第44話 【フランス研修編】フランス研修、想像の百倍ハードなんだけど……
パリの朝は、るる奈にとって「まだ夜」だった。
「……せんせ……起きてください……」
紫村の声が、夢の向こうから微かに聞こえる るる奈は普段のマットレスとは程遠い、極上の柔らかいベッドの上で、布団を頭までかぶって唸った。
「んん……あと五分……いや五時間……」
「五時二十分です。六時にはレストランへ向かいます」
「ろ、ろくじ……? まだ、眠い……?」
「そろそろ、起きてくださいませ。千道先生」
紫村の声には、微塵の揺らぎもなかった。
プロの秘書は、朝からも完璧だった。
るる奈は、のそのそと体を起こし、カーテンの隙間から漏れる薄明るい光に目を細めた。
窓の外、パリの街はまだ眠りの余韻を残しているように静かだった。
「……エッフェル塔、まだ寝てそう」
「起きているかどうかは分かりかねますが、先生は起きてください」
「塔より人間の方が、過酷な扱い受けてるじゃん」
洗面を済ませ、なんとか身支度を整えたるる奈は、紫村に連れられてホテル内レストランへと降りた。
朝から並ぶのは、焼きたてのクロワッサン、湯気の立つカフェオレ、色とりどりのフルーツ、そして卵料理。給仕のスタッフが、静かに、しかし丁寧に一皿ずつ説明してくれる。
るる奈がクロワッサンにかぶりつき、バターの香りに目を細めていると、向かいの席に氷室レイが音もなく腰を下ろした。
今日もグレーのスーツに、一分の隙もない髪型。眠気の欠片も見当たらない。
「千道さん。おはようございます」
「お、おはようございます……氷室センセイ、なんか今日も涼しい顔してますね……」
「毎朝この時間に起きています。慣れの問題です」
「慣れって怖……」
氷室は手元のタブレットを操作しながら、るる奈に視線を向けた。
「本日の行程を説明します。七時半に出発、国民議会にて意見交換会。その後CAF——家族手当公庫の視察。昼食を挟み、午後は子ども支援施設と家族省でのヒアリングです」
「え、それ一日で全部……?」
「はい、もちろんです」
「春日局長のとこは、何時起きなんですか?」
「八時と伺っています」
「二時間差ある……! ウチらの班、ブラック企業じゃん……!」
「政策研修です」
氷室は表情ひとつ変えずに言い切ると、紫村に目配せをした。
紫村が、あらかじめ用意していたらしいクリアファイルの束を、そっとテーブルの上に滑らせた。
「本日訪問する各施設の概要資料です。移動中にお目通しください」
るる奈はクリアファイルを手に取り、中身をぱらぱらとめくった。
フランス語混じりのグラフ、制度比較表、専門用語の羅列。
その瞬間、るる奈の顔から表情という表情が消えた。
「……紫村さん」
「はい」
「これ、朝ごはん食べ終わってから見ても、いいですか」
「もちろんです。ただし、七時半にはハイヤーが参ります」
「……あと一時間しかないってこと?」
「はい」
るる奈はクロワッサンを咀嚼しながら、資料の分厚さと自分の残り時間を天秤にかけ、静かに遠い目をした。
窓の外では、パリの朝がゆっくりと目を覚まし始めている。
(人生初の海外研修、二日目。朝六時起床、資料の束、そして氷室センセイの涼しい顔。……これ、修学旅行どころか合宿じゃん)
るる奈はカフェオレを一口飲み、小さくため息をついた。
それでも、窓の外に見える石造りの街並みは、紛れもなくパリだった。




