第42話 【フランス研修編】パリのホテルが異世界すぎてワロタwww ていうか、エッフェル塔がベランダから見えるとか良い意味で聞いてないし
五つ星ホテルのロビーは、るる奈の人生で踏み込んだことのある空間の中で、ダントツで格が違った。
吹き抜けの天井には、シャンデリアがいくつもぶら下がっている。
床は大理石で、靴のヒールが当たるたびに上品な音がする。
壁には額縁に入った絵画。カウンターの向こうでは、完璧な笑顔のスタッフが数人、静かに立っている。
「……ここ、美術館じゃなくてホテル?」
「ホテルです」
紫村がチェックインの手続きを進めながら、静かに答えた。
エレベーターも、内側が鏡張りで金色の装飾が施されていた。
るる奈は自分の顔が何重にも映り込むのを見て、思わず自撮りのポーズを取りかけて、やめた。
そして、案内された部屋のドアを開けた瞬間、るる奈の語彙力が完全に消滅した。
「……」
天井が高い。ベッドが大きい。カーテンが床まで届いている。ソファがある。デスクがある。バスルームを覗いたら、バスタブとシャワーブースが別々にあった。洗面台には小さなアメニティが整然と並んでいる。
「ウチ、今どこにいるの……?」
「パリのホテルです、先生」
「ホテルって、こんな感じなの……?」
突然、紫村が申し訳なさそうに口を開いた。
「あの、千道先生。部屋の件でご説明があるのですが」
「はい?」
「今回は私と先生、ツインのお部屋でご一緒させていただくことになっています。本来であれば先生お一人のお部屋をご用意すべきなのですが、スケジュールの都合上……」
「全然いい! むしろ助かる!!」
るる奈は、満面の笑みで即答した。
「ウチ、ホテル自体が人生で初めてなんで、一人だったら絶対なんかやらかしてた。一緒にいてくれると超安心っす。マジで神っす、紫村さん!」
紫村の表情が、ほっと緩んだ。
「……ありがとうございます。では、遠慮なくご一緒させていただきます」
その時、廊下からノックの音がした。
ドアを開けると、春日局長が取り巻き一行を連れて立っていた。
「千道さん、お部屋はどう? 素敵でしょ」
「めちゃくちゃ素敵です!」
「そうよねえ。ここ、あたしのお気に入りのホテルなのよ。ねえ、明日からの視察、一緒に行きましょうよ。パリの女性センターとか、マルシェも寄りましょ、ランチも予約してあるし」
春日局長の声は明るく、温かく、そして微妙に「ウチがエスコートしてあげる田舎の子」感があった。
るる奈は曖昧に笑った。確かにフランスに来られたのは春日局長のおかげだ。無下にはできない。
その時、紫村が静かに、かつ明確に割り込んだ。
「千道先生は、氷室班のスケジュールに同行していただく予定になっておりますので、春日班とは行程が異なります」
春日局長の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……そう。氷室先生が、そう決めたのね」
「はい。子ども支援政策の視察枠を別途手配していただいておりますので」
「まあ、だったら仕方ないわね」
春日局長はすぐに表情を戻したが、その「仕方ない」の言葉には、かすかな棘が混じっていた。
「千道さん、せっかくパリに来たんだから、ちゃんとお勉強してきなさいね。それが一番大事よ」
るる奈を見下ろすような、柔らかい笑顔だった。
「はい、頑張ります」
一行が廊下の向こうへ消えていくのを見送り、るる奈はドアを閉めた。
紫村がそっと説明した。
「千道先生、少しご説明しておきます」
「うん」
「氷室先生が女性局に入局される前は、海外研修の視察内容は春日局長の意向が第一でした。視察先の選定も、スケジュールも」
「……それって、どういうことですか?」
「視察の名目でパリに来て、実質的には観光と会食が中心、という事が続いていたそうです。それを、氷室先生が変えようとして、今回は相当揉めたと聞いています。最終的に、氷室班と春日班の二組で別行動、ということで落ち着いたんです」
るる奈は少しの間、黙った。
(なるほど。だから氷室先生と春日局長との空気が微妙なんだ……)
「……氷室先生って、色々大変だったんだなあ」
「そうだと思います」
紫村が、静かに頷いた。
るる奈はふと、窓の方に目をやった。
分厚いカーテンが引かれたままだ。
(そういえば、ベランダがあるって書いてあった……)
カーテンを引いた瞬間、るる奈は動けなくなった。
パリの夕暮れが、窓いっぱいに広がっていた。
オレンジと紫が混じり合う空。石造りの街並みが、光の中に溶けていく。セーヌ川の向こうに、建物の輪郭が重なり合う。
そして、その全てを見下ろすように、エッフェル塔が、夕暮れの空にそびえていた。
「……」
るる奈は、おもわずベランダのドアを開け、外に出た。
夜風がふわりと銀髪を揺らした。
エッフェル塔は、バスから見た時よりもずっと近く、ずっと大きく見えた。頂上がうっすらとオレンジ色の空に溶け込んでいる。
(ウチ、本当にパリにいる……)
供託金六百万円を闇金から借りた日のことを、ふと思い出した。
あの雑居ビルの薄暗い空気と、黒金の冷たい目線と、震えが止まらなかった指先。
あの夜から、一年も経っていない。
なのに今、パリのホテルのベランダから、エッフェル塔を見ている。
「先生、夕食まで少し時間があります」
紫村の声が、背後から聞こえた。
「……うん」
るる奈はベランダの手すりに両手をかけたまま、エッフェル塔を見続けた。
「人生って、マジでバグってる」
その言葉だけが、パリの夕暮れの風の中に、静かに溶けていった。




