第8話 ……マジでゴメン。お母さん、今は何も聞かないで……
終電のドアが閉まる寸前、るる奈はなんとか車内に滑り込んだ。
全身が鉛のように重い。黒金の事務所で浴びせられた言葉の残滓が、耳の中でまだぐるぐる回っていた。
「……はぁ、マジで終わったかも……」
自宅の玄関を開けた瞬間、居間の明かりがまだついていることに気づいた。
「ただいま……」
掠れた声でそう言うと、キッチンからエプロン姿の母親・冬子が顔を出した。55歳とは思えない疲れた表情が、るる奈の胸をちくりと刺す。
「……るる奈?」
冬子は娘の顔を見て、すぐに眉を寄せた。
派手なエクステは乱れ、目の下には濃いクマができていて、いつも元気いっぱいの笑顔はどこにもない。
「どうしたの、その顔……。ねえ、何かあったんでしょ? 今日は朝からずっと出かけてたわよね?」
るる奈は靴を脱ぐのも億劫で、壁に寄りかかりながらなんとか笑おうとした。
「お母さん……ごめん。今夜はもう、何も聞かないで。頭、めっちゃ痛いし、体も限界……。明日、ちゃんと話すから……」
冬子は唇を噛んだ。心配そうに娘を見つめながらも、るる奈の必死な瞳を見て、深く息を吐いた。
「……わかった。でも、せめてご飯は食べなさい。お味噌汁、温め直すわよ」
「いらない……もう寝る。ごめんね」
るる奈はフラフラと自分の部屋に入り、制服のように着ていた服も脱がずにベッドに倒れ込んだ。
片時も手放さないスマホをるる奈は玄関に置き忘れるぐらい、そして、それすら気づかないほど意識は深い闇に落ちていった。
──翌日、正午前。
「……ん、うぅ……」
るる奈は重い瞼をこじ開けた。
喉がカラカラで、頭がずきずきする。やはり、よっぽど疲れていたらしい。
時計を見たらもう十一時五十分だった。
「ヤバ……寝すぎ……」
スマホを探してベッドの周りをまさぐるが、どこにもない。
いつも肌身離さず持っているはずなのに——。
「え、待って……マジでどこ?」
焦りながら居間へ行くと、テーブルの上に自分のスマホが丁寧に置かれていた。
画面には複数の着信履歴。民自党 事務局(3件)。
るる奈の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「おはよう……っていうか、もうお昼だけど」
冬子がキッチンから声をかけてきた。エプロンをしたまま、娘の顔をじっと見つめている。
「るる奈。あのね……さっきもまた『民自党事務局』から、電話が来たわよ?三回も。どういうこと? あなた、本当に何がどんな事になってるの?それとも……何か危ないことに巻き込まれてるんじゃないの?」
冬子の声は穏やかだったが、目は本気で心配していた。
るる奈は言葉に詰まった。スマホを握る手が小刻みに震える。
「……お母さん」
ちょうどその時、再びスマホが激しく震えた。
『民自党 事務局』
るる奈は慌てて通話に出た。
「は、はい……千道です……」
『千道先生、至急本部へお越しください。福島副幹事長が大変お怒りで、午後一で面談を設定しています。遅刻は許されません』
電話を切った瞬間、るる奈は大きく息を吐いた。冬子が静かに近づいてきて、娘の肩にそっと手を置いた。
「るる奈……本当のことを話してくれないの?お母さん、ずっと心配してるのよ。あなたが急にソワソワし出して、あの夜もすごく遅く帰ってきて……顔色も悪いし、明らかに無理してるわ」
るる奈は唇を噛んだ
母親の温かい手に、胸の奥が熱くなる。
「……お母さん、ごめん。ウチ、ほんとにバカだった。でも、もう後戻りできないところまで来ちゃって……」
冬子は優しく、けれど力強く娘を抱き寄せた。
「いいの。無理して今すぐ全部話さなくていい。ただ……一人で抱え込まないでね。お母さんたち、いつだって味方だから」
るる奈の目頭が熱くなった。
でも今、泣いたら全部崩れてしまいそうだった。
「……うん。ありがとう。今度こそ、ちゃんと話すから。ちょっと急いで出かけてくるね」
るる奈は急いで部屋に戻り、派手めのトップスに着替えながら鏡の前で小さく呟いた。
「……マジで、今回は本当にヤバいかも」
玄関で靴を履きながら、背後から母親の心配そうな視線を感じた。
るる奈は振り返らずにドアを開け、永田町へと急いだ。
胸の奥では、黒金の笑い声と、福島副幹事長の怒鳴り声が交互に響いていた。




