第84話 「子どものため」という綺麗な言葉に政治は勝手に動くものだと思っていました
民自党女性局の会議室には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。
「今日、なんか陳情来るんだっけ?」
るる奈は、配られた資料をパラパラとめくりながら、興味なさそうに欠伸を噛み殺した。
女性局のメンバーである他のベテラン女性議員たちは、それぞれ雑談しながら着席している。
氷室は、いつも通り背筋をピンと伸ばし、事前配布資料に赤ペンで細かく書き込みを入れていた。
春日春子局長は、隣の議員と何やら楽しげに談笑しながら、お茶を口に運んでいる。
「本日は、市民団体『新生女性未来』様より、ロビー活動のお申し込みをいただいております」
女性局スタッフの案内で、会議室に一人の女性が入ってきた。
◇◇◇
【加賀井美奈子/50歳/市民団体代表】
きっちりとしたスーツに、資料の詰まった重たそうな鞄を抱えながら、入室してきた。
「本日は、お時間をいただき、誠にありがとうございます!」
加賀井は机の前に立つと、開口一番、大きな声で頭を下げた。
「私たちは、子どもたちを過激なデジタル広告から守るため、日々活動しております。本日は、皆様に、ぜひ規制強化のご賛同をいただきたく参りました!」
(あー、はいはい。子ども守るやつね)
るる奈は、内心そう呟きながら、興味半分でスマホをテーブルの下に隠すように構えた。
正直、この手のロビー活動には、これまで数え切れないほど遭遇してきた。
票と献金の確約が絡んだ陳情、名前貸しを求めるNPO、業界団体の裏取引……。
るる奈にとって、目の前の資料も、その他大勢の一つに過ぎなかった。
(まあ、過激なデジタル広告が規制されたところで、ウチが困ることは特にないし。多分、票とか献金しだいで受け入れるんでしょ、女性局も)
だが、加賀井のロビー活動は、るる奈の想像を遥かに超えていた。
「子どもたちの未来を守るためには、一刻の猶予もありません!このままでは、日本中の子どもたちが、有害な情報に晒され続けることになります!」
加賀井の声は、次第に熱を帯びていく。
手元の資料を叩きつけるように振りかざし、スライドのグラフを指差しながら、まくし立てるように言葉を重ねていった。
「私たちの団体は、この問題に長年取り組んでまいりました!ぜひ、皆様のお力で、この法案を実現していただきたいのです!」
あまりの熱量に、会議室の空気が、じわじわと重くなっていく。
「……」
春日春子局長ですら、いつもの余裕の笑みが、わずかに引きつっていた。
氷室も、資料をめくる手を止め、加賀井をじっと観察するような目で見つめている。
(あれ、なんかウチが思ってたのと空気違う……?)
るる奈は、隣に座る女性議員が、そっと苦笑を浮かべているのに気づいた。
やがて、加賀井は熱弁を終え、満足げに一礼した。
「……以上が、私たちの提案でございます。何卒、ご検討のほど、よろしくお願いいたします!」
◇◇◇
会議室に、しばしの沈黙が落ちたが、それを破ったのは、春日春子局長だった。
「加賀井さん。お話、しっかり伺いました」
いつもの、のんびりとした口調だったが、その目は、るる奈が今まで見たことのない鋭さを帯びていた。
「まず伺いたいのですが、この条文案、『青少年有害情報に準ずる情報』とありますが、これ、具体的にはどういった基準で判断されるんですか?」
「え……? そ、それは、事業者の皆様に、適切にご判断いただければと」
「事業者任せ、ということですね。でも、定義がないと萎縮効果が起きますよ。表現に関わる仕事をしている人間って、ものすごく多いですからねえ」
「ですが、子どもを守るためには……」
「子どもを守る目的自体には、反対はしていませんわ」
春日局長は、資料をパラパラとめくりながら、淡々と続けた。
「ですが、こちらの条文、看板と中身が違いますよね。過激な広告に特化するとおっしゃっていたのに、実際の条文は、既存の広い『青少年有害情報』をそのまま流用している。これでは、対象が無限に広がる可能性があるわね」
「そ、それは……」
「加賀井さん」
今度は、氷室が口を開いた。
その声は、いつもと変わらぬ冷静で逃げ場のない鋭さを、持っていた。
「毎年の実施状況の公表義務、そして国が支援する評価団体による監視。この組み合わせ、実質的な検閲基準になり得ることは、ご理解の上ですか」
「け、検閲だなんて、そんな……。私たちは、あくまで子どもたちのために……」
「加賀井さん自身が、その評価団体の関係者でいらっしゃいますよね」
その一言に、会議室の空気が、ぴたりと止まった。
「……え」
「先ほどの資料に、あなたのお名前が、評価団体の理事として記載されていました。この法案が通れば、あなたの団体が、国の支援を受けながら、事業者の対応を評価する立場になる。監視を意図的に厳しくすることも、範囲を恣意的に広げることも、あなた方の裁量次第でできてしまう」
「そ、それは、あくまで公正に……!」
「公正さを担保する仕組みが、条文のどこにもありません」
氷室は、資料を静かに閉じた。
「看板と中身がズレている。定義が曖昧。第三者性の担保もない。これでは、賛同のしようがありません」
◇◇◇
会議室に、重い沈黙が落ちた。
加賀井は、顔を真っ赤にしながら、何とか言葉を絞り出そうとしたが、うまく続かなかった。
「……ほ、本日は、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
結局、加賀井はそれ以上の反論ができないまま、資料を鞄にしまい会議室を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、るる奈は、しばらく呆然としていた。
(……え? ウチ、てっきり)
子どもを守るための規制。
その言葉だけ聞けば、賛同するのが当然だと、るる奈は思っていた。
だが、女性局の誰一人として、その正義の言葉に、流されなかった。
「……あの、氷室センセイ。てっきり、子ども守るための規制だから、賛成するのかと」
るる奈が恐る恐る尋ねると、氷室は、いつもの淡々とした調子で答えた。
「目的が正しくても、中身が伴っていなければ、賛同はできません。むしろ、目的が正しいからこそ、中身の甘さはより厳しく見なければならない」
「……マジっすか」
春日春子局長も、いつもの笑みを浮かべながら、あっけらかんと言った。
「あら、るる奈ちゃん。あたしたち、票と献金さえあれば何でも通すと思ってた?」
「……正直、ちょっと思ってました」
「あはは、正直ね。まあ、そう見られても仕方ないけど。でもね、あの程度の中身で押し通そうとするロビー活動、大体雰囲気で分かっちゃうの。だから、最初から聞く価値もないのよ。もちろん、ちゃんとしたものを持ってきてくれれば、話は別だけどね」
その言葉に、周囲の女性議員たちも、次々と頷いた。
「基準が曖昧な規制ほど、後で厄介なものはないですからね」
「表現の萎縮って、一度起きたら取り返しつかないし」
誰も、加賀井の熱弁に心を動かされていなかった。
るる奈は、それぞれの言葉を聞きながら、じわじわと何かが胸に染み込んでくるのを感じた。
(……ウチ、勝手に決めつけてた。与党とか、女性局とか、みんな票と献金でホイホイ動くって)
部会やPTで、フリマの裏取引みたいな法案のバーターを見せられて、るる奈の中には、いつしか「政治とは、結局そういうもの」という諦めが、静かに根を張っていた。
だが、目の前の光景は、その諦めを少しだけ揺さぶった。
(正しそうな言葉だけじゃ、通用しないんだ。中身がちゃんとしてなきゃ、いくら『子どものため』って叫んでも、誰も動かない)
るる奈は、ふと、自分がフランスで書いたレポートのことを思い出した。
あの時、紫村と一緒に、何度も何度も資料を読み込んで、ようやく形にした内容。
あれも、ただの良い話で終わらせず、中身をきちんと詰めたからこそ、氷室に評価されたのだと、今更ながらに気づいた。
◇◇◇
「……ウチ、なんか、ちょっと分かった気がする」
「何がですか、千道先生」
氷室が、資料を片付けながら、るる奈に視線を向けた。
「正しいことを言うのって、簡単っちゃ簡単なんすよね。でも、その正しさを、ちゃんと形にするのって、めっちゃ大変なんだなって」
「……珍しく、まともなことを言いますね」
「え、それ褒めてます?」
「褒めています」
氷室は、それだけ言うと、次の資料へと視線を移した。
春日春子局長が、るる奈の肩をぽんと叩いた。
「るる奈ちゃん、成長したじゃない」
「ウチ、成長なんてしてないっすよ。ただ、ちょっとびっくりしただけで」
「そのびっくりが、大事なのよ」
るる奈は、少し照れくさそうに笑いながら、窓の外を見た。
夕暮れの永田町が、いつも通り、静かに輝いていた。
与党議員は、票と献金だけで動く物だと、るる奈はどこかで思っていた。
だが、今日見た光景は、その先入観を少しだけ、確かに塗り替えていった。
「……ウチも、いつか、ちゃんと中身のあること、言えるようになるかな」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かないまま、夕暮れの会議室に静かに溶けていった。




