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夢現逃花 —ムゲントウカ—  作者: ふぁる
アルマゲドン編
118/181

ガブリエルの覚悟

 憎んでいる。皆、私の事を。


 苦しめられて、虐めぬかれて、心も身体もズタズタに引き裂かれたのだから当然の事だ。


 アルカは現実世界を捨て、自分の創造した世界の殻に閉じこもり、二度と目覚める事が無い程の余りにも理不尽な——そんな言葉すら軽く思えてしまえる程の仕打ちを受けたのだから、憎まないはずがない。

 そして大切な兄弟をそんな闇に突き落とされ、自らもまた酷い仕打ちを受けたファメールさんやレアンも、憎んでいるだろう。


 アルカ。ファメールさん、レアン……。私は、もう二度と、貴方達に合わせる顔が無い。そして、辛くもその不幸から逃れたヴィベルさんにもだ。


 消えなくちゃ。


……この世界から。


 里桜は脳内に渦巻く混沌の中、とにかく消えなければという思いのまま、無意識に神殿を出て彷徨っていた。


『あいつさー、何考えてるかわかんなくて気持ち悪いよねー』

『ホント、なんでウチに転校してきたのかなー』

『殺人犯の親を持つヤツと同じ学校とか、就職不利になったりして』

『うわ、迷惑ぅー』

『まじで消えてくれないかな』

『ホント、消えて欲しいよねー』


 転校してすぐの時、酷い虐めに遭った時の記憶が蘇る。

 里桜は鳥肌の立つ体を抑え込むかのように自らの両肩を抱く様にぎゅっと掴みながら、黄金色の草原の中で蹲った。

 黄金色の草は柔らかく、触れる度にふわりふわりと羽毛の様な感触を里桜に伝えた。しかし、どこまで歩いても景色は変わる事もなく、途方に暮れてしゃがみ込んでしまったのだ。


 そのままどれほどの時間が経ったのかも分からない。


——現実にも、夢にも。どちらにも、居場所なんか無い……


 何処まで行ってもどこにもたどり着けない……


 目的地も何もない……


 皆に合わせる顔がない。どこかに消えてしまわなければならないというのに、どこにも行く先が無い。一体どうすれば良いのか……。


 すっかり焦燥し、里桜はブルージルコンの瞳を伏せて乾いた唇を真一文字に結んだ。

 両手を見下ろしながら、この手に流れる血の一滴でさえ憎くて堪らないと絶望した。


——私なんか、生まれて来なければ良かったんだ。最初から存在しなければ良かったのに……。



 ぶわりと、風が舞ったわけでもないのに、まるで空間が歪められたかの様な空気の圧が里桜を襲った。


「ここに居たのだね。私のアンジュよ」


 突如姿を現したその男は、灰色の髪をサラリと靡かせて、灰色の瞳で里桜を見つめた。彼は少年の天使達が「エル」と呼んで慕っていた、アルカにそっくりな顔立ちをした者だ。 


 心ここにあらずといった里桜にゆっくりと歩み寄ると、エルは里桜を包み込む様に優しく抱きしめた。


「寂しかっただろうとも。もう一人にしないよ」


 エルの言葉に里桜は眉を寄せた。『一人になりたくない』。里桜がずっと心に思っていた恐怖を、何故この人は知っているのだろうか。


「もう、二度と。お前は寂しさに怯える事は無い。この世界はお前を決して一人にはしないのだからね」


 ……ドクン。


 里桜の心の奥底で違和感のある鼓動が発せられた。優しい眼差し、整った顔立ちと愁いを含む眉。けれど、ざらつく違和感は何だろうか。優しく笑みを浮かべているというのに不安が刺々しく心に突き刺さる。

 エルの首筋に刻印が無い事に気づき、里桜は瞳を見開いた。アルカの首筋にも無かった。どういう事だろうか。アルカに創成された人物ならば、刻印があるはず。


『アルカと”神”は、同じ身体を共有しているんだ』


 ファメールの言った言葉が里桜の脳内にこだました。ザワリと鳥肌を立てて、里桜はエルから身を離した。

 怯えた様に両手で自らの肩を抱いて震える彼女を、エルは穏やかな笑顔を向けて見つめた。


「どうした? 口が利けなくなってしまったのかな?」


 彼は瞳を細め、里桜を恍惚とした表情で見つめたかと思うと、その細く華奢な腕をぐいと引いた。

 灰色の髪を緩やかに靡かせるその男を腕の痛みが伴って恐怖の色で見つめ、里桜は慌てて暴れた。が、暴れてもピクリとも動かない凄まじい力に里桜は恐怖を覚え、全身が強張った。


「大人しくなさい。お前はこれから更なる負荷に耐えなければならないのだからね」


 更にエルの手を振りほどこうと抵抗したが、その力はあまりに強く里桜の手を掴み、痛みと恐怖が増幅し里桜を襲った。

 エルはふっと笑い里桜の手を掴む力を緩めた。里桜は突然解放され、勢いで大地へと転び倒れた。ヒールが折れ、擦りむいた膝小僧から血が滲み、じりじりと痛みが走る。


 エルはたった今乱暴を働いたというのに、穏やかな笑みをその表情には浮かべていた。


 身体はアルカだというのに。心が別人だとこれほどにも表情が違うものなのかと、里桜は哀しみでいっぱいになった。一見穏やかに見えるその笑みも、心の奥底に秘めたどす黒い闇がはっきりと分かる。


 神とは……? 一体()か。


 ざわざわと鳥肌が立ち、里桜は震えながらエルを見つめた。


——()が皆を苦しめた人だったんだ。エルネスト。彼は三人の養父、エルネストだ!!


 里桜は怒りと憎しみを込めてエルを睨みつけた。それ以外の感情は欠落してしまったのではと思える程に、里桜は憎しみに支配されていた。


——二度と皆に近づかないで!!


 私も、皆に近づいたらだめだ。


——貴方なんか大嫌いっ!! 


 私なんか大嫌いだ。


——生まれて来なければ良かったのにっ!!


 私も生まれてなんか来なければ良かった!!


 言葉が口からは出ないものの、里桜は激しい感情をエルネストへとぶつけんばかりに睨みつけ、同時に自らをも責め立てた。エルは穏やかに微笑むと、僅かにため息を漏らした。


「ああ、リオ。憎しみに支配されているのだね? もっと私を憎みなさい。現実世界は余りにも穢れに満ちているからね。共に来なさい。その深い心の傷を私が更に抉り抜いてあげようとも」


 エルがふわりと手を翳した。何をしようとしているのか恐ろしくなり、里桜は慌てて立ち上がり、後ずさった。


——この男は何を言っているのだろうか? 私の大切な人達の現実世界を恐ろしい場所にしてしまったのは、この男ではないか。


「こちらへ来なさい。リオ。さあ、早く」


 穏やかな笑みを浮かべるエルに里桜は恐怖を感じた。アルカは、もっと明るく笑う人だというのに、と、震える足で後ずさった。


「逃げたところですぐに摑まるのだから、無駄な事はしないほうが良いとも。さぁ、こちらへ来なさい」


ガクリ、と、折れたヒールのせいでバランスを崩し、再び転びそうになると、里桜はその身をしっかりと支えられた。


 サラリとしたアッシュブロンドの髪が光を受けて輝き、マリンブルーの優しい瞳で里桜を包み込む様に見つめた。


「ガブリエル!」


エルがレアンに向けてそう叫んだ。レアンは眉を寄せ、里桜を自分の背後へと庇う様に手を引いた。


「エル。いえ、エルネスト! 何故その姿でリオの前に現れるのです!?」


 レアンは嫌悪感露わにエルを見つめていた。ずっと逢いたいと焦がれていたアルカの姿で、最も邪悪な存在エルネストが里桜の前に現れる事に嫌悪感を抱かないはずがない。もしも里桜が正気であれば、泣き叫んでいたに違いないのだ。


 レアンは里桜の心の傷に胸を痛めた。


 それに対し、灰色の瞳を細め、エルは眉を寄せてレアンを見据えた。


「姿形というものは、所詮はただの映像に過ぎないのではないかな。ガブリエルよ、お前もそれを良く理解しているはずだとも」

「意図せぬ事だと仰るのですか!?」

「『神は御身に似せアダムを作った』のだから、私がこの姿でこの世界に居る事に何の不思議もないと言えるね。(まさ)しく聖書の通りだとも」


眉を下げ、エルネストは自信に満ちた様子で言葉を吐いた。レアンは瞳を細めてエルネストを見つめた。


「……アルカの世界を、身体さえも奪って、それを当然だと仰るのですか……?」


 アルカがどれほどに傷つき絶望しこの世界を生み出したのか。その傷をつけたのはエルネストであり、更に心の傷を癒す為に拠り所となる世界までをも奪った。そして、肉体さえも……!


 レアンは怒りに震え、マリンブルーのその瞳から涙を零した。あまりにも理不尽だと思った。病院のベッドで眠り続けるアルカを毎日見つめながら、せめて良い夢を見ている事を願い続けていたというのに。それすらも赦されないのか。アルカが、夢の中で笑う事すらも……!!


「何故!! どこまで奪えば気が済むのです!? 貴方が父親として本来与えるべき物を何一つ与えず、苦しめぬいて傷つけておきながら!! アルカに一体どのような恨みがあるというのです!? 貴方には人の心が無いのですか!!」


レアンの言葉に、エルはふっと微笑んだ。


「そんなものは随分昔に捨てた」


そう言ってエルネストがすうっと手を伸ばした。


 その姿がブルージルコンの瞳をした老齢の養父の姿と重なり、レアンはゾクリと悪寒を走らせた。


「ガブリエル。リオを寄越しなさい。お前は私に逆らえない。このアルマゲドンというシステム上、あがいても無駄な事だ」

「渡せません!」


レアンは唇を噛むと、首を左右に振った。


「寄越すのだ。さあ。抵抗すれば苦しむ事になる。分からないのかな?」


 ゆらりと視界が淀む程の強い力がレアンを襲う。エルネストの言葉が何重にもぶれて脳内に響き、吐き気すら帯びる。まるで無理やりに身体の中に手を入れられ、思考をかき回されているような気分だ。

 この世界に於いて、全てを支配する神に逆らう事は出来ない。エデンでアルカが最上位の権力を持っていたのと同じように、この世界の創造主に逆らい仇なすことは許されない。逆らおうものならば、不正プログラムとして検知され、削除されてしまうのだ。


 レアンの首筋で『V』の刻印がまるで警告でもしているかのように淡い光を放った。


「ガブリエル。ミシェルは私に屈したのだぞ? 跪き、私の手に口づけをし、私の愛を乞うた」


レアンの脳裏に、無表情のまま、静かにエルネストに頭を垂れる兄の姿が映し出された。恐らく兄は、里桜が現実世界に戻る為の時間を稼ぐ為に、敢えてエルネストにミカエルとして謁見し、跪き頭を垂れたのだろう。

 憎しみを押し殺し、ただ無表情に。心を潰し、エルネストの忠臣であるかのように。それがどれほどに屈辱な事だっただろうか。想像するだけでもレアンは気が狂いそうになった。


「貴方が、そうさせたのでしょう!!」

「ミシェルは自ら望んでそうしたのだ」

「貴方が怖いからです! 貴方は、恐怖で支配をする! 優しさと温もりを与えておいて、絶望に落とし、私達を服従させてしまうからです! 兄上は貴方を望んでなどいません!」

「私はお前たちを愛している。愛情を与え、慈しみ、育てた。だからこの世界にも創成したのだ。共に来い、ガブリエル。お前も私の大事な子だ。愛しているよ、ガブリエル」


ぶわりと襲い掛かる圧にレアンはよろめき数歩後ずさった。


 子供にとって神ともいえる存在は『親』だ。

 絶対的な服従。子は親の所有物ではないと倫理的に言ったところで、実際には所有物とならざるを得ないのだ。生きるも死ぬも親次第だ。赤子としてこの世に生まれ、親に放置されれば死んでしまう運命なのだから。

 まるで自分の命を守る為の本能としてプログラムされた様に、子は親の愛情を求める。


 優しく見つめ、温かく大きな手で頭を撫でてくれた養父を思い出し、唇を噛む。親の愛情を求めない子などいない。優しく迎え入れてくれた自分に唐突に突き付けられた非情。あんな出来事は嘘だったと信じたかった。夢であったのだと願わない日は無かった。もしも再び優しく手を差し伸べられたのならば、求めていたと、それこそが本心だったのだろうと、今までの事は全て夢だったのだと喜びを噛みしめてその手を取りたかった。


 何もかも、全てが間違いだったのだ、と。


 差し伸べられたエルの手をじっと見つめた。あれこそが、自分がずっと求めていた救いの手なのではないかと、信じたいと思った。


 レアンの腕にそっと触れながら、里桜がブルージルコンの瞳で見上げた。『ごめんなさい。もう私なんか放っておいて』と、言葉にできないまでも悲しみを込めて眉を寄せた。


 腕に触れた里桜の指先から温もりが伝わる。


 レアンは、己の思考を打ち消す様に首を左右に振った。


「エルネスト……私は、貴方の愛など要りません」


「………なんだと?」


「神の加護も慈愛も不要です!」

「ガブリエル!!」


エルネストは灰色の瞳を見開き、叫んだ。


「プログラムというものは正確なものだ! お前が私という最高位プログラムに逆らえば、存在が消えるのだと分からぬのか!!」


 創成者の意図しないデータ。つまり、()()は駆除される。レアンの姿が僅かにチラつき、エルネストは取り乱した。


「私の手を取れガブリエル!」


 取り乱すエルネストを見つめ、レアンは思った。どうやら自分はエルネストの計画に必要不可欠な存在なのだろう、と。何を企んでいるかまでは分からないものの、必要とされている以上は囮になることができる。


 『里桜を逃がす』為に。


「お前は私の手から、堕ちる気か!!」


 マリンブルーの瞳を静かにエルネストに向け、レアンは頷いた。


——皮肉なものだなと思った。現実世界ではどれほどに、エルネストの愛情を求めただろうか。だが、今この世界で自分を求めているのはむしろエルネストの方だというのだから。


 優しく触れた温かいあの大きな手に憧れ、彼の愛を受ける為にと日々鍛錬し、勉学にも励み、傷つけられようとも求め焦がれた親からの愛情。

 エルネストは普段は理想の父親だった。優しく、信念を持ち、子を導く。だからこそ彼に傷つけられた時の絶望が、敬愛の感情と比例するが如く深く深く突き刺さり、追い詰めるのだ。


——里桜……

 と、レアンは心の中で呟いた。


 貴方が私を拒んでも、それでも構いません。愛されなくとも構いません。エルネストの計画に自分が必要なのだとしたら、自分が消えることであの男の野望は潰えるはず。そうなれば、里桜に対して行おうとしていた計画も全ては無に帰すだろう。


「リオを寄越せと言っているのだ!!」

「お断りします」


「ガブリエル!! 思いとどまれ! 私から離れる事を赦さぬぞ!! この世界で私からの愛情を失えば、消滅するのだぞ!! どうしてわからない!? リオの側に居たいのだろう!! ならば、消える事も望んではいないはずだ!!」


 レアンの身体がノイズのかかった様に僅かに掠れた。


「……消えても構いません」

「ガブリエル!! それ以上何も言うなっ!!」


 エルネストがレアンへと翳した手を力強く掴むように空を握りしめた。レアンは身動きが取れなくなり、心臓が握りつぶされそうな苦しさに襲われた。


 不安げにレアンを見上げ、里桜はか細い両手でレアンの両頬を包み込んだ。その行動にレアンは身動きが取れないながらも、里桜の温かい手の温もりに浸るかのように、マリンブルーの瞳を細めた。


——ああ、もう一度触れてくれた。


 このまま消えてしまったとしても構わない。貴方を傷つけてしまったことを、謝罪できなかった事が悔やまれるが……。


 レアンの痛みが里桜の心に突き刺さる様に感じた。


——レアンが、消えてしまう。この世界の創成物ではなく、現実世界からダイブしている状態で消されたのなら、一体どうなってしまうのだろうか……。

 目覚める事のないアルカの姿とレアンが重なり、里桜は悲鳴を上げて叫んだ。


「止めて! 止めてよっ!」


エルネストに懇願するように里桜が叫んだ。


「止めてったら! 酷い事しないでっ!!」

「リオ。早く逃げてください……!!」

「嫌っ! お願い、レアンを離してっ!! 助けてあげて!!」

「こちらへ来なさい、リオ。さあ、私の許へ」


レアンが里桜を引き留める様に、首を僅かに横に振った。苦しみに耐えながら、マリンブルーの瞳からつっと赤い涙を伝わせて。


「レアンっ!!!」


悲鳴を上げる里桜に、エルネストが静かに言葉を放った。


「ガブリエルが死んでしまうよ。さぁ、早くこちらへ来なさい」


「嫌っ!! 貴方なんか大嫌い!! こんな世界も大嫌いよっ!!!!!」


 里桜が悲鳴の様に叫んだ。


——消えてしまえばいい。私の大切な人を傷つける、こんな世界なんか。


 突風が吹き荒れて黄金色の草原がさざ波の様にゴゥと揺れた。髪が舞い、エルネストが顔を庇う。黄金色の空がぐっと歪んだかと思うと、ポッカリと穴が開いた。里桜の身体はすぅっとその穴に吸い込まれていった。


「何!?」

「リオ!!」


 驚愕の表情を浮かべるエルネストの前で、その穴に吸い込まれる様に堕ちて行く里桜を、レアンは必死の思いで掴んだ。


「ガブリエル、離すな! リオは()()()()()()()()()気だ!」


 エルネストが叫んだ。レアンは暗闇に落ちて行きそうな里桜を必死の思いで掴みながら、ふと思った。


——兄上は、アルマゲドンから里桜を逃がす為にあの様な行動をとった。……そうだ。こんな世界にいてはいけない。里桜は、現実世界に戻るべきなのだ。


 レアンの里桜を掴む手が緩む。


——里桜自身が今、この世界を捨て、現実世界に戻る事を望んでいる。このまま墜ちれば現実世界に彼女は帰る事ができるだろう。

 つまらない事など忘れて彼女は現実世界で生きるべきだ。そうすれば、これ以上彼女は傷つく必要が無いだろう。


 お別れです。里桜……


「ガブリエル!!」


 エルネストはレアンの考えを察し、素早く手を翳した。一陣の風が刃の様に回転し、エルネストの翳した手から放たれる。


 ザクリ、と音が発せられ、里桜の下腹部が真っ赤に染まった。ブルージルコンの瞳が苦痛で歪み、桜色の唇から鮮血がポタポタと零れた。


「リオっ!!!!」


レアンは叫んだ。声は掠れ、混乱した心が浮き彫りになっているかのような悲鳴に近い声だった。


「エルネスト! 何故です!? 何故このような!!」


 ファメールが里桜の為にと贈った白いワンピースに鮮血が滲んでいく。里桜は激痛に耐えながらそれを見下ろした。


——ああ、ファメールさん。汚しちゃってごめんなさい。折角買ってくれたのに……


 悲しみに暮れて見上げると、レアンが何か必死に叫んでいる様子が里桜の瞳に映った。


——レアン。怒っちゃったの? ごめんね、私……


「リオ! 気を確かに!! すぐ治療します!!」


 痛みで気を失い、レアンに手を握りしめられたままぐったりとする里桜を、レアンは早く治癒しなければとアルマゲドンへ引き戻そうとした。大天使ガブリエルの治癒能力を使えばすぐに癒えるはずだ。


「ガブリエル。早くリオをアルマゲドンに引き戻せ! 治癒の能力を持つお前ならば、リオを癒せるはずだ!」


エルネストのその言葉にドキリとし、レアンは里桜を見つめた。レアンに手を掴まれたまま、気を失っている里桜の痛々しい姿を……。


「エルネスト……貴方は、リオを現実世界に帰さない為に、わざと傷つけたのですか?」

「考えも無しにすると思うか!」

「どうして! 貴方の孫娘でしょう!!」

「ガブリエル。お前も失いたくはないとも!」

「何を一体……何を仰っているのです!?」

「お前は、女性の手術はできぬ。そうだろう? 現実世界にお前とリオが行っても、リオは助からないだろう。さあ、リオを引き戻して早く治癒魔法を施すのだ! リオを殺したくはないだろう!!」


 重く冷たいドロドロとした感情がレアンの心にのし掛かる。恐怖を何倍にも掛けると、それはやがて怒りに変わるのだとレアンは知った。自分の中にこんな感情が存在するという事に嫌悪する。


……ああ、神よ。と、レアンは祈った。


「エルネストでは無い、本当の神がもしも存在するのならば、私の罪をお許しください!!」

「……なんだと?」


 黄金色の大地を蹴り、レアンは里桜を抱きしめて暗闇へと身を投じた。


「ガブリエル!!」


黄金色にきらめく光の世界でエルネストが叫んだが、レアンは一寸たりとも振り返らなかった。


 現実世界へと続く暗い回廊を落ちて行く間、瑠璃色の瞳の女性がレアンの脳裏に浮かんだ。


『人って、命を糧に生きるのよね。私も生きていく限り、命に助けられて生きる。野菜も肉も魚も皆命だもの。その命は、私の中で生き続けていくはずなのに、私が死ねば、全てこの世界から消えてしまうんだわ』


瑠璃色の瞳の女性は、ふぅと小さく息を吐いた。


『ねぇ、ガブリエル。私、生まれ変わったら、今度は健康な体に生まれられるかしら?』


 邸宅のベッドの上で、エレーヌが弱弱しくそう呟いて、震える手を伸ばした。レアンはその手を包み込む様に掴み、「勿論です」と頷いた。


『生まれ変わったらなどと言わないでください。どうか待ってください。私が、貴方の病を治せるようになるまで! お願いです、エレーヌ』


ふっと微笑むと、からからに乾いた唇を動かして、エレーヌは言った。


『待ってあげられなくて、ごめんね。お腹の赤ちゃんも、産んであげられなかったわ。命を生み出す事ができない私を、どうか許してね、ガブリエル……』


……エレーヌ。どうか力を貸してください。何一つ救う事のできなかった私に、どうか。里桜だけでも救える力を……



 簡易ベッドの上で飛び起きて、レアンは自分がジグラート社のマシンルームに戻って来ている事を悟った。長く眠りについていたためかズキズキと痛む頭を押えつつ辺りを見回すと、夢現逃花がその白い花を全て閉じ切っており、蕾に包まれる様に里桜が横たわっている姿を見止めた。腹部からは夥しい量の血液が流れ出て、身に纏う純白のワンピースを赤く染めている。


 この深手では救急車を呼んだところで到底間に合わない。里桜の命の炎は今消えようとしているのだ。


 レアンは里桜を抱きかかえ、廊下を駆けた。アダムの義手のメンテナンスルームならば、一通りの手術用具が揃っている。

 診療台の上へと里桜を寝かせ、「里桜。もう少し辛抱してください」と、声を掛けた。弱弱しい呼吸に眉を寄せる。


 両手の震えを押しとどめようと、何度も強くぎゅっと握ったり開いたりを繰り返した。

 診療台の上でぐったりとしている里桜の姿が、腐敗した母の姿と被り、抗いようもない吐き気が込み上げる。


 はぁ、はぁ……と、息が上がる。


「エレーヌ。どうか、私に……」


 器具の入ったジェラルミンケースを開き、並べ、里桜が身に纏う白いワンピースをハサミで切った。損傷した腹部から溢れ出る鮮血に、瞳を歪める。エレーヌの遺体と里桜の姿が重なって見え、慌てて頭を左右に振った。


——手の震えが収まらない。


 叩きつけ、震えを抑え込みたい衝動を必死に堪えた。手に怪我を負っては元も子もないのだ。落ち着け、震えよ、収まってくれ。どうか……!!


 自分の心拍数が上がっていく。肩で呼吸をしながら、レアンは両手を見つめた。手は二重にも三重にも見える程に震え、込み上げる吐き気が喉のすぐそこにまで押し寄せていた。


 里桜の姿が、息絶えた母の姿やエレーヌの姿と重なって見える。


 救えなかった。何もできなかった不甲斐ない自分が今ここに居て何の役に立つのだろうか……?


————悍ましい記憶が鮮明にレアンの脳裏を支配し、蝕んだ。


『何も救えぬガブリエルの手など要らぬだろう? 或いは汚れたミシェルをその中身と合わせた醜悪な姿へとするか選びなさい、カインよ』


 エルネストが冷たく言い放ち、カインに硫酸の入った瓶をすっと差し出した。首を左右に振り、手に取る事をしないカインに対し、一瞬の躊躇もなくガブリエルはその瓶を奪い取ると、自らの両手にぶちまけた。


『私の手は何も救えはしません! この先も永遠に!!』

『ガブリエル!!』


カインが大慌てでバケツに入った水をガブリエルの両手に掛けた。


『お前の手は救える手だ! ミシェルは汚くなんかない! どっちも何も失ってなんかいねぇよっ! 何も諦める事なんか一つもねぇんだよっ!!』

『全てを失った私を励ましたとて、最早なんの満足感も得られませんよ!!』


————誰も救えなかった。目の前に居たのに。


 もう二度と、大切な人など作らなければいい。その思いが女性に対する拒絶反応を産んだ。


 レアンはただれた両手を見下ろして、ぎゅっとその手を握りしめた。


 里桜も救えないというのか? この手はやはり不要な手だ。いっその事、あの時硫酸で溶けて動かなくなってしまえば良かった……!!


 深呼吸をして、レアンは横たわる里桜を見下ろした。腹部から流れ出る夥しい血液に、彼女の白い肌が染まっている。


——彼女の心はその肌の様に純潔なのだ。エデンにたった一人で放り出されて、不安で猜疑心の塊になってもおかしくはない状況にありながら、見た目にもいかつく恐ろしいであろうこの私の手を振り払おうとはしなかった。

 私が側にいては彼女を傷つける恐れがあると、何度距離を置こうとしても彼女は私の側に居続けてくれた。その優しさに私は救われたのでは無かったのか?


 誰も救えない……?


 ……いいや。違う。


 救う為の()()が足りなかったのだ。


 里桜を救えるのであれば、両手どころかこの命など惜しくもない!! 神が居なければ悪魔でもいい!!


 レアンは引き出しを開け、注射器を取り出すと、自らに薬品を注入した。


 己の体などどうなろうとも構わない。今この震えが収まってくれるのならば……!!


 里桜を、救えるのならば……

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