昏睡
ベッドで滾々と眠る里桜を見つめながら、ヴィベルは涙で滲む瞳を何度も擦った。瞳の周りは赤くただれ、ヒリヒリと痛む。
——里桜。お願いです。目を覚ましてください。
この言葉を何度呟いたことか知れない。応える事無く眠り続ける里桜を見つめ、すっかりと憔悴しきっているというのに涙は止まらない。
里桜は寝息一つ立てずに瞳を閉じており、本当に生きているのかと疑いたくなるほどに室内は静まり返っていた。
その静寂をノックの音が破り、キィと音を立ててアダムが顔を出した。里桜へと視線を向けた後、変わらない様子にため息を一つつき、遠慮がちにそっと室内へと入って来た。
「おい、小娘の叔父。お前干からびちまうんじゃねぇか? ホラ」
アダムからペットボトルに入った水を差し出されたが、ヴィベルは受け取ろうとしなかった。アダムは頭を掻いて椅子に掛け、ヴィベル同様眠り続ける里桜へと視線を向けた。
「ガブリエルの奴のおかげでよ、命には別状無かったってのに、何で目を覚まさねぇんだ? まさかまだアルマゲドンに居る訳じゃねぇよな?」
ヴィベルの反応を待って、何も答えようとしない様子にアダムは気まずそうに頭を掻いた後、勢いよく立ち上がった。椅子がその反動でガタリと倒れたが、それよりも早くアダムは床にひれ伏さんばかりに座り込み、ヴィベルに向かって頭を下げた。
「すまねぇ。後生だ。どうかあいつらを助けてやってくれ!」
「アダム……?」
訝し気に眉を寄せたヴィベルの前に、アダムがポケットからチップを取り出して置いた。それはアダムの削除プログラムが格納されたチップだった。
「どうして貴方がそれを?」
——自分を削除する為のプログラムなのだとアダムは知っているのか?
と、ヴィベルは唖然としてアダムを見下ろした。アダムは顔を上げず、頭を下げたままの状態で唇を噛みしめ、拳をぎゅっと握りしめた。
「アダム、ひょっとして貴方は……」
「小娘が帰って来たらこいつを小娘に渡せってミシェルに言われてたんだ!」
ヴィベルの言葉に被せるようにアダムが声を発した。
「こいつで俺を消せば、カインの野郎が復活するんだろう?」
ドキリとして絶句するヴィベルを前に、アダムは尚も続けた。
「ミシェルの奴も一緒に帰って来ると思ってたんだ。そしたらよぉ、俺が消えた後はあいつら三人で過ごせるだろ? それなのに、あいつはあの世界に残った。あいつは、帰って来ねぇ気なんだろう? ンなこと赦されると思うか!?」
灰色の瞳を真っ直ぐとヴィベルに向け、アダムは叫ぶ様に言葉を放った。
「カインの野郎の本当の望みって何だか分かるだろ? 小娘と、兄弟全員でこの現実世界に居る事だ! 欲張った望みでも何でもねぇ。ただ存在していたいんだよ。全員で、同じ世界によぉ!!」
例えこの現実世界がどんなにか苦しい世界なのだとしても、全員で居られればそれでいい。
「なんで、たったそれだけの事が赦されねぇんだよ! カインの野郎だけが戻って来たって仕方ねぇだろうが!」
アダムは床を叩きつけてそう叫んだ。ヴィベルは眉を寄せ、溜息をつくと、アダムから視線を外した。
「……アダム。そのチップは貴方が持っていてください」
ヴィベルは静かにそう言ってブルートパーズの瞳で里桜を見つめた。
「メギトへの命令を止める事ができるのはアルカだけなのでしょう? 最早どうにもできないんです。ファメールの計画通りに動くしか無いんですよ」
ヴィベルの指摘にドキリとしてアダムは縋る様に眉を寄せた。
「小娘が迎えに行けば……そしたらあいつらだって帰って来るだろうと思って。だからこうしてお前に頼んでるんだ。分かるだろう?」
「里桜は傷つきアルマゲドンの世界から逃げ出したくなるほどに打ちのめされたからこそ、現実世界に帰って来たんです。またアルマゲドンにダイブしようとは思わないでしょう。私もそれを無理強いする気はありません」
保護者としての権利など、最早皆無だ。彼女を守る事ができなかった。自分の無力さにただただがっかりだ、と、ヴィベルは唇を噛みしめた。
「……俺はあいつらを助けたい。そう思って」
アダムはそこまで言葉を発した後、ゾワリと鳥肌を立ててチップを見つめた。
「……おい。今、ミシェルやガブリエルはアルマゲドンで、あいつらの養父の側に居るんじゃねぇのか?」
あの世界の神、『エル』はエルネストだ。7大天使達が皆神に仕える御使いなのだから、彼らはエルネストの忠実な僕として常にエルネストの側に控えるようにと、システムはプログラムされているだろう。
現実世界の様に、人の心という不確かな忠誠ではなく、システムの権限という絶対的な法で統制された忠誠は、何人たりとも抗う事などできはしない。それがどれほどに憎い相手であろうとも、絶対的な服従を余儀なくされるのだ。
アダムの発言にヴィベルもゾッとしてチップへと視線を向けた。
「あいつら……そんなん、生き地獄じゃねぇか……」
ファメールはどうしてアダムにチップを託したのか……? それは恐らくその地獄から抜け出す為の道標なのだろう。と、ヴィベルはゾクリと背筋を凍り付かせながら、息を呑んだ。
「現実世界にアルカを復活させ、筐体を破壊しろと。そう言っているんですか? ファメール……」
吹けば飛ぶ程の小さな金属片。ヴィベルがアダムを殺してしまうのだと罪悪感に苛まれながらも作成したプログラムが詰め込まれた小さな小さなそのチップには、今、アルマゲドンで救いを求める二人の命がかかっていると言っても過言ではないのだ。
「あいつは何もかも予想してやがったんだ。エルネストがアルマゲドンを乗っ取ってるって事をよぉ。それでもダイブしやがった。それほどに、小娘を助け出したかったって事だったんだな……」
こうしている間にも、彼らは苦しんでいるのだ。悍ましい仕打ちをされた養父の側に仕える事で、どれほどの心の負荷を負っていることか検討すらつかない。
『早く。早く助けて欲しい。アルカよ、眠りから覚めてこの地獄から解放して欲しい。世界を、アルマゲドンを消し去って欲しい!』
ファメールの悲鳴が聞こえる様に思え、ヴィベルは思わず両耳を塞いだ。
「例え里桜がアルマゲドンにダイブして迎えに行ったとしたとしても、彼らは現実世界に戻る事を拒むでしょう……」
——里桜。貴方にその話を伝えるのは余りに酷な事です。
ヴィベルは悲痛な面持ちで眠り続ける里桜を見つめた。
里桜は恐らく、ファメールを好いている。彼に拒絶された事でああも心が壊れてしまったのだから。それなのに、目覚めた彼女の前にファメールは居ないのだ。この世界のどこにも。
彼が幸せならばそれでいいと思う事すらもできない。ファメールはアルマゲドンの世界で苦しみながら生き続けるのだから。
「残酷過ぎますよ。私にとっても……」
ファメールにとって計算外だったのは、里桜が彼を想う気持ちだ。
滾々と眠る里桜を見つめながら、ヴィベルは唇を噛みしめた。
だから帰って来ないのですか? これ以上傷つくことが分かっているから。里桜……。




