嘘
ファメールは羽ペンを握った手を止めたままため息をついた。ポトリとインクが紙に落ち、じんわりと滲む。夢幻の世界のくせに面倒なものだとうんざりとして顔を顰めた。
書き直す為に新しい紙を取ろうと腕を伸ばした時、手首につけられた黄金の輪が机に当たりカチャリと音を発した。忌々しい、と口をへの字に曲げて輪を見つめると、自分を呼ぶ声が聞こえ、驚いて顔を上げた。
目の前にブラウンの髪にブルージルコンの瞳をした女性が立っており、ファメールは眉を寄せ、すぐに視線を外した。
「人間のくせにこの大天使ミカエルの元に訪れるだなんて、キミは身の程というものを知らないのかい?」
——里桜。僕に話しかけるな。会話は全てエルネストに筒抜けだ。
「ごめんなさい。どうしても会いたかったの」
おずおずと言葉を発する里桜に違和感を覚え、再び彼女へと視線を向けた。里桜の服装はTシャツにカーゴパンツ姿といったボーイッシュな出で立ちで、ファメールがレアンを通じてプレゼントしていた服ではなかった。
「私と一緒に現実世界に帰ろう? ねぇ、お願い」
差し伸べる里桜の白い手を見つめ、ファメールはため息を吐いた。
「……エルネスト。冗談が過ぎるよ。何の真似だい?」
ファメールの言葉に里桜はクスクスと笑うと、「バレたか」と、チロリと舌を出した。
今目の前に立っている里桜は、エルネストが作り出した幻影だ。当然、会話は全てエルネストが作っている。
——里桜がここに居るはずがない。レアンを監視につけ、絶対に神殿には来ない様にとしているのだから。それだというのに、ほんの一瞬でも本人だと錯覚した自分が腹立たしい。
と、ファメールは忌々し気に眉を寄せると、視線を偽物から外し、紙を手に取って羽ペンでサラサラと書類を書き進めた。
そうとも。僕は今里桜と顔を合わせる訳にはいかないのだ。それはレアンが良く理解していることだろう。例え里桜が強行に及んだとしても、レアンならば何としても食い止めてくれるはずだ。
僕は自分というものをそれなりに理解しているつもりだ。だからこそ、冷静さを失う様な行動は控える様に徹しなければならない。つまり、里桜と顔を合わせて冷静でいられる自信が無いのだ。こうしている時でさえ、エルネストに対しての憎しみでどうにかなってしまいそうだというのに。
「何故すぐ分かったのだね? 見た目も話し方も完璧にコピーしたはずなのだがね?」
——僕に会いに来るのに、僕がプレゼントした服を着て来ない程彼女は無神経じゃないからね。
と、心の中で悪態をついた後、ファメールはため息を小さく漏らした。
「僕を信用していないのは知っているけれど、わざわざ回りくどいテストをしたところで、僕が尻尾を出すとでも思っているのかい? 何の用さ? 知っての通り、熾天使ミカエルとしての業務に忙殺されているんだけれど?」
「お前は少々賢し過ぎる。リオがこの世界に再びダイブしたと知るや否や、ああも素早く行動を取るのは余りに不自然だね。時間を稼いで何を企んでいるのかな?」
里桜の姿をした幻影は、普段里桜がすることは決してないであろう嘲笑するような目をファメールへと向けた。
「……その幻影、なんとかならないの? 虫唾が走るんだけれど」
「ははは。下手な姿だとお前に消され兼ねないからね。リオの姿ならば例え偽物だとしても手を出せまい? 今は私の眠りの時だ。自ら動けぬ以上はこうして何かしらのコピーを送り付けるしか無かったのでね。それともカインの姿の方が良かったかね?」
確かに、アルカの姿ならば腹いせに殴るくらいはしていたかもしれないな、と、舌打ちをした。
「大人しく眠っていなよ。もういい歳なんだからさ」
「こちらの世界では思念だけなのだから、年齢という概念は無いとも」
「前よりもしつこくなったんじゃないのかい?」
「嬉しいのだよ。愛する我が子らにこうして再会できたのだからね。ずっと待ちわびていた時をこうして迎えたのだから、感傷に浸るのを赦してはくれないかな」
これ以上くだらない会話を続けるのは無意味だ、と、ファメールはうんざりしたようにため息をついた。
「『時間を稼いで何を企んでいるか』の質問だけれど。別に大した企みなんか無いさ。僕はただ……」
『F』の刻印があるレアンは、里桜と共に現実世界に戻る事ができないかもしれない。アルカが復活した暁には、里桜との別れを余儀なくされるのだ。けれど、勿論僕はレアンを一人でこの世界に残すつもりはない。アルカの様な目に遭わせる気はない。
共にこの世界でこの身を終える覚悟はできている。
「ただ、不憫だと思っただけさ。貴方にとって都合の良い様にばかり動く僕らがね」
エルネストが何故この世界に執着し、僕らを創成したのか。それは恐らく現実世界を消す為という目的も含まれていたからだろう。お望み通り僕もレアンもこの世界に残る。
けれど、里桜はダメだ。
彼女だけは何としてでも……。
里桜の姿からふっと老齢の男性の姿へと変えると、エルネストは眉間に皺を寄せてため息をついた。ファメールはエルネストから視線を外し、再び書類へと瞳を向けた。
「この姿を見るのも嫌なのだね」
「当たりまえじゃないか。忌々しいったらないね」
「リオの手術をしたのはガブリエルかな?」
エルネストの問いに頷くと、感嘆の声を漏らした。
「ではガブリエルは克服したということだね。素晴らしい子だ」
「……克服だって?」
「あの子は女性の手術ができなかったはずだ。女性に触れる事すらね」
ファメールは訝しく思い眉を寄せた。まるでレアンの成長を心から祝福でもしているかのような素振りに嫌悪感を抱く。
——エルネスト、貴方こそ何を企んでいる……?
「お前は賢しいが、弱いねミシェル」
エルネストは残念そうに眉を顰め、ファメールへと言葉を放った。
「お前には私の邪魔などできぬよ」
「僕が弱いからかい?」
ファメールの問いにエルネストはふっと肩を揺らして笑った後に首を左右に振った。
「……エルネスト」
ファメールはカタリと羽根ペンを置くと、瞳を閉じ、両手を組んだ拳に額を当てた。
「僕は貴方が憎い。堪らない程にね」
「ははは。知っているとも。だが、まだまだ足りないね。もっと私を憎んで貰わなければいけないね」
——これ以上、もっと憎まれる様な行為をする気か? 何故? 実験体としての役目は終えたはずだ。彼に憎まれるような事をした覚えも無い。しかし、ただ単にいたぶる事を愉しむだけの変態だとも思えない。それが分からないから余計に苛立ちを覚えるのだろう。
「いっそのこと殺してくれたら良かったのに」
「何を言う。私はお前を愛しているのだよ、ミシェル」
吐き気がする、と、ファメールは眉を寄せた。
「アルマゲドンは創成された。これ以上僕達に係わる理由は何だ? 自分の好きな世界で自由にしていれば良かったじゃないか。僕達は最早貴方にとって邪魔でしか無い存在なはずだろう?」
「言ったではないか。私はお前を愛しているのだ。お前達を、ね。けれども勘違いしてはいけないよ。最も愛しているのはリオなのだからね。全てはリオの為にしていることなのだよ」
「貴方の歪んだ愛情をリオにも向ける気なのかい? 彼女を傷つけるだけだから放っておいてやればいいのに」
「そうではないな。もうずっとリオの為にしか私は存在していないのだよ。最初から、ずっとね」
里桜には何もするなと言ったところで、もう遅いのだろうなと思いながら、ファメールは瞳を閉じた。
「愛する人を傷つけるのが貴方の趣味なのかい? 悪趣味もほどほどにして欲しいものだよね。嫌われても知らないよ? ……ああ、もうとっくに嫌われているかな。リオは貴方が憎くて堪らないだろうさ。彼女にとってアルカは……カインは自分を救ってくれた唯一無二の存在だった。その大切なカインを傷つけ貶めた貴方を憎むのは当然だろうからね」
里桜を傷つけたこの男が堪らなく憎い。ファメールは沸き起こる憎しみを静かに言葉を吐きながら、必死に抑え込んだ。
——今はまだ駄目だ。怒りを鎮めなければ。全てを台無しにしてしまう。
と、自分に言い聞かせ、ふぅっと息を吐いた。
「憎まれてこそ本望だとも」
肩を揺らしながら嬉しそうに笑うエルネストに舌打ちをすると、ファメールはうんざりした様に「最低だね」と毒づいた。
「まだ足りないね。もっと憎んで貰わなければならない」
「もう十分だと思うけれど?」
「いいや。まだまだ足りないね。……さて、ミシェルよ。教えは覚えているかな?」
リンと、ファメールの手首につけられた黄金の腕輪が音を発した。服従の意思を見せろとでも言いたいのか、と、ファメールはうんざりしながら口を開いた。
「祈れって?」
「忘れたのかね? 私は『エル』。この世界では神なのだよ。祈りの言葉は私へ対する忠誠の証だとも」
「このセンスの欠片も無い腕輪だけじゃ物足りないのかい? つくづく強欲な男だね」
「神に祈りを捧げよ、熾天使ミカエル」
ファメールは椅子から立ち上がると、するりと衣擦れの音を発して跪き、手を組んで瞳を閉じた。
七大天使の長、ミカエルが纏う純白の聖衣が淡い光すら発しているかのように神々しく、その祈りは何よりも神聖なものの様に見えた。
「……天にまします我らの父よ。願わくは聖名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」
聖書に記された主の祈りをファメールは無感情のようにさらさらと言い放った。ああ、僕はほんの少しもこんな事を真実として口から放っている訳ではないのだ、とでも言わんばかりにだ。
「ふふふ。聖書の世界とは本当に素晴らしい」
エルネストは含み笑いを漏らしながら楽し気にそう言った。
「この世界には嘘が存在しない。わかるかな?」
「分かっているさ。聖書通りの汚れのない完璧な世界を貴方は創りたかったんだろう?」
何を今更、と、眉を寄せたファメールをにやにやと笑いながら見つめるエルネストにハッとして、ファメールは唇を強く噛みしめた。
——穢れの無い。嘘の無い世界。
つまり、この世界では嘘がつけない。ファメールが放った言葉も全ては本当の事なのだ。それは、ファメール自身がエルネストに対し、絶対的に服従をし、心から神として崇めていることが真実なのだと言っているのだ。
「……最悪だね」
自分にあきれ果てる。と、ファメールは拳を握りしめた。悔し気なファメールのその様子をエルネストは満足気に見つめると、ふっと笑った。
「裏切る事はできぬよ。愛するミシェルよ」
エルネストがそう皮肉を言い残し、姿を消した。
苛立ってその辺にあった書物を投げつけたい気持ちをぐっと抑える。
——なんということだ。赦せないはずだというのに。屈してはいけない相手なのだというのに!
僕やレアン、アルカを傷つけた事よりも里桜を傷つけた事にどうしようもない程の憤りを覚えてならない。僕達が傷つけられた事は哀しみの方が強かった。けれど、里桜に対しては……。
彼女は……子供を産めない身体になってしまってどんなにか絶望を味わっただろうか……。
レアンから聞いた彼女の夢は『お嫁さんになりたい』という女性であれば誰もが夢とも思わない程の慎まやかな事だった。幼少の頃から母親に厳しいまでの英才教育を受け、彼女は努力してきたのだ。
それに……僕は微笑ましそうに遊ぶ子供達を眺めていた里桜の視線や、プティタンジュ達と楽し気に戯れる様子を知っている……。
ふつふつと沸き起こる怒りで握りしめる両手に力が入った。
何故奪った。エルネスト……!! そして、それを僕は赦しているというのか!? これ以上の屈辱はない!!
怒りに任せ、ファメールは我慢しきれずに拳を机に叩きつけた。普段の彼ならばどんなにか怒りに苛まれ様とも決してしない行為だった。
机の上に置いてあった墨壺から羽ペンが落ち、たっぷりと含んだ墨で紙や机を汚しながら転がり床へと落ちた。バチリと音が発したので、恐らくペン先が割れたことだろう。
再びファメールが机を叩きつけた。墨壺から墨が跳ね、ファメールの白い手に降りかかった。紙も、机も、床も汚れ、まるで彼の心の内を現したかのような惨事となっている。
——どうして。どうして。どうして……。僕は自分が理解できない。あの男を地獄に叩き落とし、どれほどの悪意の籠った報いを受けさせたところで、それこそ当然と手を叩いて笑う事ができると思っていた。
それなのに、僕は何故? あれが嘘ではない真実だというのか?
息を切らせた後、ファメールはくっと笑った。
……いいや。どちらも真実なのだ。
養父に温情を受け、育てられた時間も。養父に虐待を受けた時間も。そのどちらもが。それならば両方の気持ちを保有していたところで何ら不思議はない。
あの男はただ、取り乱す僕の様が見たいが為に、わざとああ言ったのだ。今頃僕の様子に聞き耳を立てているに違いない。
エルネストへの呪いの言葉を、冒涜を口にする事を予測し、今か今かと待ちわびている様子が手に取る様だ。
——その手には乗らないよ。
と、溜息をつくと、墨で汚れた手を布で拭き、天窓へと視線をむけた。黄金色の雲と黄金色の空を見つめた後、小さく独り言を言った。
「今日も、天の川は見えない……」
里桜。一刻も早く、キミを現実世界に戻したい。
僕が訪れなければ良かったんだ。あの日、彼女の家に……。そうすればこんな事に巻き込まずに済んだのかもしれない。彼女を傷つけたのは僕の我儘が引き起こした結果だ。
思えば僕の行動がすべてを狂わせてしまったのだと思わざるを得ない。目立つような行動を何より嫌う僕が、あんな記者会見を開くだなんて。その矛盾を今まで考えない様にしてきたけれど、そうはいかない。僕は自分の取った行動に責任を取らなければならないのだから。
ヴィベルを巻き込まずにアルカを救う事ができたかと言えば否だろう。いずれは総一朗とも関わる事になっただろうけれど、里桜と顔を合わせずに事を済ますのは、少し考えれば十分できたはずだ。
エルネストの望みが里桜なのだと、僕は本当に気づいていなかったのだろうか?
すまない。里桜。僕の責任だ……。
ファメールは小さくため息をつくと、俯いてぎゅっと瞳を閉じた。




