第9話 ……600万円返ってこないって、マジでそんなの全然聞いていない
翌朝、民自党本部は、まるでお祭りと葬式が同時に来たような騒ぎになっていた。
『鷹町旋風』は日本中を飲み込み、テレビでは「歴史的大勝利」の文字が躍り続けている。
だが、東京ブロックの比例名簿の底から這い上がってきた「千道るる奈」という名前は、党幹部たちにとって勝利の美酒に混じった異物だった。
当選翌日の午後。るる奈は再び、あの無機質な面談室に呼び出された。
対面に座るのは、怒りで顔を膨らませた福島副幹事長と、氷のような視線を向ける代田事務長代理。
だが、昨夜の当確以来、るる奈を「党の恥」として完全に無視し続けている、氷室レイの姿はない。
「……千道さん。単刀直入に聞く。あの600万円、どこで工面した?」
福島が机を叩く。
るる奈は、昨日の「強気なギャル」の仮面を維持する余裕すらなく、真っ青な顔で震えていた。
「……闇金、です。黒金さんっていう……。落ちたら、ウチの全部を好きにしていいって約束して。だから、一刻も早く返さないと、マジでヤバいんです」
「……は?」
福島と代田が同時に絶句した。
「む、無鉄砲にもほどがある。……党の公認候補が闇金から金を引っ張って当選したなどとバレたら、内閣が吹っ飛ぶぞ!」
福島の怒号が響くが、るる奈の耳には届かない。
彼女の脳内にあるのは、黒金の「トイチ(10日で1割)」というカウントダウンだけだった。
「目的は何だ? 国政で何を成し遂げたい?」
代田が冷淡に問い詰める。
るる奈は喉を鳴らしながら、絞り出すように本音を吐いた。
「成し遂げるとか、分かんないっしょ……。ただ、年収2000万円超えって聞いたから。それだけあれば、闇金返して、親の脛かじらないで、一生ダラダラ生きていけると思っただけ。……今のままじゃ、どうせ詰んでるし。それなら、ワンチャン賭けるしかないじゃん……」
「……浅はかすぎる」
代田が、吐き捨てる。
福島はこめかみを押さえ、この「歩くスキャンダル」をどう処理すべきか必死に計算していた。
「いいか。党の指示には絶対服従だ。余計な発信は一切禁止。おとなしく座って票を投じるだけの機械になれ。そうすれば、歳費は保証してやる」
「はい……。ありがとうございます……」
るる奈は、深く頭を下げた。
福島は不快感を隠そうともせず退室し、残された代田が事務的にこれからの行程をレクチャーし始めた。
議員会館の入居、秘書の雇用、バッジの交付……。
るる奈は、藁にもすがる思いで身を乗り出した。
「あの、代田さん! 供託金の600万円、いつ戻ってきますか? 今すぐ必要なんです! 1分1秒でも早く返さないと、利子が……!」
代田は書類を整えながら、事務的に、残酷な事実を告げた。
「供託金の返還には、公職選挙法の規定に基づく手続きが必要です。通常、1ヶ月程度はかかりますね。即日など、あり得ませんよ」
その瞬間、るる奈の視界がぐにゃりと歪んだ。
「……1ヶ月? 嘘でしょ……?」
10日で60万円。30日で180万円。
何もしなくても、返済額は780万円にまで膨れ上がる。
当選して地獄から脱出したと思っていたのに、そこはさらに深い蟻地獄の入口だった。
「1ヶ月なんて待ってくれない……。あいつら、絶対来る……。国会だろうが、どこだろうが……!」
後悔が、どろどろとした泥のように胸に溢れ出した。
こんなことになるなら、最初から借金なんてするんじゃなかった。
ニートのまま、コンビニスイーツを食べて笑っていればよかった。
……神様、助けて下さい。神様……。
手に入れたばかりの「議員バッジ」が、自分を締め上げる鉄の枷に見えた。
「千道さん、どうかしましたか? 気分が悪いなら医務室へ行きますか」
代田の問いかけに、るる奈は首を振ることしかできなかった。
「……なんでも、ないです。……大丈夫、っしょ」
震える声でそう答えた彼女の瞳には、もはや「ワンチャン」を信じる光は残っていなかった。
史上最年少の「闇金抱え新人議員」の、命を削るような議員生活が、今、最悪の形で幕を開けた。




