癒しの時間
「リオよ。再びダイブしたか」
エルネストは満足気に唇の端を持ち上げて笑うと、ぎゅっと拳を握りしめて呟いた。長い灰色の髪がさらりと肩から零れる。
里桜が二度目のダイブをするまでの間、彼は半日毎の目覚めが訪れず、長い眠りについていた。久方ぶりに訪れる目覚めに微睡みながら、マナの泉の水面に映り込む自分の顔を見、忌々し気に目を反らした。
——世界は二つしかない。常世と現世。つまりは夢の世界と、現実の世界だ。カインにとっての夢は私なのだ。だからこそ、カインは眠り続けなければならない。カインが目覚める時、私は眠りにつかなければならないのだから。
「エルネスト。いや、全知全能のエルよ」
ふわりと純白のローブを揺らし、ファメールが現れると、エルネストの前に跪いた。創成されたミカエルという人格ではない彼が、まるで忠臣の様に頭を垂れる姿に違和感を覚えながら、エルネストは僅かに眉を吊り上げた。
「リオがダイブしたのだろう? 早くここへ連れて来なさい」
「お願いがあります」
エルネストの発言にかぶせる様にファメールが言葉を放った。訝し気に眉を寄せてファメールを見下ろすエルネストに、ファメールは更に深く頭を垂れた。
「リオは深手を負っているんだ。今、ガブリエルが治療している。癒えるまでの間だけでいいから、そっとしておいてあげて欲しい」
「……ほぉ? 深手とは?」
「現実世界で無茶をしたんだろう。貴方に傷つけられた傷口が開いたのさ」
「ガブリエルならば簡単に癒せることではないか」
「傷が癒えても心はそう簡単には癒えない。そんなこと、言わなくても貴方なら分かることだろう?」
感情を込めない様に、ファメールは淡々と話した。無に徹さなければ、自分が何をするか分からないからだ。
エルネストが里桜を傷つけた事が堪らなく憎い。自分達兄弟がされたことよりも、ずっと、ずっとだ。どす黒いもやもやとした感情がマグマの如く沸き起こり、気が狂いそうになるほどの憎しみを抑え込む為、ファメールは機械的に話し続けた。
「時間が欲しい。彼女の心を落ち着かせる時間を」
「かわいいお前の言うことだからね。代償次第では聞いてあげよう。何を引き換えにする気かな?」
僅かに躊躇った後、ファメールは言葉を発した。
「……僕だ」
エルネストは感嘆の声を僅かに漏らした後にニヤリと笑うと、人差し指をゆらりと動かした。ファメールの左手首に黄金色の輪がカチリとはめられる。
「承認しようとも。その輪はお前の会話も全て私に筒抜けということになる忠誠の輪だよ。私からのプレゼントだ、気にいったかね?」
首輪の様な物か、と、ファメールは苦々し気に思った。どっちにしろ、上位権限を持つエルネストには逆らえないというのに、わざとらしく権力を見せつける為にこんなものを付けたのだ。
左手にこの腕輪の重さを感じる度に、『ああ、僕はエルネストの忠実なる僕なのだ』と、思い出させる為に。
「お前はどう思うかね、ミシェルよ。この姿、お前の会いたかったカインの姿だ。ガブリエルは気に食わなかったようだがね」
あからさまに機嫌良さそうにエルネストは笑うと、優雅に灰色の髪をかきあげた。
その口調。アルカの姿から発せられているかと思うと吐き気がするよ、と、ファメールはうんざりとして視線を外した。
「若返って良かったじゃないか」
「カインもやがては歳をとる。私達親子は似ているのだ。そうなった時もお前はそうして同じように目を反らす気かね?」
「恐れ多くて顔を上げられないだけさ」
ファメールの皮肉に肩を揺らしてエルネストは笑うと、すっと小首を傾げて何かの気配を感じ取る様な素振りをとった。
「さて、客が来るようだ。早速だが相手をしてやってくれないかな? 我が忠実なる僕ミカエルよ」
「エルネスト!!」
怒鳴り声に近い程の声を荒げながら、剣を振りかざし、総一朗がエルネスト目掛けて突進してきた。
キィイイイイイン!! と、耳がつんざく様な金属音が鳴り響き、エルネストの前に身を滑らせたファメールが総一朗の剣を魔法障壁で弾いた。
「総一朗、待ってください! 冷静になってください!!」
ヴィベルが叫びながら総一朗を止めようと駆けこんで来ると、目の前に立ちはだかるファメールの姿に驚いてブルートパーズの瞳を見開いた。
——何故、ファメールがエルネストを守っているのだろうか……?
いくらエルネストが上位権限だといえども、これでは主を守る番犬の様では無いか。
ファメールは心の中でため息をつき、尚も抵抗を続ける総一朗をねじ伏せようとパッと手で弾く様な素振りを取った。風圧に吹き飛ばされた総一朗を庇おうと、ヴィベルは咄嗟に腕を伸ばし、総一朗諸共倒れ込んだ。倒れ込みながらもヴィベルは詠唱し、せめてもの抵抗だと言わんばかりにエルネスト目掛けて風じんを放った。
総一朗ではなく自分に目を向けさせる為に、だ。狙うならば自分を狙えと、必死の抵抗だった。里桜に、これ以上親を失う寂しさを味わわせたくない。
これ以上己を責める様な事をさせたくはない!
ヴィベルが放った風じんをファメールはいとも簡単に手を翳して消し去ると、エルネストの前に立ち、主を守護する絶対的な忠誠を誓った者の様に総一朗とヴィベルを見下ろした。
「邪魔をするな、ミシェル!!」
総一朗の言葉にファメールは金色の瞳を細めると、片眉を吊り上げて小ばかにした様に鼻で笑った。
「理解できないね。七大天使ともあろう者が、神に盾突くだなんてさ」
ふわりと手を翳すと、ファメールの手のひらに複雑な文様の描かれた魔法陣が現れた。威圧感が総一朗とヴィベルを襲う。あの魔術を食らおうものなら、たとえアルマゲドンの中でそれなりの権威を持つ七大天使といえどもただでは済まないだろう。
ファメールとの明らかな力の差を感じる。
流石、全ての天使の長である熾天使ミカエル殿という訳か、と総一朗はぐっと唇を噛み、苦々し気にファメールを睨みつけた。
ヴィベルはファメールの左手首に黄金色の輪の様な物が付けられているのに違和感を覚えた。彼が好んで身に着ける宝飾品にしては、嫌に武骨なデザインだ。
「エル。ご命令とあらばこいつらをここで始末するけれど?」
ファメールの申し出にエルネストは何も答えずにマナの泉の中で佇んだまま、残念そうに顔を顰めた。その表情に総一朗は憎しみを込めてエルネストを睨みつけた。
「なんだ、総一朗。久しぶりに会ったというのに義父に対してその反抗的な目は」
「黙れっ!」
「ああ、そうか。もてなす酒の席を準備していなかったね。だから怒っているのかな?」
総一朗は、リタの一件以来一切アルコールを口にしなくなった。怒りに任せて剣先をエルネストに向けた瞬間、サッとファメールが杖先を総一朗へと向けた。反抗的な態度を取るなと威嚇したのだろう。ファメールの動きに満足気にエルネストは笑うと、灰色の瞳でジロリとヴィベルを見つめた。
「お前がラファエルか。成程、総一朗の教育が良いのだな、立派に育ったものだ」
「そんなこと、貴方に言われる筋合いなどありませんよ!!」
「『肉』は相変わらず食えぬのかな?」
「……!」
ヴィベルが口を噤むと、エルネストが肩を揺らして笑った。
「やはりまだ駄目か。人の心は脆く崩れやすく、そして癒えるのも余りに時間がかかる。ミシェルよ、お前の言った通りだね」
何の事だ? と、ファメールが眉を寄せると、ヴィベルが込み上げる吐き気にくっと僅かに空気を飲み込んで抑えた。
——ヴィベルの父親は、確か母親を殺して服役中だと言っていたな。
と、ファメールは考えて、ヴィベルを見つめた。
「ではこうしよう。ラファエルよ、お前が『肉』を食せるようになったのなら、お前だけは現実世界に帰してやろうとも」
エルネストのその言葉に、ファメールはざわざわと嫌な予感が沸き起こった。エルネストは、他人の心の傷を抉り弄ぶ。
……まさか、ヴィベルの父親は、母親を殺してヴィベルに食わせたのか……?
「何を……! 私だけ帰っても意味はありませんよ! それにあの事件の事は貴方とは関係の無い話です。私は絶対に貴方に屈しません!!」
必死にエルネストに向かって叫ぶヴィベルを見つめながら、ファメールは唇を噛みしめた。
——『裏切者』だなんて言って悪かった。エルネストの手でそれ以上の負荷をかけられずに済んで良かったのだと思うべきだった。僕は心のどこかで、里桜と通じ合っているヴィベルが羨ましかったのかもしれない。
そんな壮絶な幼少期のトラウマに、更にエルネストからの負荷を受けたのなら、恐らくヴィベルは今頃廃人と化していたことだろう。
「仕方がないのだよ。皆過去を克服できずにいるのだからね。克服できれば、その者にとってこの世界は不要だろうとも。現実世界から目を背け、逃げ込む必要などないのだからね」
エルネストの言葉に、総一朗は眉間に皺を深く刻みながら睨みつけた。
「貴様から解放される為の術はそれだというのか? 過去を乗り越えろと?」
総一朗の言葉にエルネストは僅かに笑みを浮かべて頷いた。
「私から、ではないとも。この世界からだよ。ここは憎しみにより生み出された世界なのだからね。己の中にある現実世界に対する絶望を克服したとき、この世界から抜け出す事ができるのだよ。それが堕ちるということだ。尤も簡単な事ではないとは思うがね」
「ファメールやレアンを克服できない程に打ちのめしたのは貴方でしょう!!」
ヴィベルの言葉に、ファメールはズキリと心が痛んだ。
——ヴィベル、キミは僕に『裏切者』と言われても尚、僕達の事をそうやって気遣ってくれるのか……?
ファメールが表情を変えないまま、心の痛みに耐えていると、「そうとも」と、エルネストはため息をつきながら肩を竦めた。
「だからこそ、この世界は必要なのだよ。そうだろう? 総一朗。リオは、この世界に癒しを求めている。だから再びダイブしたのだ」
ヴィベルは嫌悪感露わにブルートパーズの瞳でエルネストを睨みつけた。
——癒しを求めて? ……そんな生半可なものではない。アルカの様に、心を傷つけられてズタズタにされて、立ち向かう力も無い彼女が逃げ込む事を余儀なくされた結果がダイブだ!
ファメールにもレアンにも、つかなくても良い深い傷を刻み付けておいて、それを必要な犠牲であると当然の様に笑うこの男が、憎くてたまらない!!
「エルネスト。私は貴方を決して許しません」
ブルートパーズの瞳でエルネストを睨みつけて、ヴィベルは言葉を放った。
「もう誰も、貴方の犠牲になどさせません!!」
——拙い……。
と、ファメールは思った。
これ以上このままにしておけば、ヴィベルの手首にまでこの忌々しい黄金色の腕輪がつけられる可能性がある。彼は里桜にとって必要な存在だ。取り上げる訳にはいかない。
カツリ! と杖をつき、ファメールは威嚇した。
「口の利き方に気を付けなよ、ヴィベル。この世界でのキミは七大天使の一人、ラファエルだ。癒しと導きの天使なんだろう? キミに戦いは向いていない」
——『癒しと導きの天使』……
何故ファメールはそんな言葉を口にしたのだろうか。彼らしくない。
と思ってヴィベルはじっとファメールを見つめた。
——分かるだろう? ヴィベル。
と、ファメールは金色の瞳を静かにヴィベルへと向けていた。
この世界の最上位権限を持つエルネストと直接対峙すれば、不正プログラムとみなされて僕達はすぐに消されてしまう。エルネスト自身それを望んでなどいない。だから僕という緩衝材として忠実なる僕が必要だったんだ。そこを逆手に取るしか今は難を逃れる方法がない。時間を稼ぐんだ。里桜の為に。
すぅっと息を吸い込んで、ファメールは聖典を説くかの如く凛とした声を放った。
「大天使ラファエルよ。トビトの息子を導いたように。ラジエルの書を渡しノアを導いた様に。或いはソロモンへ指輪を託したように。キミの役割を全うするんだ」
聖書の知識に明るくないヴィベルにも、ファメールの言わんとしていることが理解できた。
ファメールは暗に『今は戦うべき時ではない。里桜を導く者が必要なのだ、それがお前の役目だろう』と、そう言っているのだとヴィベルは解釈した。
「ファメール……」
ヴィベルは凛として無表情のまま澄ましているファメールを見つめた。
……まるで、全ての感情を押し殺しているかのようだと思った。
——悲しみも怒りも憎しみも無理やりに押し込めて、エルネストを守り私達の前に立ちはだかる。
本当は、誰よりもエルネストを殺したいだろうに。
その身を翻し、エルネストへと向けて魔術を放ってしまいたいだろうに。
今どれほどに感情を押し殺す為にもがき苦しんでいることだろうか。
私は、貴方も救いたいというのに!!
「総一朗!!」
ヴィベルは総一朗の服を掴むと、パッと手を翳してその場から消えた。これ以上ファメールを苦しめる訳にはいかないと判断したのだ。
ファメールは手の平に展開していた魔法陣を握りつぶすようにふっと消し去ると、エルネストの前で優雅に跪き、頭を垂れた。
「追った方が?」
「いや、構わぬ。どうせ何もできないだろうとも」
ふ……と、エルネストが瞳を閉じた。ファメールは空を見上げ、太陽の位置が高い事を確認した。
——正午か。エルネストの眠りにつく時間だ。本来であれば、アルカが目覚めるはずの時間……。
「折角目覚めたばかりだけれど、また眠りの時間だね、エル」
「それもまた神としての役割なのだからね。しようのない事だよ」
先ほどまでの、まるで悪の大魔王気取りで牽制を張っていた様子とは打って変わり、エルネストは深いため息をついた。その表情は穏やかで、一瞬、天文学の書物を手渡す優しい顔をした老齢の男と姿が重なり、ファメールは慌てて瞳を反らした。
——あれは、エルネストの本心ではない。欺く為の姿だ……。
「ミシェルよ、一つ言わせて貰えないだろうか」
「……何さ?」
「私はお前を誇りに思う」
すぅーっと意識を失うエルネストを前に、ファメールは嫌悪感露わに唇を噛みしめた。
皮肉を口にしたくなったのをぐっと抑えて、ファメールは魔術を使い、眠りについたアルカの肉体をマナの泉の杭へと固定した。鎖だけでは見栄えが悪いな、と、手で印を切り、するするとアルカの足元から黄金色の茨の蔦を這わせて身体を固定した。
「上出来だね。サマエルのくせに、まるで聖人みたいじゃないか」
満足気に笑い、泉の畔に腰かけて暫くアルカの姿を見つめていると、ヒィイイイイン!! と、マイクのハウリングの様な音が響き渡り、ファメールは驚いて目を見張った。
『あー。あー。マイクテスト。マイクテスト。こちらアダム。こちらアダム……ちっ。ヘッドフォンの電源入れんの忘れてしゃべってたぜっ! ……おーい、誰か聞こえるかー?』
この声は、どうやらたった今マナの泉の中に縛り付けたアルカから発せられている様だ。どう聞いても話しているのはアダムだろう。
しかし、アルカの身体は瞳を固く閉じたまま動くことなく、そのせいかこちらの様子は見えていないようだ。
——なるほど。現実世界に戻ったほんの僅かなあの時間に、ヴィベルがアダムに現実世界からアルマゲドンにアクセスする為の、なんらかのツールを与えたのだろう。
お手柄じゃないか、ヴィベル。僕の計算通りに動いてくれている様だ。流石だね。
カチャリと金属のぶつかる音が発せられ、ファメールはハッとして手首を押えた。エルネストによってつけられた腕輪が杖にぶつかったのだ。この腕輪がある限り、発言はすべてエルネストに筒抜けだ。眠りについている今、聞く事はできないとは思うが、念のため発言はしないにこしたことはない。
ファメールは小さくため息をつくと、アダムに声を掛ける事なく見つめた。アダムは尚も『もしもーし』と、周りに誰かいないかと声を放った後、諦めたのか大きなため息をついた。
『なんだよ。誰もいねぇのか。参ったなぁ……。なんか変なプログラムも一緒に動かしちまったみてぇだしよぉ。これ、小娘の叔父の作りかけのヤツじゃねぇのか? やべーなぁ……。カインの野郎のバックアップ復元プログラムだよなぁ?』
——カインのバックアップ? そんなものが存在したのか!?
と、ファメールはごくりと息を呑んだ。
作りかけだって……? それはまずい。今はヴィベルも総一朗もアルマゲドンにダイブしている。プログラムを完成させられる人間が、誰一人として現実世界にいないということになる。
……少し、計画を見直さなければいけないね。
ファメールは眉を寄せ、暫く考え込んだ後、パッと姿を消した。




