鷹条Side 可愛い娘だが、私の心がひどく掻き乱される。
私は自分が何者かわからない。
幼い頃の鷹条の屋敷の記憶だけはある。
だが、それ以降が、まるで霧の中にいるようだった。
帝大に通っていたと言われても、実感がない。
「帝都の貴公子」などと、異名を帝都中に轟かせていたと言われても、まるで覚えがない。
香席の話をされても、何一つ思い出せない。
西洋に留学していたと言われても、それが本当に自分のことなのか、他人の話を聞いているようだった。
なぜ、父はあれほど老け込んでしまったのか。
母が亡くなったと聞かされた。悲しいはずなのに、その顔すら思い出せなかった。
そして私は、今、花房の離れに身を隠している。
鷹条の家に何かあったらしい。
だが、肝心の自分が何も覚えていない。
今朝、目を覚ますと、障子の向こうから女の声が聞こえてきた。お勝手の方だ。
『……後輩さん?……』
タエさんの声だった。その響きに、なぜか胸がざわついた。
――なぜだろう?
昨日、あの娘は私を見て泣いた。
あの娘が泣くと、なぜか胸の奥が苦しく感じた。
香席で私と会ったと言っていた。
だが、何も思い出せない。
それなのに、あの娘を見るたびに、雨に濡れた青紫の菖蒲の花が頭に浮かぶ。
――なぜだ?
分からない。
朝食は美味しかった。
朝ごはんの席で、花房の娘は、今朝もうつむいて泣いているような顔をしていた。
――私の顔に何かあるのだろうか。
分からない。
ただ、あの娘が悲しそうにしていると、胸の奥がひどく落ち着かなかった。
あの娘を泣かせないようにするには、どうしたら良いのか分からない。
朝ごはんの後、ただそのことばかり考えていた。
——りんさんに笑っていてほしい。
なぜそう思うのか、私には分からなかった。
——可愛い娘だが、私の心がひどく掻き乱される。




