第65話 ウチ、今更だけど秘書には恵まれてたっぽい、感謝感謝
深夜十一時、議員会館の自室。
るる奈は、両腕を前に伸ばしたまま、机に身体を預けた。
もう、起き上がる気力すら残っていない様子だった。
「……もう無理ポ。 帰るの、めんどくさすぎる」
「先生、本日の予定は、これで全て終了です。あとは、ご帰宅いただくだけですが」
御子神が、静かに書類を片付けながら言った。
「だから、それがめんどくさいんだって」
るる奈は、突っ伏したまま、くぐもった声で答えた。
「家帰って、風呂入って寝て、また朝起きて出てくるとか、往復の時間がもったいなさすぎる。ねえ、いっそのこと、議員会館に泊まっちゃダメ?」
「……先生」
御子神の声のトーンが、わずかに低くなった。
「議員会館は、宿泊施設ではありません」
「えー、でもさ、たまに徹夜とかで、朝まで議員会館に残ってる人いるって聞いたことあるんだけど」
「それは、あくまで緊急時の例外です」
御子神が、きっぱりと言った。
「予算委員会の徹夜審議や、深夜までの重要法案採決など、業務上やむを得ない場合に限り、仮眠室での短時間の休憩が黙認されているだけです。それも、あくまで『業務の延長線上』としての、限定的な措置です」
「じゃあ、ウチが『めんどくさいから泊まりたい』っていうのは?」
「論外です」
「即答!?」
「議員会館の使用規則にも反しますし、何より、セキュリティ上の問題もあります。深夜の議員会館に、私的な理由で寝泊まりする議員がいると分かれば、それだけで問題になります」
「うっ……。マジで正論すぎて、なんも言い返せないっしょ。 じゃあ、どうすればいいの?ウチ、毎回家帰るの、地味にキツいんだけど」
その様子を見かねたのか、丸目が、控えめに口を挟んだ。
「先生。でしたら、議員宿舎という選択肢もありますよ」
「議員宿舎?」
「はい。国会議員向けに、都内に用意されている宿舎です。議員会館からも近く、通勤の負担がかなり軽減されます」
「え、それいいじゃん!ウチ、そこに住めばよくない?」
るる奈の目が、パッと輝いた。
「防音とか、セキュリティもしっかりしてるんだよね?」
「はい、その点は問題ありません。ただし」
丸目が、少し言いにくそうに続けた。
「家賃や管理費、光熱費などは、当然ながら先生ご自身の負担になります。相場としては、決して安くはありません」
「……あ、そうなんだ」
るる奈のテンションが、少しだけ下がった。
「まあ、それでも、家賃払ってでも通勤楽になるなら、アリかも……。ウチ、今、歳費もそこそこもらえてるし」
るる奈が、前向きに検討し始めたその時だった。
「先生」
竹中が、決定的な一言を放った。
「そもそも、議員宿舎は、地方選出で東京に自宅を持たない議員のための施設です」
「……え?」
「先生は、東京二十三区内のご実家に、お住まいですよね」
「あ……」
「その条件では、そもそも議員宿舎の入居対象になりません」
「……え、待って」
るる奈は、ゆっくりと体を起こした。
「じゃあ、ウチ、議員会館にも泊まれない、議員宿舎にも住めない、ってこと?」
「その通りです」
「……マジで!?」
るる奈は、両手で顔を覆い、今後はソファーの上に崩れ落ちた。
「ウチ、結局なんの選択肢もないってこと!?議員なのに!?」
「地方から出てきた議員のための制度ですので」
「そんな……慈悲も無い」
「都内である以上、対象外です」
「うわあああああ、ショック!!」
るる奈は、クッションに顔を埋めて、盛大に転げ回った。
「ウチ、国会議員なのに、家帰るのめんどくさいって言っただけで、選択肢が一個も残ってないの、ひどくない!?」
「制度とは、そういうものです」
御子神が、淡々と答えた。
しばらく、るる奈の悲鳴混じりの抗議が続いたが、やがて丸目が少し申し訳なさそうに口を開いた。
「先生、その代わりと言ってはなんですが」
「……なに」
「私たち三人で、できる限り業務を早めに切り上げて、車での送り迎えを続けます。今まで通り、いえ、今まで以上に、先生の帰宅の負担が減るように努力はいたします」
「……え」
「先生一人で電車を乗り継いで帰るより、車で送迎した方が、時間的にも安全面でも良いはずです。もちろん、業務に支障が出ない範囲で、ですが」
るる奈は、クッションから顔を上げた。
「……それ、今までもやってくれてたよね?」
「はい。ですが、改めて意識して、努力いたします」
「……」
るる奈は、しばらく黙り込んでいた。
そして、ふと、あることに気づいたように姿勢を正した。
「……ねえ、ちょっと待って」
「なんでしょうか?」
「よく考えたら、ウチ、めちゃくちゃ恵まれてない」
「と、言いますと」
「だって、御子神さんも丸目さんも竹中さんも、毎回毎回、朝から晩までウチに付き合ってくれてさ。会議にも同席してくれるし、資料も作ってくれるし、こうやって送り迎えまでしてくれてさ」
るる奈は、三人の顔を順番に見つめた。
「ウチ、闇金から助けてもらった時から、ずっとお世話になりっぱなしじゃん。部会もPTも本会議も、議員会館の説明も、政治活動費の管理も、ずっと三人がいてくれたから、なんとかやってこれたわけで」
三人は、少し驚いたような顔で、るる奈を見つめた。
「……先生」
「なんか、今更だけど、ちゃんと言っとく」
るる奈は、少し照れくさそうに、されどまっすぐに三人を見た。
「いつも、ありがとうございます。ウチ、一人だったら絶対にここまでやってこれなかったし、多分、とっくにどっかで詰んでたと思う」
部屋の中に、しばしの静寂が流れた。
御子神が、珍しく、わずかに目を細めた。
「……先生からそのようなお言葉をいただけるとは、思いませんでした」
「え、なんかそれ、ウチが普段感謝してないみたいな言い方じゃん」
「概ね、その通りでしたので」
「ひどっ!」
丸目が、思わず小さく笑った。
「先生のそのお言葉だけで、今日の疲れが、少し吹き飛びました」
「さすがに、それは大袈裟だって」
竹中も、眼鏡を拭きながら穏やかに微笑んだ。
「先生が、そうやって素直に感謝を口にできるようになったこと自体、成長の証だと思いますよ」
「……なんか、今日、やたら褒められる日みたいっしょ」
るる奈は、照れ隠しのように頬を掻いた。
「じゃあ、まあ、これからも、よろしくお願いします。御子神さん、丸目さん、竹中さん」
「もちろんです」
「では、先生。早速、お送りいたします」
丸目が、車のキーを手に取りながら、優しく微笑んだ。
るる奈は、資料をまとめてバッグに詰め込みながら、小さく伸びをした。
(……議員会館にも泊まれない、宿舎にも住めない。でも、送り迎えしてくれる秘書が三人もいる)
るる奈は、部屋の明かりを消しながら、ぽつりと呟いた。
「まあ、これはこれで、悪くないかもね。感謝感謝」
深夜の議員会館を、四人は静かに後にした。
外に出ると、涼しい夜風が、るる奈の銀髪を優しく揺らした。




