浮き立った。
「……せ……鷹条さん、こちらへ」
私は思わず先輩と呼びかけてしまったが、先輩は特に違和感を感じなかったようだ。
私はドキドキする胸を抑えて、先輩を連れて、ゆっくりと花房の庭園の案内を始めた。
横に並んで先輩と歩くのは初めてだった。
いつもは詰襟姿で、先輩の後輩のふりをしていたから。
娘の格好で、先輩の隣を歩く。
それだけで、何もかもが新鮮で、世界が少し違って見えた。
離れの前には、スズランの小さな花がひっそりと咲き、芍薬は朝露を含んで大きく花開いていた。
池へ続く細い小道を進むと、藤棚がある。薄紫の藤が風に揺れ、その花の影が白い飛び石に淡く落ちて揺れていた。
「確か来る時に洋館で、大輪のバラを見ました」
先輩は何気ない様子で私に言った。先輩の顔を見上げると、横顔に朝の光が差し込み、美しい横顔に思わず見惚れてしまいそうになった。
胸の鼓動がどうしようもなく、うるさくなる。
顔が上気してしまい、私は慌てて洋館のバラを見に行きましょうと誘っていた。
今の花房の屋敷は、春の名残と初夏の匂いが混ざる庭だった。洋館前では薄桃色や白色のバラが咲いていた。
「あっ!」
私は慌てて先輩の手を取り、木の影に引き寄せた。
「……なんです?」
先輩は戸惑った様子で私に聞いた。
「しーっ!舞の稽古にいらした女学生たちが通り過ぎるのを待ちましょう」
気づけば、背の高い先輩の胸が、私のすぐ目の前にあった。
――えっ!
私は驚いて、先輩から離れようとして、思わずのけぞって転びかけた。とっさに、先輩の右手が伸びてきて、私の背中を支えた。
抱き抱えられるような格好になり、私と先輩の目があった。
「ご、ごめんなさいっ!」
私は小声で謝り、先輩は私から視線をそらした。
私の心臓は早鐘のように鼓動を打ち、私は息をしてもいいのか分からないぐらいに混乱した。
「いや、大丈夫だ」
先輩は低い声でそういうと、私をちゃんと立てるように体を支えて起き上がらせた。
「でね……っ!うわぁ、素敵ぃ」
「今度、両国川開きの花火大会でしょう?叔父様がね……」
四人の女学生たちが楽しそうに話しながら通り過ぎた。
「そっか。花火大会か……」
先輩は考え込むような仕草をした。
「思い出しましたか?」
私は先輩の記憶が少し戻ったのかと期待してしまった。
「いや、そうではない。子供時代に母と行ったきりだと思う。懐かしいなと思った」
――私と一緒に行ったことはやはり覚えてらっしゃらないのね……。
「では、今度、変装して2人で行ってみませんか?」
私は前回先輩に連れて行ってもらった両国川開きの花火大会に、今度は先輩をお連れしてあげようと思った。
「うん?」
先輩は私の顔を見下ろした。長いまつ毛が不思議そうに上下に揺れた。
――綺麗……。
私は先輩の仕草にいちいち心を持って行かれた。2年ぶりにお会いしたので、おかしくなったのかもしれない。
「何か思い出すかな……」
先輩はポツリと言った。
「はい、何か思い出されるかもしれません」
私はそう祈った。
帝大生としての記憶もなく、西洋に行った記憶もなく、子供以降の全ての記憶が消えたにも関わらず、先輩は、こうして私の隣にいてくれる。
詰襟と丸めがねを包んだ風呂敷包みは、私の部屋の押入深くに隠してあった。
変装して、先輩と帝都の街を歩く。
失われた記憶を探すように。
「よし、そうしよう。明日から、帝都の街を歩いてみよう。これまで思い出せなかったんだ。やれることは全部やってみよう」
先輩はそう言って、私にうなずいた。
「帝都の街を案内してくれるね?」
「はい、喜んで」
私は、先輩の隣を歩けることが、たまらなく嬉しかった。




