畏怖
「ミシェル。それは何だね?」
机に向かい、一心不乱に図を描いていると、エルネストは目じりに皺を寄せながら聞いてきた。小さな頭を持ち上げて見上げた僕に、彼は優しいブルージルコンの瞳を向けている。
その眼差しにどんな意味があるのかが分からずに、子供だった僕は少しはにかんで答えた。
「空の地図です。エルネストさん」
「空の?」と、眉を上げたエルネストに、僕はコクリと頷いた。
「地球よりもずっと古くからある宇宙だから、地図にすると面白いと思うんです。僕達は迷った時、空を見上げるでしょう?」
エルネストは微笑んで何度か頷いた。
「なるほど」
体に刻まれた傷痕を、『星座の様に綺麗だ』と言われた事から、僕は星に興味を持ち、本を読み漁るようになっていた。
星とは、宇宙とは、なんと美しいものだろうか。人は迷うと希望を求めて空を見上げる。見失えば俯き見上げる事もしなくなる。それならば、僕は常に見上げていようと思う。例え報われない事であろうとも、叶うことの無い希望なのだとしても……。
「ミシェル。天体望遠鏡を買いに行こうか」
エルネストの言葉に、僕は瞳を輝かせた。いや、きっと輝いていたんだと思う。僕はそんな自分の顔なんか見た事が無いからだ。
「良いのですか!?」
「勿論だとも」
「ありがとうございます! エルネストさん!」
「私の事は『父さん』と呼ぶように言ったはずだが?」
僕は少し照れながら「はい。父さん」と、言った。エルネストはその一言でパッと顔を明るくし、嬉しそうに顔に皺を寄せた。「さあ、行こう」と、差し出された手をどうすればいいのか分からずじっと見つめていると、エルネストは僕の前でゆっくりとしゃがみ込み、僕の手をそっと取った。
「ミシェル、今いくつかな?」
「届け出が無いので本当の事は分かりませんが、九歳という事になっています」
「ふむ」
彼は僕の頭を優しく撫でた。その手は大きくて暖かくて、人の手はこれほどに暖かいものなのかと僕は瞳を丸くした。
「ミシェルは、私の息子としてはまだ0歳だね」
「幼いと仰るのですか?」
「ああそうとも。まだ生まれたてだということだよ」
知らぬ間に何か粗相をしてしまったのかと僕は瞳を伏せた。大失態だ。またあの孤児院に戻されるのではと不安が僕の瞳を曇らせる。
「……すみませんでした」
謝罪する僕に、彼は僅かに小首を傾げた。
「何故謝るのだね?」
「僕が何か失礼なことをしてしまったから、お怒りなのでしょう?」
「そうではないよ」
エルネストは僕を優しく抱きしめた。僕は戸惑い、唖然とし、呼吸の仕方を忘れ、怯えた。
「ミシェルはまだ私の子となったばかりで赤子なのだから、思う存分甘えて良いのだよ。そういう意味だ」
「あ……甘えるとは、どういうことですか?」
「我慢するな、という事だよ」
震える僕の頭をポンポンと優しく叩いて、彼は言った。
「私はお前を愛しているのだよ。ミシェル」
先ほどから理解不能な事ばかり言うエルネストを僕は訝し気に見つめた。
「エル……父さん。僕はずっと我慢し、与えて貰う事を望んではいけないと教えられてきました。父さんの言う事は難しすぎて、よく分かりません……」
彼は目じりに皺を寄せ、ブルージルコンの瞳を細めて微笑んだ。僕はその瞳の色が綺麗だと思った。
「ミシェル。やはりお前は美しいね」
僕はその言葉が堪らなく嬉しかった。実の父親から汚いと言われ続けた僕が、優しく綺麗な瞳を持った養父から「美しい」と言わると、自分が本当に清められる様な気がしたからだ。
エルネストは僕が欲しがる物が分かるかのように、天体に関する書物や道具を揃え、与えてくれた。それらを読み漁り、使い、得た知識を披露すると、エルネストはブルージルコンの瞳を細め、嬉しそうに微笑んでくれた。僕はその顔が見たくて、更に熱心に勉強を続けた。
「ミシェルは将来素晴らしい天文学者になるのだろうね」
ある日、いつもの様に知識を披露した僕に、エルネストはそう言った。学費が比較的安価なフランスとはいえ、学者になる為にはそれなりの学費がかかる事を知っていた僕は、何も言えず俯いた。
「それは、難しい話です」
彼の期待に応える術を失った僕は、悲しくなってそう言った。
「ですが、勉強は続けます。天文学者になれなくても、父さんに喜んで貰う為に頑張ります」
「なあ、ミシェルよ」
エルネストは僕の頭を優しく撫でると、信じられない発言をした。
「私の養子になってはくれないかな?」
思ってもみないその発言に絶句した僕に、彼は眉を下げて残念そうに「嫌か?」と、言った。
「そんな! 勿体ないことで、僕には……」
ドキン、ドキンと、僕の小さな心臓が爆発しそうな程に鼓動した。
先ほどエルネストが口にした『天文学者』になる為の資金を、彼は出してくれると申し出ているのだと、子供ながらに理解したからだ。口先だけの『父さん』とは違う。本当の父親になってくれるのだ。
傷つけるだけの父親とは違う。僕を汚いといったあいつとは違う、優しい理想の父親……。
けれど、僕にそんな資格があるだろうか? エルネストの様な立派な人の息子となる資格が。
「……僕は貴方に恩返しができる自信はありません」
カインの様な社交性は無いし、ガブリエルの様な誠実さもない。僕を養子にすれば、エルネストは恥をかいてしまうのではないだろうか。
「私は恩を売るつもりでお前を養子にしたいわけではないよ」
「では何のためにですか?」
見返りを期待しない行動というものは無い。僕は子供ながらに既にそれを悟っていた。
「突然の申し出で驚かせてしまったね。私は予てから優秀な子を養子にする予定であったのだよ。これは言わば国への貢献であると言えるだろう。孤児達のその才能を埋もれさせてしまうにはあまりに惜しい」
最初から、そのつもりで僕達を里子として引き取ったということなのか……?
「どうして、最初に教えてくださらなかったのです?」
彼はブルージルコンの瞳を細めて優しく微笑んだ。
「ミシェルは優しい。そのような事を話せば、お前は勉強することを辞めてしまうだろう? 自分だけが選ばれるのではと心配してしまうだろうからね。本当に、優しい子だね」
エルネストの言う通りだろう。事前に『優秀な子を養子にする予定』だと聞かされていれば、僕は一切の勉強を止めたに違いない。自分だけが認められる様な事はできない。カインもガブリエルも、僕にとっては大事な兄弟なのだから。
それでも、その時の僕はカインやガブリエルに対して申し訳ないと思いながらも、養子になれることが嬉しくて堪らなかった。
「本当に、僕を養子にしてくださるのですか?」
「勿論だとも」
僕は考えた。僕が養子となって頑張れば、大人になった後もカインやガブリエルと不自由無い生活が送れるかもしれない。
天文学者になって、忙しい僕をサポートしてくれるガブリエル。自由奔放そうにしていながらも頼りになるカイン。三人で、本当の兄弟の様に助け合って生活できれば、どれほどに良いだろう。
理想を夢見ながら、僕はエルネストに深々と頭を下げた。
「どうか、宜しくお願いします。……父さん」
「ああ。こちらこそ、宜しく頼むよ、ミシェル」
僕の頭を撫でたエルネストの手は、温かく大きく、そして優しかった。
ファメールは子供の頃の事を思い出しながら、唇を噛み締めた。ミカエルの執務室を照らす明かりが揺らめいている。羽ペンを握る自分の手を見つめながら、自分の手はエルネストよりもずっと冷たいだろうと考えた。
——父親という生き物は、一体何なのだろうか。
分からない。
自分に優しく接してくれていたエルネストが……。いや、根底に『実験体』というものがあるからこそ、絶望を与える為にはまず『幸福』を知らなければならない。だから、彼は偽りの愛情をわざとらしく僕に与えたのだろう。
僕にとって、エルネストは全てだった。エルネストの為に。エルネストが喜ぶから天文学者の道を選び、養子となったのだから。
僕が里桜に惹かれたのは当然だったのかもしれない。彼女はエルネストと同じ瞳をしていた。彼女に微笑みかけられる度、僕は彼女に惹かれる様に刷り込まれていたのだろう。
……分かっていても。僕はキミに惹かれるこの思いを断ち切る事ができない。
キミを傷付けるのだと分かっていてもだ。
僕の身体には父に、養父に傷つけられた無数の傷があり、それが茨の棘の様に纏っているのだ。その棘は僕だけではなく、近づく彼女をも傷つけるだろう。そして、僕に傷つけられた彼女を目にしながら、僕自身もまた傷つき、更に棘を増やしていくのだ。
それならば僕は……この牢獄のような世界に残り、この世界のエルネスト、『神』に仕えて過ごすことを選ぼう。どれほどに棘が増えようとも、彼女を傷つける事は無いだろう。もう二度と彼女の前に姿を現さなければ良いのだから。
そしてこの世界と共に滅ぶ事になるだろう。初めからそういう運命だったのだ。
里桜。キミは現実世界に戻り、キミの幸せを掴むべきだ。キミが幸せならばそれで……
ぎゅっと握り締めた拳は、爪先で掌が傷つきジリジリとした痛みを発した。
『僕達の養父は、リオの祖父だ』
そう告げた時、里桜、キミはどんな顔をしていたのだろうか。僕は、キミを傷つけた事が恐ろしくて、キミを見る事ができなかった。キミを傷つけることで、僕達の事を諦めてキミが現実世界に戻る事を願った。それなのに未だキミの温もりが忘れられない。
僕は汚れている。
そして何もかも清廉潔白に見えるこのアルマゲドンという世界は、どす黒い恨みや憎しみで支配された佞悪醜穢な世界だ。
僕に似合いの世界だ。
だからどうか、そんな僕の事は忘れてくれないだろうか。そう願いながらも、忘れないで欲しいと強く願う自分が居る事に自嘲する。なんと、愚かで女々しいのだろうか。
「ミカエル様。エルのお目覚めの時刻です」
部屋の扉がノックされ、外に居る天使が部屋の外から声を放った。
『エル』とは。神の聖名だ。正午から正子までの十二時間、エルは眠りにつく。本来であれば、アルカが目を覚ましていた時間であっただろうに、彼のデータは喪失している為、目覚める事は無い。
「ああ。今行く」
扉の外に控える天使にそう告げると、羽ペンをコトリと置いた。
ミカエルはエルの目覚めの時刻になるとマナの泉に赴き、毎日跪いて頭を垂れては忠誠を誓っている。現実世界の記憶を持ち、神が誰なのかが分かっている今の僕も、以前のミカエルと同じく行動しなければならない。
詰襟の上にストールを巻き付けて、首元の『V』の文字を覆い隠すと、スッと立ち上がった。
このアルマゲドンの『神』は僕達の養父。エルネストだ。
彼にひれ伏し、従い、慈悲を乞う。今は未だ、この世界を壊すわけにはいかない。
現実世界に、里桜が安全に逃げ切るまで……。
ぐっと首を持ち上げて見上げた。執務室の天上から吊り下げられているシャンデリアの光がキラキラと目に飛び込んできたが、僕の脳裏には別の映像が映し出されている。
彼女と共に見た、幾億の星々。銀色の砂が撒かれた様に輝くあの光景。目に見えぬ小さな光でさえ、それは想像にも及ばぬ程の巨大な星である事実を、僕は知っている。
里桜。キミが居ない世界でも、キミに見えない僕はそのままの姿で生き続けるのだ。
手を翳し、七大天使の力を使って、執務室からエメラルドグリーンの光を放つマナの泉の前へと移動した。
むせ返る程に強い甘い香木の様な香りが辺りに充満している。白い花々が閉じているにもかかわらず、香りはそのまま残り続けている様だ。
闇夜を淡く照らしていたはずの花々はすっかりと閉じ、代わりにエメラルドグリーンの光が眩いばかりに光を発している為、漆黒の空に散りばめられている星々はその姿を隠してしまっているかのようだ。
エルネストが目覚めたということは、今は日付が変わる深夜0時。つまり、正子ということだ。
「目覚めの時間か」
エメラルドグリーンの光を放つ泉の中で、灰色の髪をかき上げながら男は億劫そうに言った。恭しく僕は跪き、彼の前で頭を垂れた。
「我らの父よ。願わくは聖名を崇めさせ給え」
ミカエルらしく祈りの決まり文句を口にすると、ふ……と、男が鼻で笑った。
「無事ダイブを遂げたようだね。刻印を隠したところで私には分かる事だよ、ミシェルよ」
虫唾が走る。この口調は養父以外ありえないと言われた気分だ。もしやアルカが目覚めたら……と、僕の脳内に僅かなりとも希望を持っていたということにも同様に嫌気が差す。
「……そうだろうね」
頭を垂れたままそう応えると、エルネストは小さくため息をついた。
「気にいらないのかね? この聖書に忠実な美しい世界が」
「別に? 僕がどう思おうと貴方には関係のない事じゃないか。僕はただただ貴方に服従するしか無いわけなんだからね」
全く、できるだけ口を利きたくもないというのに、と、舌打ちしたい気分を押し込めながら答えた僕に、エルネストは「顔を上げなさい」と言った。
「恐れ多いから止めておくよ。僕は貴方に絶対服従のミカエルなんだからね。神の顔を目にしてしまったら、あまりの神々しさに目が瞑れてしまったら適わない」
「久しぶりの再会を喜ぶ事もままならぬのかな? 顔を上げなさいミシェル」
できることならばもう二度と会いたく無かったけれど。と、溜息をつきながら瞳を上げた。
灰色の長い前髪の間から、彼は僕を灰色の優しい瞳で見つめていた。口元には僅かに笑みを浮かべている。ゆっくりとした瞬きの動きを見つめながら、アルカのその顔に表されたエルネストの表情にざらつく違和感を覚え、すぐさま目を逸らした。
……アルカなら、明るくニッと笑って僕を迎えた事だろう。
どうして死んだんだよ。バカアルカ……。
僕はもう二度と、アルカのあの笑顔を見る事は無いだろう。代わりにアルカの顔にエルネストを見続けるのだ。
ぎゅっと唇を噛みしめて、僕は再び頭を垂れた。
「ほぅ? 最初から私に服従するとは思わなかったね」
「……どうしてさ?」
「私を憎んでいるだろうと思っていたからだよ」
里桜の事が無ければ、恐らく僕は自分の感情に任せ、消されても構わない。いや、むしろ消してくれと言わんばかりにエルネストに刃向かった事だろう。アルカを返せと、その身体を使うなと叫び、怒り狂っていたに違いない。
「僕は、いつだって貴方の駒でしかない。現実世界に居ようとも、ここに居ようとも。感情なんか関係ない」
里桜。早く、現実世界に帰ってくれ。僕達に見切りをつけて、この世界に絶望してくれ。キミが現実世界に帰るまでは、大人しくこの男に従うから。
この男に対する怒りや恨みを、全ての憎悪を押し殺して耐えるから、どうか早く現実世界に戻ってくれ……。どれほど耐えられるか自信が無いんだ。
「駒か」
ぬっとエルネストが手を伸ばし、僕の髪を掴んだ。ゾワリと鳥肌を立てた僕の顔を無理やりに向けさせると、アルカの顔でニッコリと微笑んで見せた。
「いいや、違うねミシェルよ。お前はただの奴隷だよ」
パン!! と、鼓膜が破れんばかりに音が響いた。何が起こったのか把握するまで暫く時間を要した。エルネストに殴られた頬がじりじりと痛みを伝えるまで、随分と時間がかかった気がするからだ。
乱暴に襟首を掴まれ、詰襟の留め具がブツブツと音を発して破かれた。脳裏に凄惨な過去の記憶が蘇り、僕の肌に滲むあの忌まわしい感触が瞬時にして思い出されると、エルネストの手を振りほどき、僕は両肩を抱えてガタガタと震えた。
怒りや憎しみよりも僕を支配しているのは『恐怖』だった。
怯え、言葉を発する事すら覚束ない僕を見下ろして、エルネストは静かに言葉を吐いた。
「ああ、ミシェル。お前は相変わらず汚い子だね」
閉じた夢現逃花の花々の上で、怯えて身を縮めている僕の手をぐいと引くと、エルネストはアルカの灰色の瞳で真っ直ぐと僕を見つめた。
その瞳は相変わらず清んでいて、少しの陰りも無く穏やかだった。
「お前は、汚いよ。ミシェル」
アルカの口で、アルカの声で。エルネストは静かにそう言った。
ああ、里桜……憎しみに苛まれる前に、僕は恐怖に屈してしまいそうだ。こんな姿をキミに見せる訳にはいかない。




