アリエルの懺悔
「やっと見つけましたよ。アリエルさん」
「何よっ! 私に一体何の用よ!!」
サファイアの瞳で睨みつけながら、アリエルは長い脚でいつでも蹴り上げてやると臨戦態勢に入った。
天使達に聞き込みをしながら、ようやくアリエルの居場所を突き詰めたのだ。このまま逃がすわけにはいかない、と、ヴィベルと総一朗は困った様に顔を見合わせた後、総一朗が咳払いをした。
「落ち着きなさい。我々はぬしに危害を与える気は無い」
「あら。貴方がリオのお父様ね? 成程。なかなか素敵なおじ様じゃないの。でも嫌っ! ほっといて!」
「まあ、少し話を聞きたいだけだというに……」
「嫌ったら嫌っ! 私を言いくるめようとしたって無駄よ!」
ヒュッ! と脚を振り上げて、アリエルは威嚇した。ヴィベルはため息をつきながら、「ファメールを救いたいのであれば協力してください」と言葉を放った。
ヴィベルとしては複雑な思いだった。里桜がアリエルを心配しているというから探し出したものの、アリエルが里桜に放った言葉を思い出すと怒りが込み上げてくるからだ。
里桜を誰よりも大切に思うヴィベルにとって、妄信的にファメールの事ばかりを気にして、里桜の気持ちはお構いなしというアリエルの態度が気にいらないのは、当然ともいえるだろう。
「……ミシェルを救うって、どういう意味!?」
ピタリと脚を止めたアリエルに、ヴィベルは更に続けた。
「彼をここに残してはいけません。彼を救いたいならば、共に現実世界に戻るべきです」
「ダメよ! 現実は彼を傷つけるわ! ここならエルの加護が受けられるのだもの。幸せに過ごす事が出来るはずよ!」
「ミシェルが本当に求めているのはエルネストなのか?」
総一朗が言葉を放つと、アリエルは強く頷いた。
「当たり前でしょう! ミシェルはエルの愛を乞い、跪き従う事を誓ったのですもの! あのプライドの高いミシェルがよ!?」
——アリエルは、ダイブし、ミシェルに会いに行った時の事を話し始めた。
傷ついて眠る里桜の様子を見つめたまま微動だにしないファメールの腕を引き、アリエルは喚き散らしたのだ。
「そんな子なんかもういいでしょう!? 貴方の子供を埋めないのよ!?」
ファメールにとっての里桜という存在は、一緒にいることで不幸になるだけで何の利点にもならない。それどころか、里桜と長く過ごせば過ごす程、ファメールは「どうして彼女は僕の子を妊娠できないのだ」と思うようになるに違いない。そうなれば里桜にとっても不幸な結果になるだろう。
アリエルはそう考えて、二人が傷つきあう訳にはいかないと思ったのだ。
いつものようにファメールは「僕に触るな!」と、拒絶した後に、冷たい瞳を向けてアリエルを見下ろした。ゾクリと背筋が凍る程のその視線に、アリエルは思わずファメールから数歩引いた。
「どうして私をそこまで拒絶するの? 貴方はずっと男女共にそうやって拒絶し続けていたのだから、私が男性だからというわけでは無いのでしょう? ねぇ教えて。ミシェル、お願いよ……」
ふっとファメールが僅かに笑った。自嘲的に、そして冷たく。
「……ああ、アリエル。いいだろう、教えてあげようじゃないか。僕の傷をさ! 後悔することになるだろうけれど、もうそんなことは構うものか!!」
パッと杖を翻し空間を移動すると、ファメールとアリエルは灰色の髪の男が玉座で待つ謁見の間へと降り立った。
「カイン? 貴方……」
「あれはエルネストだよ。アルカじゃない」
ファメールがピシャリと言い切ると、アリエルの見守る中、エルネストの前へと赴いてゆっくりと膝をつき、優雅に頭を垂れた。
決して誰にも屈する事をしないプライドの高いファメールが今、ひれ伏さんばかりに低く頭を垂れているその様を、アリエルは驚愕の眼差しで見つめた。
——彼は、これを望んでいたのだろうか。
この世界を。エルネストの側こそが、彼が最も望んだ場所なのかもしれない。
アリエルもまたエルネストへと膝をつき頭を垂れると、絶対の忠誠を誓った。ファメールの側に居られるのならどんな形だろうと構わない。
深く頭を垂れた後、ファメールは立ち上がりアリエルを見つめた。
「バカだね、キミは」
アリエルの首筋に触れ、『F』の刻印を長い指で撫でた後に、唇を近づけてキスをした。アリエルは驚いてファメールに口づけされたばかりの首筋を手で押さえながら後ずさりをすると、ファメールは自らのマントの留め金を外した。バサリと音を立ててマントが床へと落ち、七大天使全員が身に纏っている軍服の様な上着を脱ぎ捨てた。
「み……ミシェル?」
「何を驚いているのさ? キミが望んでいる事なんじゃないのかい?」
着込んでいたシャツを脱ぎ、無数の傷を負った白い肌が露わとなった。初めてファメールの身体を見たアリエルはサファイアの様な瞳を細め、眉を寄せた。
その表情は、まるで醜いものを見つめているかの様だった。すっと伸ばされたファメールの白い手にビクリと怯えた様に肩を震わせて、アリエルはその場に座り込んだ。
「何を怖がっているのさ? キミは僕の婚約者なんじゃないのかい?」
「ミシェル。どうして……?」
「何がさ? この醜い傷のことかい? それとも、穢れ切った僕自身の事を言っているのかい?」
「貴方は汚くなんかないわ!」
「そう? ならどうしてそんなに怯えているのさ?」
言い返す言葉を失ったアリエルを見つめ、ファメールは小さく笑った。
「僕は、アルマゲドン創成の為の実験体の一人だった。そこに居る養父の指示で、まだ少年だった僕は男たちに凌辱を受けたのさ。それでも汚く無いと言うつもりかい?」
「え……?」と、悲鳴の様な声を上げ、アリエルは玉座に腰かけて見下ろしているエルネストを見上げた。
「ちょっと待って。それじゃあ、私がミシェルの婚約者だって認めてくれたのは、どういう意味だったの?」
——嬉しかった。
ミシェルを好きだと言ったアリエルに、エルネストはにこやかに笑みを向けながら、「ミシェルもきっとお前を愛するだろうね」と、婚約者として認めてくれたのだ。アリエルが男性だとエルネストは知っていた。それなのに、一体何故?
「貴方がエルネストさんなんでしょう? 答えてよ!!」
叫んだアリエルの肩を掴み、ファメールは金色の瞳を歪めた。
「全ては神の意向に従うべきさ。そしてキミはそれを望んでいるんだ。良かったじゃないか、望みが叶って」
「私……そんなの酷いわ! ミシェルにとって、私の存在は苦痛でしか無いって事じゃない!!」
「そうさ。今頃気づいたのかい?」
——ミシェルはきっと、私を見る度、触れる度、自分が汚れていくのだと思うのだろう。
私が、男性だから……。
「どうしてなの? こんなの、あんまりじゃない……!!」
サファイアの様な瞳から涙を零すと、アリエルはパッと手を翳しファメールの元から逃げた。そしてもう二度とファメールの前に姿を現さなかった。
自分の存在が彼を傷つけてしまうのなら、顔を合わせない事が一番いいに決まっているのだから。
「彼は今幸せなはずよ。だってそうでしょう? 彼なら何をされようとも嫌なら抵抗できたはずだもの。それを受け入れたのは、最も敬愛するエルネストさんの為に決まっているわ。この世界がエルネストさんの望みなら、それは同時に彼の望みでもあるのよ」
アリエルの言葉を聞きながら、ヴィベルはエルネストに跪き伏するファメールの姿を想像し、握りしめた拳を更に強く握り締めた。
——そんな事、好きでやっているはずがない……!!
ヴィベルはファメールに申し訳無くて堪らなかった。ファメールは、里桜を守りたくてエルネストに屈する事を余儀なくされているに違いない。しかし、本来であれば、それは一番最初にエルネストに里子に出されるはずだったヴィベルが担う役目であったはずだ。
「アリエルさん。貴方はファメールの事を分かっているようで、全く理解していません。彼は、少しでも幸せそうでしたか?」
ヴィベルの問いにアリエルは俯いた。
「……ミシェルの幸せそうな姿なんて、見た事ないわよ」
アリエルは俯いたまま答えた。
「だから少しでも彼が幸せになれればいいと思っているわ。ミシェルにとって、こっちの世界の方がずっと居心地がいいはずだもの。エルはミシェルを愛しているのだから当然でしょう?」
溜息をつき、ヴィベルは眉を寄せた。そう言いながら、どうしてアリエルは悲し気なのだろうかと疑問に思ったからだ。
「アリエルさん、貴方はどうなんです? 幸せなんですか?」
アリエルは首を左右に振った。ぎゅっと握りしめた衣服に皺を寄せる。
「ここに居ても、私は相変わらず男性のまま。夢の中なのに一体どうして思い通りにはいかないの?」
アリエルもまたエルネストの被害者であるに違いない、と、総一朗は不憫に思った。しかし、ヴィベルはアリエルが里桜の不妊に対して言った言葉がどうしても許す事ができず、慰める言葉を口にすることができずにいた。
責めてしまいそうだった。女性になりたいと願うのならば、どうして里桜の気持ちを理解してやれないのだと。
「ぬしは、どうやってエルネストと出会ったのだ? ぬしも孤児院から里子に出されたのか?」
やれやれと黄金色の草原に腰を下ろしながら、総一朗がため息交じりにアリエルへと質問を投げかけた。
「私は、皆と違って孤児院で育ってなんかいないわ。孤児院に行ける子なんてごく一部だもの。移民の子で溢れ返るパリの様子なんて、日本人の貴方達は知らないでしょうけれど、それでも祖国に居るよりはよっぽどマシだから、皆国境を越えるのよ」
アリエルの瞳に涙が浮かんだ。総一朗はハンカチを差し出そうとして、自分の衣服をまさぐった後、無い事に気づき、またアリエルが女性の見た目ではあるものの男性であるのだと思い出して、バツが悪そうに顔を顰めた。
「私の妹は、ミシェルそっくりな、可愛くて綺麗な子だったわ。何千キロも離れた国へ、命さえあればいい、ただ生きていけさえすればいいと、藁にも縋る想いで凍える荷台に座る事もできずに何週間もぎゅうぎゅうに詰め込まれたまま、警備の目に怯えながら只管に祈り続けて。挙句、妹は力尽きて命を落とした。そんなこと、珍しくも何ともない世界だもの。私の知る現実世界なんか、絶望でしか無いわ。
そんな世界にミシェルは居ない方が良い。ここで生きる方が彼にとってずっと良いに決まってる。私も彼がいるこの世界に居られればそれでいいわ。誰にも傷つけられずに済むのだもの!」
「彼が望んでいないのに、ですか?」
ヴィベルの問いに、アリエルは悲痛そうに眉を寄せた。
「幸せを望まない人なんて、居ないでしょう? エルは皆を救ってくれるわ」
「救う? 絶望に落とすのでは無くてですか?」
「違うわ! ストリートチルドレンだった私を、彼は拾ってくれたもの!」
アリエルの言葉を聞き、ヴィベルはうんざりした様にため息を吐いた。
そうやって救いの神の如く手を差し伸べておいて、地獄へと叩き落とすこれまでのエルネストの汚いやり方に、嫌気が差したのだ。
「貴方がエルネストを崇拝する理由はそれですか? ファメールを傷つけているのはエルネストだと言うのに?」
「簡単な事ではないのよ」
アリエルはため息をつくと、ゆっくりとエルネストとの出会いの話をした。
空腹と寒さで身動きが取れない程に疲弊していたアリエルの前に現れた初老の男性に、アリエルは驚いて逃げようとしたが、脚がもつれて転んでしまった。壁に背をつけて怯えながらもなんとか逃げようと、ずりずりと尻を擦らせながら、震える身体を無理やりに動かした。
大人は怖い。特に男性が怖い。幼く年端も行かないというのに美しい容姿であったアリエルは、少年でありながら何度好色な男性達に捕らえられ、乱暴を働かれたか知れない。近づく男のその誰もが最初は優しく微笑み手を差し伸べるのだ。騙されたと知った時には既に遅い。
アリエルは帽子を目深に被る事で顔をできるだけ人に見せないようにと試みた。
だが、初老の男性に追い詰められた。最早逃げられないと分かったアリエルは、余りの恐怖に失禁した。
「怖がらせてしまってすまないね。私はエルネスト・ロウェル・ヒードリッヒ・ムアンドゥルーガ。君の話を少々聞かせてはくれないかな?」
初老の男性はそう名乗ると、自分の身に纏っていた上等なコートを脱いでアリエルにふわりと掛けた。
「名前は?」
「……そんなもの、無い」
大きな手をアリエルの頭の上に翳したので、殴られると思いぎゅっと身を縮めたが、その手は優しく頭を撫で、目深に被った帽子の鍔を僅かに持ち上げて顔を確認した後、すぐに離された。
「そうか。では、私は君を『アリエル』と呼ばせて貰うよ」
「……アリエル?」
「そうとも。偉大な天使の名だ。私の家に来ないか? このような道端での生活に比べればマシと思うが」
「嫌だ!」
怯えて叫んだアリエルにエルネストはゆっくりと頷くと、「では、またお願いに来よう」と、紙袋を置いて去っていった。
エルネストの姿が完全に見えなくなってから、袋を開いてみると、中にはパンと温かいスープが入っていた。
例え毒が入っていたとしても構わない。余りの空腹に耐えかねて、アリエルは貪るようにそれを平らげた。エルネストの残して行ったコートが温かく、アリエルはぎゅっとそのコートの端を両手で掴み、蹲った。
翌日も、同じ場所にエルネストが現れた。今度は一人の少年を連れて、だ。
艶やかな黒髪に、白い肌。灰色の瞳。少年のその容姿は、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。彼はアリエルにニッと笑いかけると、「一緒に遊ぼうぜ」と声を掛け、アリエルの手を引いた。
だが、体力を完全に失っていたアリエルは立ち上がることもできず、ズルリとその場に転がった。
「え!? おい、大丈夫か!?」
嘸かし酷い臭いであっただろうに、黒髪の少年は全く気にすることなくアリエルの身体を抱えた。その温もりに、アリエルは屈辱的に思い、涙した。
——同じ人間でありながら、私は冷たいのに、貴方はどうして温かいのだろう……。
気が付くと、柔らかく暖かなベッドの上に居た。瞳を開いたアリエルを、ブルージルコンの優しい瞳が覗き込んだ。驚いて飛び起き、ベッドの隅で震えながら小さくなったアリエルに、エルネストは「大丈夫そうだな」と優しく言ってベッドから距離を置いて椅子に掛けた。
「ゆっくり休んでおいで」
「こんなところに勝手に連れて来て、お前もあいつらと一緒か!!」
「放っておけなかっただけだとも。それとも見殺しにして欲しかったのかな?」
「乱暴されるくらいならいっそ見殺しにされた方がずっとマシだ!!」
「乱暴などしないとも。少し落ち着きなさい、体力が落ちているのだからね」
宥めようと穏やかに言葉を発するエルネストに従わず、アリエルはベッドの隅からエルネストを威嚇し、まるで獣の様に唸り声すら上げた。少しでも近づこうものなら噛みついてやるといった具合だ。
しかし、エルネストはそんなアリエルの様子にも態度を変える事無く、優しくニコリと微笑んだ。
「信用できないのも無理もないだろうね。君には居場所が無いのだから」
「うるさいっ!!」
「安心できる場所が無ければ、誰の事も信用できないだろう。それは辛く苦しいことだ」
「知った風な口を利くな!!」
「私から施設に掛け合って君の居場所を作ってあげようと思うが、どうだね?」
「どういう意味だ!」
「そのままの意味さ。私は三人の里子を養っていてね」
エルネストの提案はアリエルにとって夢の様だった。生活を保障してくれるばかりか、エルネストが引き取った三人の里子が通う学校に、アリエルも登校させてくれるというのだ。希望すれば先の学校にも行けると更に言ってはくれたが、そこまで考えられる程、アリエルにとって現実味のある話ではなかった。
「ストリートチルドレンなんて町中溢れかえっているのに、どうして私にそこまでしてくれるの? 貴方の言う事は夢物語過ぎて、やはり信用できない」
「色々と理由はあるのだが、まず前提にうちの子らと年齢が合いそうだと言うことかな」
そう前置きし、エルネストはアリエルを見つめ、小さくため息をついた。そのため息は、アリエルを気遣い、今から話す事に抵抗を示すため息だったに違いない。
「アリエル。ああ、私は勝手にそう呼ばせて貰っているがね。君は、その外見では生きづらいだろう」
「……」
「美しい外見というものは、ある程度の恵まれた生活の中では利点が多いだろう。だが、君の様に年端も行かぬうちから道端で生活する者にとっては危険ばかりが重なる。身を守る術を身につけようにも、その前に。いや、もうすでに何度も酷い目に遭っているのではないのかな?」
「お前だってそうしようとしているんだろう!」
悲鳴にも似た声を発し、アリエルは怯えて涙した。
「誰も信用なんかしない! 誰もっ!」
優しい素振りでおびき寄せ、酷く乱暴される事は身体だけではなく心にまで大きく深い傷を負う。味わう屈辱は怒りを通り越し、ただただ悲しみしか残らない。みっともないと思いながらもアリエルは大声を発して泣きわめいた。
もう、どうすることもできなかった。逃げる場所も何も残されていない。自分を守る術も何も無い。妹は、私を置いて一人天国で幸せでいるのかもしれない。どうして私も一緒に連れていってはくれなかったのか!
「信用しろとは言わないとも。そういうことは、言葉にすることではないからね。けれどね、アリエル。まずはフランス語を覚えなければ、君の意志を周りに伝える事すら罷りならないのではないのかな?」
アリエルの話す言葉は英語だったのだ。
エルネストはアリエルに合わせて英語で会話をしてくれていたのだ。言葉も通じず、たった一人で路上生活を余儀なくされた子供の孤独は、想像を絶するものだっただろう。
「うちの子らは皆英語も話せる。彼らと友人になれば、アリエルもフランス語を覚える事に苦労もしないだろうと思うのだが。どうだろう?」
ブルージルコンの優しい瞳を向けるエルネストに、アリエルは嗚咽を漏らしながら頭を下げた。
確かにエルネストの言う通りだ。会話が成立するのはどのくらいぶりだろうか。
これが最期のチャンスなのかもしれない。自分が人として普通に生きていく為の、たった一つだけ残され与えられた、一度きりの。
神がお与えくださった、救いの手に違いない。
「どうか、宜しくお願いします。エルネストさん……」
エルネストは、アリエルに名前と共に言葉を与えた。
言語を操れれば、世界は広がる。彼は自由をくれたのだ。彼こそが、アリエルにとっては神だと言える、そんな存在だった。
アリエルはずっと自分だけの狭い世界の中で孤立していた。密入国者でフランス語を話せる者などほとんど居ない。その中でも特に英語圏のストリートチルドレンは少ない上に、アリエルの容姿のせいでトラブルに巻き込まれたくないが為に、敬遠され、孤立せざるを得なかったのだ。
国境の壁も高く険しかったが、言葉の壁もまた高く、頂上が見えない程だ。
「いつか、言語というものが統一されると良いとは思わないかね? そして宗教も統一され、世界は一つになる。そうすれば皆が幸せになる。私はそんな世界が理想なのだよ」
エルネストが連れていた黒髪の少年。彼はカインという名であると、アリエルは知った。
エルネストの三人の里子の一人で、歳はアリエルと同じく十四歳辺りという事だ。彼ら三人はエルネストの自宅では無い別の大きな邸宅を住まいとしているようだ。
アリエルはカインと友達になりたいと望んでいた。だが、臆病さと人見知りでろくに会話もできないでいるうちに、十六歳になる頃には、カインは家を出て遠くへ行ってしまった。
学校ですら顔を合わせる事ができないのか、と、ガッカリと肩を落としていたアリエルに声を掛けたのは、ミシェルだった。
「カインが居なくなってしまって残念だったね」
今思えば、彼はその想いを共有したくて声を掛けてくれたのかもしれない。
プラチナブロンドに黄金色の瞳をしたミシェルは、女性かと見間違う程に美しく、また、ずば抜けた学力の持ち主であった為、周りから一目置かれていた。同じくエルネストの三人の里子の一人であるガブリエルとは、アリエルは同じクラスであるということもあり、エルネストの指示なのかフランス語を丁寧に教えてくれたりもしていたが、ミシェルとまともに会話をしたのはその時が初めてだった。
「キミは、カインをいつも陰から見て追いかけまわしていたね。あれは何故なんだい?」
ミシェルの問いに、アリエルは顔を真っ赤にして俯いた。
「友達に、なりたくて」
カインはいつも眩しいくらいの笑顔を振りまき、誰にでも親切で人当たりが良いので、当然の如く友人が多く、彼の周りにはいつだって人が集まった。
「そうか、それは残念だったね」
金色の瞳を寂しげに伏せると、プラチナブロンドの長い睫毛でふわりと瞬きをし、ミシェルはその場から立ち去ろうとした。
「あ、待って。あの……私も、エルネストさんのお世話になってるの。ミシェルは彼の里子なんでしょう? 別の邸宅に住んでるって聞いたけれど」
「……なんだって!?」
金色の瞳を見開き、ミシェルはアリエルを見つめた。
「キミは……!」
ミシェルが掴みかからんばかりに手を伸ばすと、それに驚いてアリエルはその場にへたりと座り込んだ。エルネストの世話になってまだ数年。暴力的な人の行為を見ると臆し、体が悴む様に身動きが取れなくなってしまう。
ミシェルは怯え切ったアリエルの様子に気づきピタリと手を止めると、その手を降ろして握りこぶしを握った。
その拳は震えていた。怒りなのか、恐れなのか、アリエルには分からなかったが、ミシェルがアリエルを見つめた時の瞳はどこか、労わる様な優しさが込められていた。
「……そうか。キミもそうなんだね。すまなかった」
アリエルにはミシェルが何を言いたかったのか分からなかったが、ゆっくりと差し出されたミシェルの手を掴んだ時、手袋越しだったとはいえその手の力強さに驚いた。
自分の様に女性的な外見を持っているというのに、ミシェルのその力強さは男性そのものだったからだ。立ち上がった時、足がもつれたアリエルを難なく支え、ミシェルは片眉を吊り上げてため息をついた。
「キミ、もう少し鍛えた方がいいね。男らしくしろとは言わないけれど、ひ弱な男はみっともないよ。努力でどうにかなることはすべきさ。そうだね、流行りのサバットなんて向いているんじゃないかな? 女性にも人気だから、キミのような外見でも受け入れやすいと思うよ」
——回想を話し終え、アリエルはため息をついた。
「……私は、その日のうちにエルネストさんに頼み込んで、サバットを習いに行ったの。カインとは友達になれなかったから、私はミシェルとは絶対に友達になろうって思ったのよ」
アリエルの話を聞きながら、総一朗は小さくため息をついた。似た者同士の同気相求を感じたアリエルに対し、ファメールは同俗嫌悪を抱いたに違いない。そこが噛み合わなかったのだなと、なんとも渋い顔をした。
「ミシェルの気持ちを確かめずに婚約者になったのか?」
「彼から他人に話しかけるのは珍しい事だったのよ。嫌われてるだなんて微塵も思わなかったわ。それに私は、ミシェルがエルネストさんにどんなにか酷い事をされているのかなんて全然知らなかった! この気持ちが、彼の枷になってるだなんて、少しも思わなかったのよ。私が彼と結ばれなくても構わない。アンジュといる事で彼が幸せならそれでいいって、そう思っていたのに……」
アリエルの言葉に、ヴィベルは寂しげに眉を寄せた。
「ファメールが決して貴方を受け入れなくてもですか?」
アリエルはヴィベルの襟首を掴むと、「貴方に何が分かるって言うのよ!!」と、怒鳴りつけた。
「じゃあどうすればいいのよ! 私だって男になんか産まれたく無かったわ! よりによってミシェルを愛してしまうだなんてっ!! 男性へのトラウマがあるミシェルに……!!」
わっと泣き崩れたアリエルを、ヴィベルは唇を噛みしめたまま見下ろした。いつものヴィベルであればアリエルを慰めようとしただろう。けれど、どうしても里桜を傷つけたアリエルが許せなかった。
「それなら分かるはずでしょう!! リオの気持ちだって、貴方は解るはずだ! 女性なのに子供を産めなくなってしまったリオの気持ちは貴方以上に傷ついているのだとどうしてわからないんです!?」
「認めたくなかったのよ! だって、余りにミシェルが可哀想過ぎるじゃない。どうして、よりによって!! アンジュにとっても不幸だわ! 二人とも傷つく未来が予想つくじゃない! ミシェルだって、子供が欲しいって思うはずだもの!」
総一朗はため息をつくと、アリエルの前でしゃがみ、やっと見つけ出した皺々のハンカチをそっと差し出した。
「すまぬな。私の子らが傷つけてしまったようだ」
「総一朗!」
「ラファエル。少し落ち着け」
「私が怒らなかったらリオに申し訳無いじゃないですか!」
「あの子はそんなことを望んでいないだろう」
総一朗の言葉にヴィベルが押し黙ると、総一朗はアリエルを見つめた。優しく穏やかに見つめるその様子に、アリエルは涙を零しながら、差し出されたハンカチを受け取った。
「私がずっと逃げてばかりいたのが悪かったのだ。リオを隠そうとすればするほどに、エルネストが他の誰かを傷つけるのだと分かっていながらも逃げ続けた。ぬしが傷ついたのも私の責任だと言えるな」
深いため息をつく総一朗を見つめながら、ヴィベルは眉を寄せた。自分の責任だと、総一朗はそう思っていたからこそ、恐らくジエルも社に受け入れたのだろう。エルネストに傷つけられた者全てに対し、総一朗は悔恨の情を抱いているに違いない。
「アリエル。貴方に一つお聞きしたい事があります」
僅かに間を空けた後、ヴィベルは口を開いた。
「家に火を放ったのは、何故です?」
ヴィベルの言葉に、アリエルは小さく呼吸をし、サファイアの瞳をヴィベルに向けた。
「……気づいていたの?」
「ええ。発火元は確かにアダムの放った義手でしたが、ジエルの組んだプログラムとは明らかに違いました。貴方が日本に来たタイミングといい、引っかかるものがあったので調べたんです。そうしたら、貴方のスマートフォン経由で義手にアクセスしたログが見つかりました」
アリエルは総一朗から受け取ったハンカチで涙を拭くと、「……エルの指示よ」と答えた。
「どういうことだ? エルネストはもう亡くなっているというのに、どうやって現実世界にいたお前に指示が出せたというのだ?」
総一朗の言葉に、アリエルは首を左右に振った。
「肉体は消えたかもしれないけれど、魂が生きている。ミシェルを追って日本へ行くように指示したのも彼だもの」
「一体どうやって……!」
「スマホにメールが届くの」
ヴィベルと総一朗はゴクリと息を呑んだ。
——エルネストは死後にアリエルに連絡を取っていた? しかし、もしもエルネストがアルマゲドンと現実世界を自由に行き来ができるのだとしたら、わざわざアリエルに指示を出したりはしないだろう。だとすれば、可能なのは通信のみか……?
「エルネストが指示を出せる人間が、アリエルの他にも居るのだとしたらまずいな」
「私達は今、アダム以外全員がアルマゲドンにダイブしていますから、現実世界でフォローできる人間がいません」
「何にせよ、現実世界とのやりとりが可能であるのがエルネストのみであるならばどうしようもあるまい。アリエル、そのメールはいつもどういった具合で届いていたのだ?」
「短いフランス語で、よ」
ヴィベルはドキリとして顔を上げた。
里桜に届いていた短文のフランス語。あのメールの差出人は、まさか……




