第46話 【フランス研修編】エッフェル塔ではしゃいでたら、帰りの飛行機までレポート漬けだったんですけど!?
フランス研修、最終日の朝は、これまでで一番過酷だった。
氷室班は、春日局長班より一時間も早くホテルをチェックアウトし、涙が出るほど詰め込まれた午前スケジュールへと突入した。
教育省での意見交換、パリ郊外の家族支援センター視察、地域の保育施設訪問――。
合間の移動時間すら、氷室は容赦なく資料の続きを読ませた。
「千道さん、次の視察先の要点は」
「え、えっと……地域の、子育て世帯への、包括支援……」
「概ね合っています。次」
るる奈は落第スレスレのラインを、根性と気合いだけで踏みとどまっていた。
頭の中はとっくにパンク寸前だったが、「ここで脱落したら紫村さんに申し訳ない」という、謎の生真面目精神だけが、彼女を支えていた。
そうして迎えた正午過ぎ。すべての視察日程が終わった瞬間、るる奈は魂が抜けたような顔でハイヤーの座席に沈み込んだ。
「終わった……。マジで、終わった……」
「お疲れ様でした、先生」
紫村がねぎらうように微笑む。
だが、るる奈にはまだやることがあった。
「紫村さん、お願いがあります」
「なんでしょう?」
「エッフェル塔、行きたいです。ちゃんと、近くで」
「……ランチは、ホテルでご予約が」
「キャンセルでお願いします! 今日を逃したら、もう二度と来れないかもしれないので!」
その必死さに、紫村はふっと笑い、スマホでレストランの予約変更を手早く済ませた。
「では、エッフェル塔の近くで、軽くランチにしましょう」
「ありがとうございます……!」
シャン・ド・マルス公園近くの小さなカフェで、るる奈はクロックムッシュを頬張りながら、窓の外にそびえる鉄塔を、これでもかというくらい見つめ続けた。
食後、いよいよ塔の真下まで歩いていく。
見上げた瞬間、るる奈は言葉を失った。
「……でか。テレビの何倍でか」
「確かに、近くで見ると、迫力が違いますね」
るる奈は、スマホを紫村に手渡した。
「紫村さん、撮ってください! 思いっきり映える感じで!」
「かしこまりました」
塔を背に、るる奈は満面の笑みで完璧なギャルピースを決めた。
カシャ、とシャッター音が響く。
画面を確認したるる奈は、しばらく無言だった。
「……来てよかった」
その一言に、三日間の疲労も、資料の山も、氷室の厳しい視線も、すべてが少しだけ報われた気がした。
シャルル・ド・ゴール空港のビジネスクラスラウンジで、るる奈はもうすっかり「勝手を知った顔」で寛いでいた。
「ここのソファ、やっぱ最高だわ……」
だが、その余韻は長くは続かなかった。
「先生、そろそろレポート作成に取り掛かりましょう」
紫村がタブレットとノートを差し出す。
「え、まだフライトまで時間あるのに!?」
「氷室先生からのご指示です。『千道さんは期限ギリギリまで提出しない可能性が高いので、今のうちに最低でも八割は仕上げさせるように』とのことです」
「信用ゼロじゃん……」
「実績によるものかと」
「否定できないのがつらい……」
遠くのソファでは、春日局長一行が軽食を囲みながら、楽しげな笑い声を響かせている。「あら、これ美味しいわね」「もう一杯頼みましょうか」という呑気な声が、るる奈の耳にやけに刺さった。
(あっちは茶話会で、ウチはレポート……。世界って、不公平だ……)
それでも紫村は、容赦なく資料を開いた。
「先生、今回学んだフランスの家族支援政策について、まずは箇条書きで結構ですので書き出してみましょう」
「……はい」
「なお、私のサポートは明日の機内までです。到着後は、氷室先生の私設秘書としての業務に戻りますので、できる限りここで仕上げてしまいましょう」
「そんな、切ないこと言わないで……!」
るる奈は渋々ペンを取った。
搭乗後も、機内食の時間以外はひたすらレポートと向き合わされ、消灯のアナウンスが流れる寸前まで、るる奈のフルフラットシートは「執筆デスク」と化していた。
「紫村さん、あと少しで寝落ちしそう……」
「あと少しで完成です、頑張りましょう」
窓の外は、真っ暗な夜空だけが広がっていた。
こうして、るる奈の人生初のフランス研修は、最後の最後までレポートに追われながら、静かに幕を閉じようとしていた。




