第70話 【国際レセプション編】極秘資料の分厚さで、ウチ、瞬時に自分が場違いだと悟った件
「まずは、これに目を通してもらおうか」
森崎外務大臣は、笑顔のままテーブルの上に一冊の資料を静かに置いた。
表紙には、赤いスタンプで「厳秘」の文字。
「え……」
るる奈は、思わず息を呑んだ。
その資料は、これまで見てきたどんな党内資料よりも、遥かに分厚かった。
ホッチキス留めではなく、しっかりと製本された、まるで論文集のような一冊。
「フォーラムの企画概要書だ。全体のプログラム、登壇者リスト、想定される国際的な影響、それぞれのセッションでの論点整理まで、すべて記載してある」
「あ、はい……」
るる奈は、震える手で表紙をめくった。
――全体テーマ:「青い海がつなぐ未来 ~条約締結1周年を契機とした新時代の日・南国諸島協力~」
対象:国会議員、外務省・経産省官僚、財界人、大使・外交団、学者、メディア上層部。
(……財官民国際の、上級層……?)
るる奈の中で、想定していたイメージが、ガラガラと音を立てて崩れ始めた。
(ウチ、てっきり南国諸島の音楽と踊り見ながらトロピカルジュース飲んで、みんなでワイワイ盛り上がる、アゲアゲ陽キャパーティーだと思ってたんだけど……)
ページをめくるたび、その予想は無残に打ち砕かれていった。
基調講演の登壇者に、南国諸島大統領の名前。
日本側は、元首相経験者。
特別対談には、外務事務次官。
分科会には「投資保護協定」「ブルーエコノミー」「東京宣言(仮称)」といった、るる奈の知らない言葉が、びっしりと並んでいる。
「……これ、ウチが思ってたのと、全然違う……」
るる奈の声が、次第に小さくなっていった。
「そうだろうな」
森崎は、笑顔を崩さないまま静かに言った。
「フォーラムは、ただの記念パーティーではない。日本と南国諸島の、今後数十年にわたる外交関係の礎を築く極めて重要な国際会議だ。財界の投資判断、南国諸島側の政治的立場、我が国の国際的な信用――。そのすべてが、この一日にかかっている」
「……」
るる奈は、何も言えなかった。
資料に目を通すほどに、自分がいかに場違いな存在であるか、嫌というほど思い知らされていく。
「勢いと元気は、若さの特権だ」
森崎の声が、不意に少しだけトーンを変えた。
「だが、向こう見ずの無鉄砲は、時に取り返しのつかない痛手を招く。……いつぞやの、闇金スキャンダルのようにね」
その一言に、るる奈の体がビクリと震えた。
(……あ)
脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。
雑居ビルの薄暗い事務所。
冷徹な黒金の視線。
震える指先で、六百万円の借用書にサインをした、あの瞬間。
あの時も、るる奈はただ「なんとかなる」という勢いだけで、突き進んでいた。
その結果、家族を悲しませ、自分自身を地獄の淵まで追い詰めた。
(……ウチ、また、同じことしてる)
図々しさだけで押し通そうとした自分。
若林を困らせ、無理やりアポを取り、断られても引き下がらず、ここまで来た。
その結果、目の前にいるのは、日本の外交を背負う、国家の重責を担う人物だった。
(……ウチ、また迷惑かけた。ただの図々しいだけじゃない。この人たちの大事な仕事に、土足で踏み込もうとした)
その自覚が、るる奈の胸を鋭く締め付けた。
「……うっ」
喉の奥から、抑えきれない嗚咽がこみ上げてきた。
「す、すみま、せん……。ウ、ウチ、本当に何も分かってなくて……」
目の奥が、じわりと熱くなる。
膝の上で、両手がきつく握りしめられていた。
「勢いだけで、来ちゃって……。若林センセイにも、迷惑かけて……。森崎先生の、大事な、大事な仕事なのに……」
言葉が、涙とともに途切れ途切れになっていく。
(逃げ出したい……。今すぐ、この場から消えてしまいたい……)
だが、逃げることは許されない。
この状況を招いたのは、他ならぬ自分自身なのだから。
隣に座る若林は、蒼白な顔でじっと固まっていた。
(……まさか、森崎先生。わざわざ面会を許可したのは、千道先生を直々にお説教するためだったのか……)
若林の背筋に、冷たい汗が伝った。
考えてみれば、当然のことだった。
外務大臣という国家の重責を担う人物の貴重な時間を、ただの思いつきで奪おうとした新人議員。
それは、無礼千万な行為以外の何物でもなかった。
るる奈は、嗚咽を止めることすらできずにいた。
ただ、目の前が涙で滲み、ソファの上で小さく体を震わせるだけだった。
しばらくの沈黙の後、森崎がふと笑みを深めながら口を開いた。
「――だが」
その声のトーンは、先ほどまでとは微妙に違っていた。
「君は、運がいいのは、本当のようだな」
「……え!?」
るる奈は、涙で滲む目を恐る恐る上げた。
「今の私は、非常に気分がいい」
森崎は、悠然と足を組みながら続けた。
「外務大臣として、新興の友好パートナーという成果を出したのだからな。この条約は、私自身が長年をかけて練り上げた成果でもある」
「……はい」
「どうせ、財官民国際の上級社会人が集う、格式高く実務的に深いイベントには、興味もないだろう」
その言葉に、るる奈はぐっと押し黙った。
図星だった。
「だから――」
森崎は、一拍置いてから静かに続けた。
「十六時三十分から十八時までの、閉会レセプションだけ参加を許可してやろう。せいぜい、大いに楽しみたまえ」
「……えっ、え!?」
るる奈は、思わず涙が引っ込むほど驚いた。
「詳細は、後で若林君から送らせよう」
「あ、あの……。ほ、本当に、いいんですか……?」
るる奈は、必死に涙を拭いながら震える声で尋ねた。
「私は、一度出した言葉を翻す趣味はない」
森崎は、優雅な笑みを浮かべたままそう言い切った。
るる奈は、嗚咽をなんとか抑え込みながら、できる限りの笑顔を作り深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます……!」
あれだけチクチクと、そしてクドクドと説教された後だったが、最終的にレセプション参加のOKが出たという事実に、るる奈の心の中では、密かにガッツポーズが決まっていた。
(……よ、よし! 結果オーライ!参加できるなら、それでいい!)
改めて、るる奈は森崎に深く礼をし、大臣室を後にした。
扉が閉まり、るる奈の足音が遠ざかっていくのを確認すると、若林は恐る恐る森崎に向き直った。
「あ、あの、森崎先生。よろしかったのですか……?レセプションとはいえ、あの千道先生を、参加させて……」
森崎は、優雅な笑みを浮かべたまま静かに答えた。
「――何が悪い?」
「い、いえ、その……」
「世間知らずで下級市民出身の、元ニートギャルだろう」
その言葉には、隠しきれない冷ややかな響きが混じっていた。
「あの手の人間には、一度嫌というほどの場違いな空気を味わわせてやるのが、一番の教育だ。あの独特の空気に呑まれ身の程を弁えることができれば結構。 だが――」
森崎は、口の端をわずかに吊り上げた。
「もし、勘違いして調子に乗る様であれば、それはそれとして、実に面白い見世物になる。我々とは、住む世界が違う人種の滑稽さをじっくりと楽しむのも、また一興というものだ」
その言葉に込められた静かな悪意に、若林は背筋が凍りつくのを感じた。
東京大学法学部を、首席で卒業した超エリート。
複数の外国語を、ネイティブレベルで操る。
その輝かしい経歴の持ち主にとって、闇金から金を借りて運だけで当選を勝ち取ったギャル議員の存在は、心の底から苦々しいものであるに違いなかった。
(結果を出した事は認める。だが、それ以上でもそれ以下でもない……)
若林は、深く一礼すると静かに大臣室を後にした。
背後で、森崎が何かを面白がるように、小さく笑う声が聞こえた気がした。
――第一回、日・南国諸島、未来共創フォーラム。
千道るる奈の、初めての「本格的な国際外交の舞台」への参加権は、こうして、皮肉な形で手に入ることとなった。




