第66話 ライブ行けなかったけど仕事してきた、一票ってこんな大事だったんだ
臨時国会、最終日。
千道るる奈は、朝から議員会館の自室で、深いため息をついていた。
「……推しのライブ、今頃盛り上がってるんだろうなあ」
スマホの画面には、リアルタイムで更新される会場の様子。
歓声、ペンライトの海、セットリスト実況――どれも、るる奈が本来ならその場にいるはずだった状況が次々と流れてくる。
「一週間、ずっと国会に軟禁されて、結局ライブも行けず、これって何のための議員生活なの……」
拗ねきった声でぼやくるる奈のもとに、御子神が静かに入ってきた。
「先生、本日ご説明したことを覚えていらっしゃいますか?」
「え、何、何だっけ?」
「本日、参議院本会議で、行政手続デジタル迅速化法案が否決される見込みです。その直後、衆議院本会議が招集され、再可決の手続きが行われます」
「……あー、はいはい。なんかそんな話、新人研修で聞いた気がする」
「聞いた気がする、では困ります」
御子神は、手元の資料を広げながら淡々と続けた。
「衆議院で再可決を行うには、憲法の規定により、出席議員の三分の二以上の賛成が必要です。衆議院の定数は465。三分の二、つまり310議席以上の賛成が必要になります」
「へえ」
「民自党の議席数は、316です」
「おお、余裕じゃん」
「先生、そこです」
御子神が、珍しく一段声を強めた。
「316議席のうち、7議席以上が不参加、あるいは造反すれば、再可決に必要な310議席を割り込みます。つまり、先生を含む議員一人ひとりの出席と賛成が再可決の成否を左右する、極めて貴重な一票なのです」
「……ウチの一票、そんな重要だったの」
「そうです。そろそろ、自覚してください」
るる奈は、しばし黙り込んだ。
「……つまり、ウチがライブ行っちゃってサボってたら」
「再可決に、影響が出た可能性があります」
「……ウチのせいで国会ピンチとか、それはそれで嫌だ……」
そうは言いつつも、るる奈の胸の内では、まだ未練が燻っていた。
「でもさあ、たった一人くらい、いなくても……」
「……先生」
御子神の目が、すっと細くなった。
「その一人くらいが、7人集まれば、法案は成立しません」
「……分かってるって。分かってるけど、悔しいのは悔しいの!」
そうこうしているうちに、丸目が慌ただしく部屋に飛び込んできた。
「先生!衆議院、召集がかかりました!本会議場へ、移動をお願いします!」
「はいはい、行きます行きます」
るる奈は、渋々といった様子で立ち上がった。
本会議場へ向かう廊下は、いつになく緊張感に満ちていた。
議員たちが、次々と足早に議場へと吸い込まれていく。
議場に足を踏み入れる直前、御子神が最後の念押しをした。
「先生、今回は党議拘束がかかっています。賛成のボタンを押してください」
「はいはい、分かってるって」
「間違っても、ウケ狙いで反対ボタンを押すようなことは、絶対になさらないでください」
「え、そんなことしないし」
「先生の過去の言動を鑑みますと、念のため申し上げております」
「……信用ゼロじゃん、それ」
「実績によるものです」
「その理屈、前にも聞いた気がする」
「何度でも申し上げます。反対ボタンを押せば、確実に処罰の対象になります。除名、あるいは離党勧告。先生の議員生命に関わります」
御子神の声は、いつになく真剣だった。
その圧に、るる奈は思わず背筋を伸ばした。
「……分かった。ちゃんと、賛成、押すっしょ」
議場に入り、自分の席に着いたるる奈は、投票の時が来ると、緊張した面持ちでボタンの前に指を構えた。
(賛成、賛成のボタン……。間違えたら、マジで終わる……)
普段の適当さが嘘のように、るる奈は真剣な表情で、慎重に賛成のボタンを押し込んだ。
電光掲示板に、賛成多数を示す数字が灯る。
「――ただいまの投票の結果、出席議員316、賛成316、反対0。よって、本案は再可決されました」
議場に、ざわめきとも安堵ともつかない空気が流れた。
るる奈は、詰めていた息をふうっと吐き出した。
「……よかった、ちゃんと押せた」
自分の席で、小さくガッツポーズを決める。
議場を出たところで、御子神が待っていた。
「お疲れ様でした、先生。無事、賛成票を投じていただけました」
「褒めて」
「褒めています」
「その言い方、絶対棒読みじゃん」
るる奈は口を尖らせながらも、どこか達成感のある顔で廊下を歩き始めた。
「……でもさ、御子神さん」
「なんでしょう」
「今日の、ウチの一票、ちゃんと意味あったんだよね?」
「はい。先生の一票も含めて、310議席以上を確保できました」
「……それだけは、ちょっと誇っていい?」
「もちろん、誇ってください」
るる奈は、満足げに小さく笑った。
推しのライブには行けなかったけれど、代わりに、憲法に定められた重い一票を確かに投じた一日だった。




