第93話 ウチ、国会議員なのに、しし兄の聞き役しかできなかった。……でも、しし兄は笑ってくれた/兄と妹が国会議事堂の傍聴席から、ちょっとだけるる奈を見守った日
日曜の昼下がり。
千道家のリビングには、のんびりした空気が流れていた。
母の冬子は買い物、父の春男は夜勤明けで爆睡中、妹のりり華は図書館で受験勉強。
家にいるのは、久しぶりの完全休日で、ソファでスマホをいじるるる奈と、ダイニングでポテチを摘みながらコーヒーを飲む、兄のしし男だけだった。
「……ねー、しし兄」
「なんだ。ポテチなら、やらんぞ」
「違うし!ウチのニート時代、家族にめっちゃ迷惑かけたじゃん?」
しし男のコーヒーカップが、ぴたりと止まった。
「で、今って一応、国会議員なわけじゃん? だから、しし兄困ってることない?」
「……お前、熱でもあるのか」
「ひどっ!恩返しだし!ガチで政治動かすとかは無理ゲーだけど、陳情とか請願とか、話聞くくらいなら、全然アリだよ☆」
得意げにギャルピースを決める妹を、しし男はしばらく見つめた。
◇◇◇
しばらくの沈黙のあと、しし男はコーヒーカップを置き、ぽつりと言った。
「……俺たち生活相談員ってさ、本人や家族、介護職員、病院、役所、その全部の間に入る仕事なんだよ」
「うん」
「身寄りのない入所者さんが急に入院した時とか、連絡先も決める人もいなくて、誰が何を決めていいのか分からなくなる。家族は『もっとちゃんと見てくれ』って言うし、現場は人手不足で手が回らない」
「うわ……」
「役所に相談しても、制度上の担当範囲が決まってて、全部は解決してくれない。入所者さんの生活は守りたいけど、施設の経営もあるし、法的な権限もない。で、困ったことが起きると、とりあえず相談員に話が来る」
しし男は、自嘲気味に笑った。
「役所が悪いわけでも、施設が悪いわけでもない。みんな決められた仕事をしてるんだ。でも、その隙間に落ちる問題があるんだよな」
るる奈は、ポカンと口を開けていた。
「ちょっと待って、しし兄。毎日そんな板挟みやってんの? 普通に詰んでね」
「まあ、それが仕事だからな」
「いやいや、仕事で済ませていいレベルじゃなくない、それ」
◇◇◇
るる奈は、むくりと身を起こした。
胸の奥で、あの子ども食堂の夜と同じ、小さな棘がチクリと疼く。
「それさ、普通に国に言う案件じゃね。せっかく妹が国会議員やってんだし、使わない手なくない。 ウチでよければ陳情でも請願でも、全然受けるしさ」
「いや、いいよ」
しし男は、あっさり首を横に振った。
「⋯⋯えっ、なんで」
「ありがたいけどな。こういう問題って、陳情や請願を出して、はい終わり、じゃないんだよ」
しし男は、コーヒーを一口飲んでから、話しを続けた。
「本当に変えようと思ったら、国会議員が自分の問題として取り上げて、厚労省に話を聞いて、制度のどこに穴があるのか調べて、必要なら予算や法律まで見直さなきゃならない。それも、俺の施設だけの話じゃない。全国の現場の話だ」
「……」
「お前が、兄貴への恩返しで気軽に引き受けるには、ちょっと重すぎる話なんだよ」
るる奈は、言葉を失った。
陳情と請願の違いを、竹中に教わった日のことを思い出す。
聞くだけなら、誰でもできる。
でも、本当に動かすには、何年もかかる。
(ウチが、ガチで動かないと意味ない系……)
「……そっか」
「ああ」
「ごめん、ウチ、軽く言いすぎた」
「謝るなよ。気持ちは嬉しかったんだから」
◇◇◇
少しだけ、気まずい空気が流れた。
るる奈がクッションを抱えてうつむいていると、しし男が穏やかな声で言った。
「でも、ありがとな」
「え? ウチ、なんもしてないじゃん?」
「話を聞いてくれただろ」
「そんなん、誰でもできるっしょ?」
「そうでもないさ」
しし男は、少し笑った。
「相談員って、普段は人の話を聞く側だからな。自分の愚痴を誰かに聞いてもらえるだけで、結構ありがたいんだよ」
「しし兄……」
「それに、俺は国会議員に陳情したかったわけじゃない。妹にちょっと愚痴を聞いてほしかっただけだ」
るる奈の目が、じわりと熱くなった。
「だから、今はそれで十分。もし本当に政治にお願いしなきゃならない時が来たら、その時はちゃんと手順を踏んで相談するよ」
「……うん」
◇◇◇
国会議員になったからといって、すべての問題を解決できるわけではない。
それでも、誰かの話に耳を傾けることならできる。
その日のるる奈は、国会議員として何かを成し遂げたわけではなかった。
ただ、かつて自分を支えてくれた兄の愚痴を、少しばかり聞いただけ。
けれど、しし男にとっては、それで十分だった。
ダイニングの窓から、午後の柔らかな光が差し込んでいる。
テーブルの上には、半分ほど減ったポテチの袋とコーヒーカップ。
そして、いつもと変わらない、兄妹の笑い声が、千道家のリビングに静かに響いていた。
◇◆◇◆◇
※このストーリーは、るる奈が国会議員になったばかりの頃の出来事である※
しし男は、選挙マニアなので、一回ぐらいは国会の傍聴に行きたいと常々思っていたが、なかなか実際に行くタイミングが掴めなかった。
ある平日、しし男は公休でりり華は創立記念日と言うタイミングが重なり、しし男はりり華を国会の傍聴に誘った。
るる奈は、とっくに議員会館へ出勤している。
あの妹が朝六時に起きて家を出る日が来るとは、数カ月前の千道家の誰が想像しただろうか。
「で、ここからが大事なんだが⋯⋯」
しし男は、声をひそめた。
「るる奈には、内緒で傍聴へ行く」
「え、なんで?」
りり華は、理由を聞いた。
「俺たちが見てるって知ったら、あいつ、変に意識するだろ。もしかしたら、ピースとかしかねない。……議員になってまだ日も浅いんだ。余計な影響を与えたくない」
「……ああ、確かに、そうかも」
りり華は、頷いた。
ギャルピースで本会議場に立つ姉の姿が、あまりにも容易に想像できてしまった。
◇◇◇
しし男とりり華は、国会議事堂前駅の改札を抜け地上に出た瞬間、おもわず小さく声を上げた。
「わあ……。テレビで見るより、ずっと大きい」
「確かに。選挙特番で毎回見てるのに、さすが実物は、迫力が違うな」
しし男は、事前に傍聴の手順をメモしていた。
「衆議院の面会所で、傍聴の受付をする。住所、氏名、年齢を書いて、傍聴券をもらう。議場内は撮影禁止、携帯は電源オフ。静粛に」
「凄い。お兄ちゃん、完璧……」
「備えあれば憂いなし。事前準備は、俺のモットーだ」
受付を済ませ、衛視の誘導で議事堂の中へ進む。
磨かれた床と、重厚な扉。
二人とも、自然と声が小さくなった。
やがて、傍聴席の入口に着く。
扉をくぐった瞬間、りり華は思わず息を呑んだ。
「……ここが、本会議場」
扇形に広がる議席。
高い天井と正面の議長席。
数ヶ月前まで、ベッドの上でスマホばかり見ていたるる奈が、今日、この空間のどこかに座っている。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんの席、どこ?」
「新人議員は後方の席にまとめられてるはずだ。……ほら、あの辺」
しし男が、メモで確認しながら、小声で指差した先。
後方の席に、ミルクティーベージュの髪を一つにまとめた、見覚えのある横顔があった。
「……いた」
「いたな」
姉は、背筋を伸ばして座っていた。
手元には、クリアファイル。
時折、それをちらりと確認している。
「ちゃんと、座ってる……。意外と落ち着いているね」
「ああ。ここまでは、合格点だ」
二人は、固唾を呑んで見守り始めた。
◇◇◇
議事が進む。
議員が登壇し、法案の趣旨を説明する。
落ち着いた声が、静かな議場に響く。
しし男は、最初こそ前のめりになって聞いていた。
「おお、これが生の趣旨説明か。条文の話を、こんなに丁寧に……」
「お兄ちゃん、興奮しすぎだよ」
「おっと、すまんすまん。少し、浮かれてしまったようだ」
だが、りり華の関心も、完全にるる奈の席に注がれていた。
(お姉ちゃん、今、何を考えてるんだろう⋯⋯)
るる奈は、微動だにしない。
欠伸を噛み殺しているようにも見えるが、姿勢は崩さない。
「……頼むから、大声で『異議なし』とか叫ぶなよ」
しし男が、祈るように呟いた。
「お兄ちゃん、それ、フラグ……」
「言うな」
十分経過。
姉は、座っている。
十五分経過。
姉は、まだ座っている。
二十分経過。
姉が、そっと資料をめくった。
それだけだった。
◇◇◇
「……何も、起きないな」
「うん」
「立ち上がらないし、叫ばないし、スマホも出してない」
「ピースもしてない」
「あいつ、本当に国会議員なんだな……」
しし男は、感慨深げに呟いた。
◇◇◇
「……ごめん、お兄ちゃん。ちょっと、飽きてきた」
りり華が、申し訳なさそうに言った。
「実は、俺もだ」
しし男も、同調した。
「選挙特番とは違うんだな。解説もテロップもないと、何を言ってるのか、正直半分も分からん」
「でも、お姉ちゃんが静かに座ってるのは、見られたよね」
「ああ。それだけで、十分だ」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
傍聴を始めて、およそ三十分がたった。
「……そろそろ、出るか」
「うん」
二人は、係員に小声で伝えると、静かに傍聴席を後にした。
最後に、りり華はもう一度だけ振り返った。
遠くの席で、姉は相変わらず、背筋を伸ばして座っていた。
(お姉ちゃん、頑張ってね)
◇◇◇
議事堂の外に出ると、午前の柔らかな日差しが、白い石壁を照らしていた。
「なんか、拍子抜けしたな」
しし男が、肩を回しながら言った。
「俺、るる奈が何か起こすんじゃないかって、ずっとハラハラしてたよ」
りり華は、くすりと笑った。
「でも、嬉しかった。お姉ちゃんが、ちゃんと仕事してるところ見られて」
「ああ。……あいつ、立派にやってたな」
しし男は、国会議事堂を見上げた。
闇金に追い詰められ、泣いて帰ってきた夜から、まだ数ヶ月しか経っていない。
「今日の傍聴、るる奈には言うなよ」
「うん。言わないよ。絶対」
「バレたら、『ウチのこと見に来たの!? 言ってよ!』って、うるさいからな」
「うん、想像できる」
二人は、並んで駅へ歩き出した。
◇◇◇
その夜。
千道家のリビングでは、帰宅したるる奈が、ソファにぐでんと寝転がっていた。
「今日さー、本会議マジ長くて、死ぬかと思ったんだけど。ウチ、ずっと座ってただけなのにヘトヘト!」
「そうか。お疲れ」
しし男は、何食わぬ顔でお茶をすすった。
「でも、ちゃんと最後まで仕事したんでしょ。えらいね、お姉ちゃん」
りり華も、何食わぬ顔で相槌を打つ。
「でしょー!褒めて褒めて!」
「はいはい、えらいえらい」
るる奈は、満足げにクッションを抱きしめた。
その様子を、兄と妹は、目だけで合図し合って、静かに見守っていた。
(……ちゃんと、仕事してたよな。座っていただけだけど)
(うん。ちゃんと、仕事していた。座っていただけだけど⋯⋯)
るる奈が、その日の傍聴席に、見慣れた二人の顔があったことを知るのは、まだずっと先のことである。
千道家の夜は、いつもと変わらず、穏やかに更けていった。




