第85話 憲法審査会で1分だけスピーチできるらしいので、頑張って何か言ってみることにした
議員会館の自室で、るる奈は御子神から渡された一枚の紙を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「……憲法審査会? ウチ、そんなのまで行かなきゃいけないの?」
「今回のみ、委員として参加していただきます」
「ウチ、憲法とか改正とか、正直マジで一ミリも興味ないんですけど」
「存じ上げています」
御子神は、いつも通りの無表情で続けた。
「ですが、今回はご安心ください。今回の審査会は、これまでの議論を一度整理する『総括的な討議』という位置づけです。激しい論戦になる回ではありません」
「総括……?」
「緊急事態対応、国民投票制度、憲法九条、合区の問題等、これまで議論してきた内容を、各会派が一度総合として発言する、という趣旨の会です。新しい対立点が出るような回では、まずありません」
「ふーん。じゃあ、ウチ、座ってるだけでいいってこと?」
丸目が、お茶を差し出しながら補足した。
「基本的には、そうですね。今回も、経験を積んでいただくための、いつもの数合わせです」
「数合わせ……。また、それかい」
「正直に申し上げますと、他の委員の先生方も、先生のご意見にそこまで大きな期待はされていないと思います」
「うわ、ハッキリ言うじゃん」
るる奈は、少しむっとしたように唇を尖らせた。
「ただ、一応」
丸目が、続けた。
「最後に、各党の若手議員に、一分間のアピールタイムのようなものが用意されているそうです。今回、先生にもその枠が回ってきています」
「スピーチ?え、なんか、喋らなきゃいけないわけ」
「はい。ただし、あくまで形式的なものですので、そこまで気負う必要はありません」
るる奈は、しばらく黙り込んだ。
(期待されてないとか言われると、それはそれで、なんかちょっとムカつくんだけど)
興味がないはずの憲法の話に、るる奈の中で、妙な対抗心のようなものが、じわりと湧き上がってきた。
(でも、言いたいこと、特にないんだよなあ……。憲法改正とか、九条とか、正直全然分かんないし)
るる奈は、渡された資料をパラパラとめくった。
条文の羅列。
過去の審査会の議事録。
難しい言葉ばかりが並んでいる。
その中の一文に、るる奈の目が、ふと止まった。
『第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない』
「……あ」
るる奈の脳裏に、あの日、子ども食堂で見た光景が、ふいに蘇った。
汚れた服を着た小さな女の子が、皿に残った最後の一粒の米まで、必死にすくっていた姿。
「明日まで、これでお腹いっぱいにしなきゃいけないから」という、あの小さな声。
「……ねえ、これって」
「先生?」
「これ、子どもの貧困のこととか、関係あるんじゃない?」
竹中が、資料を覗き込んだ。
「二十五条ですか」
「うん。ここに、国は社会福祉とか社会保障とかを『向上』させて『増進』させなきゃダメって、はっきり書いてあるじゃん。だったら、子どもがご飯食べられないとか、そういう問題、この条文使って、政治がもっとちゃんと頑張れって、言ってもいいんじゃない?」
「……」
竹中は、しばらく無言で、るる奈の言葉を反芻していた。
「先生、それは、憲法改正の議論とは、少し方向性が違いますが」
「え、ダメ?」
「いえ……」
竹中は、眼鏡を押し上げながら、渋い顔をした。
「正直に申し上げますと、かなり嚙み合っていません。今回の審査会は、あくまで『憲法をどう変えるか、変えないか』という議論の総括です。先生の話は、『今ある憲法をどう実現するか』という、まったく別の切り口です」
「あ、やっぱダメか……」
るる奈は、しゅんと肩を落とした。
「ですが」
竹中は、少し考えるように、顎に手を当てた。
「的外れというわけでもありません。むしろ、憲法改正の議論に偏りがちなこの場で、『今ある条文をどう活かすか』という視点を出すこと自体は、悪くない切り口かもしれません」
「マジ?」
「一分間という短い時間ですし、揚げ足を取られるリスクも低い。……先生、取り敢えず一度、形にしてみましょう」
「え、いいの!?」
「せっかくの機会ですし、先生なりに、何か言いたいことがあるなら、それを整理する手伝いはします」
るる奈は、パッと表情を輝かせた。
「じゃあさ、竹中さん、ウチと一緒に考えてよ! ウチ、難しい言葉とか分かんないから!」
「分かりました。まず、先生が言いたいことの、核の部分から整理しましょう」
こうして、るる奈と竹中は、机を挟んで向き合い、一分間のアピール原稿作りに取り掛かった。
「先生、まず、何を一番伝えたいですか」
「うーんと……。憲法変えるとか変えないとか、それはウチにはよく分かんないんだけど。でも、変える変えないの前に、今ある憲法に書いてあることすら、ちゃんとやれてないんじゃないの?って思うんだよね」
「なるほど。それは、良い切り口です」
竹中は、メモを取りながら頷いた。
「では、その主張を、具体的な子どもの貧困の話と結びつけましょう。先生が、実際に子ども食堂で見た光景を、話の導入にするのはどうでしょうか」
「あ、それいいかも!あの女の子の話、リアルにあったことだし」
「一分間は、思っているより短いです。文字数にして、およそ三百字前後。無駄な言葉を削ぎ落として、一番伝えたいことだけを残す必要があります」
「三百字……。えー、それだけ?」
「はい。だからこそ、練習が必要です」
るる奈と竹中は、その日の夜遅くまで、原稿の推敲を繰り返した。
「先生、この言い回し、ちょっと長いです。もっと簡潔に」
「じゃあ、こう?」
「悪くありません。ただ、ここはもう少し、先生らしい言葉のほうが、伝わると思います」
「え、ギャル語でいいの?」
「一分間のアピールですから、堅苦しい言葉より、先生の言葉で話したほうが、印象に残ります」
何度も何度も、声に出して読み上げ、時間を測る。
最初は一分四十秒もかかっていた原稿が、少しずつ、少しずつ、削られていった。
そして、憲法審査会当日。
衆議院第一委員室は、るる奈が想像していたよりも、遥かに静かだった。
長机がずらりと並び、各党の議員たちが、それぞれ資料に目を通している。
テレビの中継で見るような、怒号が飛び交う荒々しい光景は、どこにもなかった。
(……なんか、思ったより地味)
会長や議員がそれぞれ着席し、事務局員が資料を配布する。
「ただいまから、憲法審査会を開会いたします」
会長の声が、静かに響いた。
「これまで、緊急事態への対応、国民投票制度、憲法第九条、合区・地方公共団体など、さまざまな論点について御議論をいただいてまいりました。それぞれの論点について、まだ議論すべき点は多々ございますが、一度ここで、これまでの議論を総括しておく必要もあるのではないかと思います」
各会派の代表議員が、次々と発言していく。
「この間の議論によって、論点はかなり明確になってきたと思います」
「議論が深まったことと、合意形成が進んだことは、同じではありません」
「意見の違いを確認できたこと自体が、この審査会にとって重要な成果だったのではないでしょうか」
淡々と、事務的に、議論が積み重なっていく。
るる奈は、その空気に圧倒されながらも、手元の原稿を何度も何度も、指でなぞっていた。
(……緊張する。マジで緊張する)
やがて、会長が資料をめくり、口を開いた。
「それでは、この後、若手議員による発言の時間を設けたいと思います。一人一分間となりますので、簡潔にお願いいたします」
(きた……)
るる奈の心臓が、大きく跳ねた。
何人かの若手議員が、それぞれの持論を述べていく。
改憲の必要性を訴える者、慎重な議論を求める者。
るる奈は、自分の番が近づくにつれ、手のひらにじわりと汗が滲むのを感じた。
「――続きまして、千道委員」
会長の声が、るる奈の名前を呼んだ。
るる奈は、ゆっくりと立ち上がった。
周囲の視線が、一斉に集まる。
数合わせのギャルが何を言うんだ、という空気が確かに漂っていた。
るる奈は、深く息を吸い、原稿を見ずに、まっすぐ前を見た。
「――私は、憲法を変えるべきか、変えないべきか、その議論をしたいわけではありません」
静かな声で、るる奈は話し始めた。
「私は、先日、地元の子ども食堂を訪れました。そこで、小学生くらいの女の子が、お皿に残った最後の一粒のお米まで、必死にすくっていました。『明日まで、これでお腹いっぱいにしなきゃいけないから』と、その子は言いました」
会議室が、しん、と静まり返った。
「憲法二十五条には、こう書いてあります。『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』。そして、『国は、社会福祉、社会保障の向上及び増進に努めなければならない』」
るる奈は、ここで、一度、深く息をついた。
「憲法を変えるか変えないか、その議論ももちろん大事だと思います。でも、その前に。今ある憲法に、もう書いてあることすら、私たちはまだ、ちゃんと実現できていないんじゃないでしょうか」
誰も、口を挟まなかった。
「私は、憲法違反だと政府を責めたいわけではありません。ただ、書いてあることを、書いてあるだけで終わらせず、一つでも多く、現実にしていく。それもまた、憲法を大切にするということだと、私は思います」
るる奈は、最後に、まっすぐ会長の方を見た。
「以上です」
その瞬間、時計が、ぴたりと一分を示した。
会議室に、しばしの沈黙が流れた。
誰かが、小さく資料をめくる音がした。
「……千道委員、ありがとうございました」
会長は、それだけ言って、次の発言者へと移った。
るる奈は、椅子に腰を下ろしながら、大きく息を吐いた。
手のひらは、まだじっとりと汗ばんでいた。
(……言った。ちゃんと、一分で言い切った)
周囲の議員たちの反応は、劇的なものではなかった。
拍手も起きなければ、誰かが立ち上がって賛同することもなかった。
だが、何人かの議員が、るる奈の方を、ちらりと見た。
その視線には、これまでの数合わせのギャルという決めつけの色が、ほんの少しだけ薄れているように見えた。
審査会が終わり、議員会館に戻る道すがら、るる奈はぽつりと呟いた。
「……終わった。マジで終わった」
「お疲れ様でした、先生」
竹中が、静かに労いの言葉をかけた。
「反応、微妙だったよね。誰も拍手とかしてくれなかったし」
「拍手を期待する場ではありません。ですが」
竹中は、少し間を置いてから、続けた。
「先生が、一分間逃げずに、ご自分の言葉で最後まで話しきったこと。それ自体が、今回の一番の成果だと思います」
「……そう、なのかな」
るる奈は、少し照れくさそうに、髪を掻き上げた。
「まあ、ウチにしては、頑張った方だよね」
「はい。よく頑張りました」
御子神も、静かに頷いた。
「先生、今回の発言、記者からの反応も、悪くないようですよ」
「え、マジで?」
丸目が、スマホの画面を見せた。
『子ども食堂の視察経験から――若手議員、憲法25条の実現を訴える』
小さな記事だったが、これまでのような揶揄や皮肉の色は、そこにはなかった。
「……ウチ、初めてまともな記事になったかも」
るる奈は、少し嬉しそうに、画面を見つめた。
永田町の夕暮れが、今日もいつも通り、静かに広がっていた。
だが、るる奈の胸の中には、これまでとは少しだけ違う、確かな手応えのようなものが、静かに残っていた。




