それでも、そばに
鷹条雅親様との約束は、静かに、しかし確かに育っていた。
——けれど、約束は叶わなかった。
一条家の令嬢が、珍しく花房の舞の教室にやってきたと思った。私は香席での出来事依頼、会ったことはなかったと思う。
ただ、一条家の令嬢は、舞を習いにきたのに、ずっと怖い顔で私を睨みつけていた。令嬢が帰った後、私の部屋は荒らされていた。誰かが何かを探していたようだが、私は隠してあった詰襟が無事なのを見て、家元に報告しただけで、その時は、深く考えなかった。
令和の時代、新人の時に会社の女性の先輩に睨まれた。その時は爪に穴が空くほど悩んだ。会社のトイレでずっと泣いたりした。そこから仕事を辞めざるを得なくなり、2ヶ月休職した挙句、ようやく転職した。その時の怖さと、一条家の令嬢の怖さは、少し違うように思った。でも、本質は同じだと思った。だから、深く考えなかった。
それから数日後、父が鷹条家が失脚したと言ったのだ。
誰にいうのでもなく、そう父が言ったのを聞いて、私は足元がすくんだ。
――先輩の身に何かあったら……。
その翌朝の朝刊で、政変が起きたことが大々的に報じられていた。
私は思わず、花房の屋敷の勝手口から飛び出し、菖蒲の家まで走った。いつもの裏路地の柳の木の下も、止まらずに駆け抜けた。
荒く息をついて、菖蒲の家に駆け込んだ私は、目の前の光景を見て茫然とした。家財が運び出されていたのだ。
庭では、青紫の花菖蒲が雨に濡れていた。
雨に打たれた花菖蒲は、まるで泣いているようだった。
私のように。
それが、私を花嫁にすると誓ってくれた貴公子が消えた日だった。
それから二年後、私の前に現れたのは、記憶を失った貴公子だった。
◆◆◆
離れの障子が開いて、鷹条雅親様の声がした。
「りんさん、まだいるか?」
私はハッとして、慌てて涙を拭って彼の元に戻った。
「大丈夫ですか?」
鷹条様は私のことを心配しているような表情だった。
「大丈夫です」
私は無理に笑みを作った。
変わらない彼の姿を見て、私は唇を噛んだ。
――少なくともご無事でいらした。
――私が先輩をお支えするしかない。
決心した私は、母屋に向かった。
その夜から、食事の支度、お風呂の支度、洗濯、お掃除、離れの全ての家事が私の仕事になった。ただ、身の回りのお世話をしてくれる方が、昔から鷹条家に支えている方で手伝いに来てくれた。
私は母屋から、毎日離れに通った。
翌日の朝から私が朝食を用意していると、年配の女性が父に連れられて離れを訪ねてきた。
「おりん、鷹条様の身の回りのお世話を手伝ってくれるタエさんだ」
家元である父にそう紹介されて、私は慌てて頭を下げた。
「おりんと申します。よろしくお願いします」
頭を下げてから顔をあげて、驚いた。
詰襟姿で何度かお会いしたことがある、あの菖蒲の家の「ばあや」さんだったからだ。
タエさんは少し目を見開いたが、私の父の手前、静かに頭を下げただけだった。
「よろしくお願いします」
父が離れを出ていくと、タエさんは「後輩さん?」と小さな声で私に聞いた。
私は黙ってうなずいた。
「まぁまぁ、それは心強いですわ。ぼっちゃまはああなってしまわれたでしょう。後輩さんがおそばにいてくれたら、それは百人力の気持ちですわ」
そう笑顔で言ってくれた。
「私が女だとご存知でしたか?」
私はおそるおそる聞いた。
「えぇ、なんとなく。でも、ぼっちゃまに聞くのは憚れましたしね……」
雅親様は、主に鷹条家の本家で暮らしていた。時々、夜が遅くなったり、一人になりたい時に菖蒲の家を利用していたようだ。
「ぼっちゃまは、あの家に来ると、少し肩の力を抜いておられました」
タエさんは懐かしそうに笑った。
「後輩さんがいらっしゃる日は、特に楽しそうでしたよ」
タエさんはそれだけ言うと、すぐに朝食の支度を一緒に手伝ってくれた。
「いつか、後輩さんがご飯を用意してくださったでしょ。大雨の日にでしたかね」
私がビクッとして手を止めると、タエさんは微笑んだ。
「どんな素敵なお嬢様かと思っていたんですよ。花房のお屋敷のお嬢様でしたか」
優しい笑顔だった。
『身の程を知らない』と罵られたことを思い出して、私は胸が熱くなった。
「いえ……本当は……私などがおそばにいてはならない方でした……」
私はうつむいて小さな声で言った。
本心だった。
政変が起きたのも、九重家との断絶が大きく影響したと聞いた。
私のせいだ、ずっとそう思って心の中で自分を責めていた。
「なにをおっしゃるの。ぼっちゃまは、あなたがいらっしゃるとそれはそれは喜んでいましたわ」
「おはよう。何を話しているんだ、タエさん」
突然、雅親様が顔を出した。
「あっ、おはようございます」
「おはよう」
雅親様は、子供の頃のことは覚えているらしかった。タエさんは、子供の頃から鷹条の屋敷で働いていたので、タエさんには彼は最初から心を開いていた。
タエさんは朝ごはんは食べていらしたと言う。
雅親様の分だけ用意した。
食卓には、焼き鮭、だし巻き卵、ほうれん草のお浸し、豆腐と三つ葉のお味噌汁を並べた。炊き立ての白いご飯から、ふわりと湯気が立っている。
「あなた、りんさんは食べたんですか?」
彼が私に聞いた。
私が答えるより前に、タエさんが私の肩をそっと叩いた。
「まぁ、ご一緒に食べてくださいまし。舞のお嬢様にこんな家事手伝いをしてもらえるなんて、ぼっちゃまは幸せ者ですよ。ご一緒に食べてください。これも記憶を戻すための近道ですから」
タエさんはそう言って、いそいそと私のお膳も用意して運んだ。
「……記憶を呼び戻すための近道……?」
彼は不思議そうな顔をしたが、納得したような顔になった。
「あぁ、私はあなたの香の師範代でしたね」
雅親様は私を見て、「さあ、食べましょう」と言った。
私は涙がこぼれそうになった。
昨晩は、母屋から食事を運んだだけだった。
今朝は、雅親様とまた一緒にご飯を食べれる。
――私は幸せものだ。
そう思った。
彼は一口食べて、笑顔で言った。
「うまい」
私がほっとして思わず涙ぐんでしまい、慌てて顔をうつむいた。
顔を上げると、タエさんが静かに微笑んでいた。
湯気の向こうで、彼が「うまい」と笑っている。
それだけで胸がいっぱいだった。




