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最愛の貴公子様へ、忘れられた花嫁ですが、忘れた貴公子を保護しております  作者: 西野 歌夏
第一章:華族様は花嫁にすると言ってくれた。忘れられた花嫁は、華族様に恋をしたあの夜を忘れられない
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それでも、そばに

鷹条雅親様との約束は、静かに、しかし確かに育っていた。

——けれど、約束は叶わなかった。



一条家の令嬢が、珍しく花房の舞の教室にやってきたと思った。私は香席での出来事依頼、会ったことはなかったと思う。


ただ、一条家の令嬢は、舞を習いにきたのに、ずっと怖い顔で私を睨みつけていた。令嬢が帰った後、私の部屋は荒らされていた。誰かが何かを探していたようだが、私は隠してあった詰襟が無事なのを見て、家元に報告しただけで、その時は、深く考えなかった。 



令和の時代、新人の時に会社の女性の先輩に睨まれた。その時は爪に穴が空くほど悩んだ。会社のトイレでずっと泣いたりした。そこから仕事を辞めざるを得なくなり、2ヶ月休職した挙句、ようやく転職した。その時の怖さと、一条家の令嬢の怖さは、少し違うように思った。でも、本質は同じだと思った。だから、深く考えなかった。



それから数日後、父が鷹条家が失脚したと言ったのだ。


誰にいうのでもなく、そう父が言ったのを聞いて、私は足元がすくんだ。


――先輩の身に何かあったら……。

 

その翌朝の朝刊で、政変が起きたことが大々的に報じられていた。


私は思わず、花房の屋敷の勝手口から飛び出し、菖蒲の家まで走った。いつもの裏路地の柳の木の下も、止まらずに駆け抜けた。

 

荒く息をついて、菖蒲の家に駆け込んだ私は、目の前の光景を見て茫然とした。家財が運び出されていたのだ。


庭では、青紫の花菖蒲が雨に濡れていた。

雨に打たれた花菖蒲は、まるで泣いているようだった。

私のように。


それが、私を花嫁にすると誓ってくれた貴公子が消えた日だった。


それから二年後、私の前に現れたのは、記憶を失った貴公子だった。


◆◆◆



離れの障子が開いて、鷹条雅親様の声がした。


「りんさん、まだいるか?」


私はハッとして、慌てて涙を拭って彼の元に戻った。


「大丈夫ですか?」


鷹条様は私のことを心配しているような表情だった。


「大丈夫です」


私は無理に笑みを作った。


変わらない彼の姿を見て、私は唇を噛んだ。



――少なくともご無事でいらした。

――私が先輩をお支えするしかない。

 

 

決心した私は、母屋に向かった。


その夜から、食事の支度、お風呂の支度、洗濯、お掃除、離れの全ての家事が私の仕事になった。ただ、身の回りのお世話をしてくれる方が、昔から鷹条家に支えている方で手伝いに来てくれた。



私は母屋から、毎日離れに通った。



翌日の朝から私が朝食を用意していると、年配の女性が父に連れられて離れを訪ねてきた。


「おりん、鷹条様の身の回りのお世話を手伝ってくれるタエさんだ」


家元である父にそう紹介されて、私は慌てて頭を下げた。


「おりんと申します。よろしくお願いします」


頭を下げてから顔をあげて、驚いた。


詰襟姿で何度かお会いしたことがある、あの菖蒲の家の「ばあや」さんだったからだ。


タエさんは少し目を見開いたが、私の父の手前、静かに頭を下げただけだった。


「よろしくお願いします」


父が離れを出ていくと、タエさんは「後輩さん?」と小さな声で私に聞いた。


私は黙ってうなずいた。


「まぁまぁ、それは心強いですわ。ぼっちゃまはああなってしまわれたでしょう。後輩さんがおそばにいてくれたら、それは百人力の気持ちですわ」


そう笑顔で言ってくれた。


「私が女だとご存知でしたか?」


私はおそるおそる聞いた。


「えぇ、なんとなく。でも、ぼっちゃまに聞くのは(はばか)れましたしね……」


雅親様は、主に鷹条家の本家で暮らしていた。時々、夜が遅くなったり、一人になりたい時に菖蒲の家を利用していたようだ。


「ぼっちゃまは、あの家に来ると、少し肩の力を抜いておられました」


タエさんは懐かしそうに笑った。


「後輩さんがいらっしゃる日は、特に楽しそうでしたよ」


タエさんはそれだけ言うと、すぐに朝食の支度を一緒に手伝ってくれた。


「いつか、後輩さんがご飯を用意してくださったでしょ。大雨の日にでしたかね」


私がビクッとして手を止めると、タエさんは微笑んだ。


「どんな素敵なお嬢様かと思っていたんですよ。花房のお屋敷のお嬢様でしたか」


優しい笑顔だった。


『身の程を知らない』と罵られたことを思い出して、私は胸が熱くなった。


「いえ……本当は……私などがおそばにいてはならない方でした……」


私はうつむいて小さな声で言った。


本心だった。


政変が起きたのも、九重家との断絶が大きく影響したと聞いた。


私のせいだ、ずっとそう思って心の中で自分を責めていた。


「なにをおっしゃるの。ぼっちゃまは、あなたがいらっしゃるとそれはそれは喜んでいましたわ」




「おはよう。何を話しているんだ、タエさん」

 

突然、雅親様が顔を出した。


「あっ、おはようございます」

「おはよう」


雅親様は、子供の頃のことは覚えているらしかった。タエさんは、子供の頃から鷹条の屋敷で働いていたので、タエさんには彼は最初から心を開いていた。



タエさんは朝ごはんは食べていらしたと言う。

雅親様の分だけ用意した。


食卓には、焼き鮭、だし巻き卵、ほうれん草のお浸し、豆腐と三つ葉のお味噌汁を並べた。炊き立ての白いご飯から、ふわりと湯気が立っている。


「あなた、りんさんは食べたんですか?」


彼が私に聞いた。


私が答えるより前に、タエさんが私の肩をそっと叩いた。


「まぁ、ご一緒に食べてくださいまし。舞のお嬢様にこんな家事手伝いをしてもらえるなんて、ぼっちゃまは幸せ者ですよ。ご一緒に食べてください。これも記憶を戻すための近道ですから」


タエさんはそう言って、いそいそと私のお膳も用意して運んだ。


「……記憶を呼び戻すための近道……?」


彼は不思議そうな顔をしたが、納得したような顔になった。


「あぁ、私はあなたの香の師範代でしたね」


雅親様は私を見て、「さあ、食べましょう」と言った。


私は涙がこぼれそうになった。

昨晩は、母屋から食事を運んだだけだった。

今朝は、雅親様とまた一緒にご飯を食べれる。


――私は幸せものだ。


そう思った。


彼は一口食べて、笑顔で言った。

「うまい」


私がほっとして思わず涙ぐんでしまい、慌てて顔をうつむいた。

 

顔を上げると、タエさんが静かに微笑んでいた。

湯気の向こうで、彼が「うまい」と笑っている。


それだけで胸がいっぱいだった。




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