ザドキエルの懺悔
ベッドの上に座ったまま身動き一つしない人形の様な里桜を、唇を噛んで見つめた後、ヴィベルは総一朗へと詰め寄った。
「総一朗、全てを話してください! 私には知る権利があります!」
「わかっている。話すとも。考えねばならん。皆を救う方法をな。だが、長くなるぞ? まあ、とりあえず座れ」
総一朗は自ら先に椅子へと腰かけると、ヴィベルにも座る様にと促した。
「なんだ、ガブリエルの部屋は真っ白でなんとも落ち着かぬな」
「彼の心がそれだけ潔白であるという現れなのでしょう」
「ほぅ? では私の部屋が土留め色なのは何故かな?」
「知りませんよっ!」
椅子に座りながら、ドン! とテーブルに拳を叩きつけて、ヴィベルはうんざりした様に総一朗を見つめた。
「それで? 何故あのような忌まわしい筐体を作ったのです!?」
ヴィベルの問いに総一朗は頷き、胸ポケットを探った後、自分が群青色の詰襟姿である事に気づき、苛立った様に項垂れた。
「なんだ、この堅苦しい服は」
「……七大天使の制服では?」
「タバコが無い」
「総一朗……」
「分かった。やれやれ、タバコ無しで話すのはなかなかに骨が折れるな」
咳払いをすると、総一朗は白髪が混じった頭を掻きながら脚を組んだ。四十四歳の割に見た目は若く見えるものの、白髪の量はその年齢よりも少し多い様に感じられる。
「まあ、ラファエルよ、お前にも深い因縁のある話だ」
「姉さんの父親から逃れる為に私を日本へ連れて来たからですか? 何故今まで話してくれなかったのです?」
「リタに口止めされていた」
総一朗はタバコが無いが故か、時折脚を小刻みに揺らしながら話を始めた。
————当時、まだ大学生だった私は実の親からすでに小会社を引き継がされており、海外進出させる為に方々駆けずり回っていた。
フランス進出が決定し、現地調査や挨拶に周っていた時に、乗っていた車が事故に遭った。幸いにも大した怪我は負わなかったが、救急搬送された病院で、研修医として勤務していたリタに出会った。
「日本のIT企業の社長さんなの!? 私よりもずっと若いのに。学生かと思ったわ」
「大学生であることには違いない」
「子供に務まる仕事なんて、大したことないのね」
「研修医の立場でそう言うな。君よりも五歳程度年下だからといって、バカにされる所以はないな。私とてそれなりに経験は積んでいる。幼少期からずっと会社経営の英才教育を叩きこまれて育ったのだからな」
彼女は美しい外見に、やや鼻につくような物言いをする女性だった。それというのも、彼女は医療へのIT進出の遅さに苛立ちを覚えていたからだ。IT企業の社長だという若造の私を敵視したくなる気持ちも分からないでもない。
それに比べ私は若さ故に軽視されがちであったため、口調をわざと偉ぶっていた。今ではすっかり身に沁みついてしまった訳だが……。
「総一朗、協力してくれないかしら? 私は一人でも多くの人を救いたいのよ」
「君が軽蔑している人間同様、私も人の生死に関わる分野には手を出さない方針だ。すまないが何もできないよ」
そうとも。医療システムを作り、もしもプログラムにミスがあったのなら? ウイルスが入り込んだのなら? それが人の命に直結するのだとしたら、恐ろしいものだ。自分が組んだプログラムに何かしらのミスがあって、或いはそれを動かす為の中間に何らかの問題が起きたらと、毎日眠れぬ夜を過ごすだろう。誰が好き好んでそんなリスクを負うものか。
勿論企業として、それに対する莫大な補償などできるはずが無い。
「命には直接関係しないわ」
リタはニコリと笑い、自信満々に胸に手を充て演説を始めた。
「医療の技術がどれほどに上がっても、人の心を癒す事はできないわ。私はそれをやりたいのよ! 心についた傷の治療をする医者になるの!」
「……ほぅ? どうやって?」
「バーチャルリアリティ。つまり、夢よ。夢の世界を与える事で、心を癒すのよ」
「夢に逃げ込むのか? そんなものは、根本的な解決にはならぬだろう?」
「そうとは限らないわ! 例えば、寝たきりになってしまった人が、自由に旅行やなんかに行くことができればどうかしら? 私の考えるバーチャルリアリティは一人ではなく、複数人で同じ世界にダイブできるようにしたいのよ。家族とだって不自由無く旅行に行ける。それは十分な心の支えにならないかしら?」
リタは外科医志望の研修医だった。肉体の一部を失うと共に、生きる気力までも失ってしまう患者達に心を傷め、救いたいと思いながらも、彼らにとっての一番の救いは家族であるということも理解していた。
「……ふむ、悪くはない」
「でしょ!? 話が分かるじゃない! 日本人は一度決めるとキッチリやるから好きよ!」
「あまりプレッシャーを与えるな」
「だめよ。やり遂げるわ!」
「システム名はどうする?」
「そうね……『エデン(楽園)』でどうかしら?」
エデンの開発は私がメインになってプロジェクトが立ち上がった。時折リタに意見を求めては開発を繰り返して行くうちに、私とリタは互いを尊敬し合い、愛し合う様になった。……まあ、男女の仲などそんなものだろう。
そんな流れもあって、リタの実家に挨拶に行く事になった。リタはあまり父親とは関係が思わしくないようで、厳格過ぎて苦手なのだと話していた。しかし会ってみればなんのことはない。大歓迎で迎えてくれ、酒の席まで用意してくれた。
エデンについては営利目的では無かったとはいえ公表していないシステムだったが、酒も入っていた事もあり、私はつい口を滑らせてしまった。その時、リタの親父さんは嫌に興味を示したのだ。
……ああ、断っておくが、リタの親父さんは赤ワインを少々口にしただけで酔ってなどいない。彼は敬虔なクリスチャンであったからだ。
「総一朗くん、なんとすばらしい話だろうか! 私は感動したよ。もう少し詳しく聞かせてはくれないか!」
「ですが、これはリタが考えたプロジェクトですので……」
「ああそうか。リタ! こちらへ来なさい。私にも聞かせておくれ」
リタの親父さんはエルネスト・ロウェル・ヒードリッヒ・ムアンドゥルーガ。自分の事はエルネストと気軽に呼んでくれと言われた。
エルネストは軍の幹部なのだと話していた。実家が元々パリでは指折りの富豪であり、三男坊として生まれたというのに、エルネストが全て財産を受け継いだのだと。確かに招かれた邸宅は豪邸と言える程の立派な住まいで、家事を手伝う使用人を何人も雇っている様だった。
現在の妻は後妻で、リタの実の母親である前妻は事故で亡くしたのだとか。美しく器量の良い継母とリタは歳が近いせいか仲が良く、継母が軍の医療関係者であったことから、リタもそれに憧れて医者を目指したのだと言う。継母が日本人であったことから、私に対しても親近感を持った様だった。
継母は『百合』と言う名だったと記憶しているが、彼女は随分前から心が病み、彼女が開発したという白い花、夢現逃花をただ只管愛でるだけで、誰の事も見つめようとはしなかった。
「私はね、常々戦争後遺症のケアをいかにするかを悩んでいたのだよ。総一朗くん、それにリタ。どうか協力しては頂けないか!」
戦争後遺症とは、戦争を経験した兵士達が陥る心理的な障害の事を言うのだそうだ。戦争では人を殺せば英雄だ。だが普通の生活に於いて殺人は犯罪になる。戦争から帰って来た兵士の自殺が後を絶たない現状を話し、エルネストは熱く語った。流石はリタの親父さんといったところか、彼の演説には人の心を惹きつける力があった。恐らく彼は自分の後妻である百合を救いたかったのだろう。
彼女の壊れてしまった心を取り戻したい。そう願っていたのだと私は思った。
だが、それには今までのプロジェクトとは大きく違う点があった。私とリタが考えていたのは、本人が作り出した夢幻の世界をホストとし、その夢を分かち合うというもの。だが、エルネストの理想はそれでは解決しない。
本人の夢に問題があるからだ。
戦争により傷つき苦しみの悪夢の中に居るのでは、心が修復される事は無い。
私とリタはプロジェクトを二つに分けた。一つは最初の通り、本人が作り出す夢幻の世界、エデンプロジェクト。エデンは理想の自分として自分の作り出した夢幻の世界にダイブする。それにより、身体的に失った物を取り戻す事ができるからその名をつけたのだとリタは言っていた。
それに対し、もう一つは他人が作った理想の夢幻世界にダイブするアルマゲドンプロジェクト。アルマゲドンとは、戦争を終わらせるための最終戦争。自分の中の戦争を終わらせろという意味でエルネストはその名をつけた。
「人の心に渦巻く闇は、人が餌を与え膨れ上がるものだ」
エルネストは突然意味深な言葉を呟く癖があった。私は彼の哲学的な考え方を好んでいたので、積極的に反応し、問う事が楽しみだった。
「餌ですか?」
私の問いに、彼は深く頷いた。
「恐怖という名の餌だ」
「それを無くす為には?」
「幸福になるしかないな。何物にも怯える事のない世界が必要なのだ」
「成程。恐怖を無くす程に、幸せな世界。エルネストさん、それはまるで天国ですね」
アルマゲドンは他人が創成した幸福な夢幻世界にダイブし、そこから更に本人の夢幻を広げる事ができるという構成にした。他人の夢だけでは本当の癒しとは言えないからだ。
しかし、プロジェクトは行き詰った。エデンに於いてもアルマゲドンに於いても、創成には想像を絶する精神的負荷が掛かるのだ。それもそのはずだ。現実世界から逃避し、自分の世界に籠りたいとよほどに強く思わなければ、事細かにリアルな夢幻の世界を創成することは不可能だからだ。
現実世界の幸福を知り、そしてその全ての幸福すらも塗り替える程の地獄を知った者でなければ、理想の夢幻世界など思い浮かびもしないだろう。
プロジェクトは停止を余儀なくされた。人を救う為に人を壊すのでは意味がない。
私自身試してみたが、創成された夢幻はただの虚無でしか無かった。リタには「貴方は幸せな人ね」と少しばかり嬉しそうに言われた。
私が現実世界に対して不満が無い事への現れだったからだろう。彼女の言う通り、あの当時の私は正に幸せの絶頂に居た。リタとの結婚が決まり、父から引き継いだ会社の経営も右肩上がりだった。耳に入って来る情報全てに興味を示し、生きる事の喜びを噛みしめていたのだ。
そんな時、エルネストは私とリタとの結婚に妙な条件をつけてきた。私に洗礼を受けろというのだ。敬虔なクリスチャンだからこその条件なのだろう。元々アメリカ国籍の私にとってはさほど違和感を持たず承諾し、エルネストの希望する『ザドキエル』を洗礼名に貰った。今思えば、アルマゲドンで私を創成する為の口実だったのかもしれない。
そう。アルマゲドンは、『他人が創成した夢幻にダイブし、そこから更に本人の夢幻を広げる事ができる』のだから。
エルネストは既に用意周到に計算し尽くし、また、自分を冷静に理解していた。自分が創成するであろう世界を思い描いていたのだ。彼はそれに登場する人物を、じっくりと選定していたのだろう。何年も、時間をかけて、着実にだ。
私とリタは結婚し、子供を授かった。里桜だ。その時のエルネストの喜び様といったら無かった。涙を流してまで喜ぶその様子は少し奇妙にも思える程だった。
しかし、その喜びは絶望へと変わった。里桜が先天性の病であることが発覚したからだ。ただし、その病がいつ発病するかは分からない。それを知った時のエルネストの嘆き様は無かった。
何日も何日も、神に祈りながら涙を流すのだ。実の親である私とリタが困惑する程の彼の嘆きに、私は不信感を抱かずにはいられなかった。
彼は敬虔なクリスチャンだ。だからこその嘆きだったのだろう。神が与えた試練を受け入れる事がどうしてもできなかった。抗う事に葛藤し、何故だと疑問を抱く事すらも冒涜と己を責めていたのかもしれない。
彼の中の『神』は、その時失ってしまったのだ。
そしてある日エルネストに子守りを頼み、買い物に出かけて帰って来た私は聞いてしまった。
「里桜。かわいい世界のアンジュ。お前は世界を救う為に神より御使った聖母となる。お前の創成するアルマゲドンで皆を救ってくれ」
……私は、その日のうちに里桜を連れて日本へと渡った。リタを置いて、だ。
リタは私の言葉だけでは信用してはくれなかったのだ。
エルネストが里桜をホストにし、エデンやアルマゲドンを創成しようとしているのだと、私はそう考えた。
恐らくプロジェクトで構築したプロトタイプごと会社をも乗っ取る気だ。彼の財力を以てすれば容易い事だろう。里桜を守る為にもあの筐体をエルネストに渡す訳にはいかない。
私は、踏み台会社をいくつも設立し、煙に巻こうと必死に防衛した。なんとしても娘を守りたい。守らなければならない。一体あの男は、娘にどんな恐ろしい精神的負荷をかけようとしているのか。想像するだけで恐ろしい。
私が日本で里桜と暮らす様になってから一年後、リタが突然私の元へと訪れた。ラファエルと言う名の弟を連れて、だ。
「リタ、君にそれほどにも歳の離れた弟が居たとは初耳だ」
「ラファエルは父が、アルマゲドンを創成する実験体として迎え入れた養子なのよ。父に会わせる前に連れて逃げて来たの」
「なんだと!?」
「お願い総一朗。ラファエルを守って! アルマゲドンを創成させるわけにはいかない。父にそんな罪を背負わせるわけにはいかないわ!」
「守れと言われても、しかし!!」
「私達が始めてしまった事の責任を取らなければならない。大丈夫、貴方なら隠し通せるわ!」
「……隠し通せなかったら」
と、考えて私はラファエルを受け入れる事に苦悩した。フランスから日本へと渡って一年間平和だったというのに、今彼を受け入れる事によって里桜にまで危険が及んでしまう可能性があるからだ。
「にいに?」
ブルージルコンの瞳でラファエルを見上げた里桜に、ラファエルは首を左右に振った。
「違います。私は貴方の叔父ですよ」
ラファエルは、エルネストが目をつけるのも無理は無い程に、優しく穏やかで、その年齢の割には余りにも落ち着き払っており、余程の事情があって養子にならざるを得ない状況だったのだろうと伺い知れた。やせ細った彼の体躯は、目にするだけで瞳に涙が浮かんでくる程に哀れだった。
人見知りの酷かった里桜が他人に話しかける姿を初めて目にし、ラファエルの骨ばった手で頭を撫でられるその様子を私は感極まって見つめた。私は里桜を幽閉するだけで、父親として何もしてやれなかったからだ。
そうとも。娘を守る為とはいえ、ラファエルを見捨てたのでは、父親として胸を張ってなどいられない。まして、自分が作ってしまったシステムの生贄にされるかもしれないのだから、尚更ではないか。
「……わかった。彼を受け入れよう。私達が踏み込んでしまった過ちの犠牲にするわけにはいかない。アルマゲドンは日本にある。フランスにある筐体はエデンのみだ。エルネストの思惑通りにはそうそう行くまい」
私はエデンの筐体をもう一台構築した。自宅にあったあの筐体だ。フランスにある筐体を取りに行く事は不可能だが、万が一フランスでエデンによる夢幻世界が創成されたのならば、創成された世界を共有できるようにと細工した。
つまりは、クラッキングだ。フランスで創成されたエデンに日本の筐体から侵入し、その世界を破壊する事ができる権限を、ログインユーザに与えたのだ。
暫くは平和に、そして幸せに暮らした。思い出せば思い出す程に幸せだった。無論、私もリタも忙しく、滅多に里桜と休日を過ごす事はできなかったが、その代わりにラファエルが里桜の面倒を見てくれていたし、なにかイベントの折にはサプライズを用意して、里桜を驚かせる事が最高の楽しみだった。
里桜に寂しい思いをさせていることは重々理解できていた。しかし、私にとってはそのほんの僅かな時間が重要であり、大切な時間であったことは確かだ。
……だが
リタの継母が亡くなったという話を聞き、リタはラファエルを連れて一度国に帰ると言った。
「気持ちが分からんでもない。だが、危険過ぎる!」
「分かってるわ。でも、あの人には本当にお世話になったの。ラファエルを日本に連れて行くようにと手配してくれたのは彼女なのよ。彼女がいなければ今の私は無いと言っても過言じゃない。最期のお別れなの」
2015年11月。リタはラファエルを連れ、祖国に帰った。彼女はそこで、とんでもないものを目にした。
エルネストは諦めてなどいなかったのだ。養護施設からラファエル以外にも優秀な子供を選定し、里子として引き取り行っていたのは、惨たらしい精神負荷。リタが目にしたのはその実験資料だった。子供達はすでに成人を迎え、エルネストの養子となっていた。
手遅れだったのだ。
そして、その中でも最も残酷だと彼女が感じたのは……。
『カイン・サマエル・有賀』
彼はリタの継母とエルネストの間に生まれた、リタにとっては血を分けた腹違いの弟だった。カインの存在をリタ自身その日まで知らなかったという。それも当然だ。継母がカインをエルネストから隠す為、トルコの友人の家へと預けていたからだ。
エルネストに所在がバレそうになり、まだ物心つく前のカインを神へと委ねるのだと、熱心で規律を重んじる、隣国シリアの宗教家達へと預けた。内戦は続くものの、子供の教育には良いと、その組織に子供を預ける親は少なくは無いのだと言う。
情勢の不安定なそこならば、流石のエルネストも追っては来まい。内戦はカインを隠す為の良い隠れ蓑となってくれた。
ところがどういう方法を使ったのか、その息子をエルネストは内密に実験材料として連れ戻していたのだ。
そしてカインには、この上無い負荷を掛けられた。
実の息子にだ。
それはあまりにも惨たらしく、普通であればまともな精神状態が三日と保たない程の拷問だった。
ところが彼は何年もそれを耐え抜いた。強靭な精神力の持ち主だったと言えるが、それを可能にさせたのは、彼の義兄弟の存在だった。義兄弟を守る為、カインは精神崩壊することなく耐え抜いていたのだ。
精神負荷の矛先が義兄弟へと向けられることを最も恐れ、彼は壊れる事ができないでいるのだ。
アルマゲドンの筐体はまだエルネストには見つかってはいない。エルネストは恐らく手始めにエデンを創成させる気だろう。
リタにとって唯一の救いは、まだエデンで夢幻世界が創成されていない事だった。リタは創成を止めるべく、祖国に滞在する事を決意した。カインを救うタイミングを推し量る為だ。
そんな中、例の襲撃事件が起こった。三人の実験体がそれに巻き込まれたと知るや否や、リタはラファエルと共にその場に駆けつけ、どうにかしてエルネストから引き離せないかと奮闘していた様だ。
しかし、リタはラファエルを連れ、すっかり肩を落として私の元に帰ってきた。
「エデンで、夢幻世界が、創成されてしまったわ……」
そこからは知る通りだ。アルマゲドンは日本に保管されている。会社の所在がエルネストに知られると、瞬く間に乗っ取られ、倒産を余儀なくされた。彼の莫大な資産を前にしては、太刀打ちできないのだ。莫大な金というものは、政治にまで口を出す権利を与えられるものだ。一般企業が適う訳がない。
そして更に間の悪い事に、里桜の病が発病した。しかし、その治療に必要不可欠な臍帯血はフランスに。つまり、エルネストの手中にある。ドナー提供者はそうそう簡単に見つかるものでもない。なんとしても臍帯血をエルネストから取り戻さなければならないが、彼はそれを盾にどんな要求をしてくることか知れない。
すると、リタは私にとある計画を持ち掛けた。
「カインが心臓を患っている様なの」
カインはエデンを創成した後、昏睡状態で眠り続けているという。ではこのまま彼が亡くなれば、エデンも消滅するのではないか? そう考えて、私は複雑な表情を浮かべてしまった。リタはそれを満足気に見つめ、決心した様に力強く頷いた。
「総一朗。ごめんなさい。貴方は何も悪く無いのに、苦しめてしまって。私が責任を取るわ。里桜の事は任せてちょうだい」
「何をする気だ?」
「カインに、私の心臓を提供するわ。それと引き換えに、里桜の臍帯血を持って来るの」
「ダメだ!!」
私は咄嗟に叫んだ。
「もう決めたのよ」
「勝手に決めるな!! 他に方法を探そう!」
「ダメよ。私の責任の取り方なのだから。大丈夫よ。人工心臓があるわ。早々すぐに死ぬ事は無いもの」
何度言い合い、喧嘩したことか知れない。里桜が私とリタのその光景を目の当たりにすることで、彼女の心も同時に傷つけてしまっていた。もう家族とは呼べぬ。いや、もともと家族と言うにはどうにも歪な関係だった。
エルネストがいつ里桜を奪いに来るのかという不安から逃れる為に酒に溺れたのも事実だ。
リタは、私が止めるのを聞かずにカインに心臓を提供した。それなのに、不思議な事に彼女は日本に帰るなり復職し、働く事さえできるほどに健康体だった。
首を傾げながらも奇跡と喜ぶ私に、リタは酷く冷たかったが。
そして、あの日リタは自らの胸を指さしながら私に言った。
「殺してやりたい程に憎い父の心臓がここにあるの」
我が耳を疑い、私はリタを見つめた。リタは明らかに取り乱していた。呼吸が荒く、全身を震わせながら瞳を見開き、片手には包丁を握りしめていたのだから。
「リタ? 何を言っているのだ?」
「総一朗。父をエデンにダイブさせる訳にはいかないわ! 父の肉体の一部がここにあれば、エデンに影響を及ぼす可能性があるでしょう! カインが既にダイブしている今、エデンを破壊する事も叶わないわ。それなら……」
私は黒く四角い筐体に一瞬視線を走らせた後、リタに落ち着けと言ったが、彼女は首を左右に振りながら涙を零した。
リタに移植されたのは、人工心臓では無かったのだ。それは、エルネストの。つまり、リタの父親の心臓だった。リタの心臓はカインに。そして、エルネストには病を患っているカインの心臓が移植されたのだ。
リタはその事実を知り、一人思い悩んでいたのだろう。私にも言えず、たった一人でその胸に在る自分の命を繋いでいる心臓を憎みながら。
「リタ。包丁を離せ。里桜にはお前が必要だろう!」
何故あの時、私自身もお前が必要なのだと言えなかったのだろうと悔いても悔やみきれない。リタはその言葉を聞いて、私を憐れむ様な……いや、自らを憐れみ、哀しみと絶望の色を瞳に浮かべた。
きっと彼女は言って欲しかったのだ。同じ過ちを共有した者同士の傷の舐めあいと言えばそうかもしれない。だが、それでもリタと出会って良かったのだと。里桜が生まれ、今の生活がどんなにか過酷であろうとも、それでも全てを無にして良いとは言い切れない。
全てを引き換えにしても出会わなければ良かったなどとは到底思えない程に、リタを愛しているのだと。
グラリと私は眩暈に襲われ、膝をついた。先ほどリタに勧められた酒に何か薬品が入れられたのだと察し、凄まじい眠気と戦いながらリタを睨みつけんばかりに見つめた。
「ごめんなさい。総一朗」
自らに移植された心臓を貫いて、満足気に微笑みながら血の海に横たわるリタの姿を、私は一生忘れる事は無いだろう。
「この痛みは、この苦しみは、私ではなく父のものだわ……」
リタはそう言って、この世から去ってしまった。
エルネストは、一体何故そのような移植手術を行ったのか?
調べようにも私は牢獄の中で、ただ只管後悔する事しかできなかった。
私は、何一つできなかった不甲斐ない『la racaille(社会のクズ)』さ。




