第41話 【フランス研修編】初フランス、全部ガチで本物だった件。ていうか、人生逆転しすぎて現実感ゼロなんだけど……
結論から言うと、るる奈はビジネスクラスの機内エンターテイメントを、一秒も楽しめなかった。
大型モニターには映画、ドラマ、音楽、ゲームが揃っていた。
軽食メニューは何度でも頼める。フルフラットシートはベッドになる。全部揃っていた。全部、指の届く範囲にあった。
なのに、紫村が隣で資料をめくるたびに、るる奈の手も一緒にページをめくっていた。
『フランスの家族手当制度における所得制限の変遷』
『子ども食堂に相当するフランスの地域支援モデルの比較研究』
『欧州における相対的貧困率の国際比較と政策的含意』
「紫村さん、『含意』って何ですか」
「意味合い、ということです」
「じゃあ最初から『意味合い』って書いてほしいんですけど」
「先生、次のページへ」
フランス研修用の資料は、読めば読むほど次の疑問を生んだ。
紫村は丁寧に、粘り強く、一行ずつ解説してくれた。
おかげで内容は少しずつ頭に入ったが、脳みそが悲鳴を上げた。
そして、気づいたら眠っていた。
フルフラットシートに倒れたのか、倒されたのか、記憶がない。
ただ、資料を胸に抱えたまま、十二時間フライトの後半をほぼ完全に爆睡した。
だが、ディナーだけは、しっかり堪能した。
前菜のスモークサーモン、牛フィレ肉のロティ、濃厚なスープ、そしてデザートのクレームブリュレ。
それだけは現実として口の中に残っていた。
「おいしかった……」
それがるる奈の、初めてのビジネスクラスの総括だった。
シャルル・ド・ゴール空港に降り立った瞬間、るる奈は空気が違うことに気づいた。
湿度が低い。光の色が柔らかい。案内板のフランス語が、テレビで見たそれと完全に一致している。
(……ウチ、本当にフランスに来たんだ)
入国審査を終え、荷物を受け取って到着ロビーへ出ると、スーツ姿の男性が「民自党女性局御一行様」と書いたプレートを掲げて待っていた。旅行会社の担当者だろう。
男性は一行を見つけた瞬間、真っ直ぐに春日局長のもとへ歩み寄った。
「春日先生! お疲れ様でございました! お顔の色がお変わりなくて、安心いたしました!」
「あら、田村さん! また会いましたねえ、元気だった?」
春日局長は満面の笑みで手を差し出した。
田村と呼ばれた担当者は、腰を深々と折りながら「先生にまたご一緒できて光栄です」と言った。
その動作は完璧で、長年の付き合いが透けて見えた。
取り巻きの議員たちも次々と田村に挨拶を交わし、慣れた足取りで大型バスへと向かっていく。
るる奈は紫村と並んで、最後にバスに乗り込んだ。
バスが空港を出た瞬間から、窓の外の景色が変わり始めた。
石造りの建物。街路樹の並木。日本とは全く異なる、くすんだ金色の街の色。信号機の形まで違う。
(……フランスだ。本当に、フランスだ)
るる奈は窓に額をくっつけながら、流れていく景色を黙って眺めた。
機内で読んだ資料の文字が、目の前の風景と少しずつ重なっていく。
ここで子どもたちが育ち、家族政策が動いている。
セーヌ川が見えた。
夕暮れ時の光を受けて、川面が静かに光っている。
橋の上を人々が歩き、観光船がゆっくりと進んでいく。
(きれい……)
るる奈はその言葉を声に出さなかった。出す必要がないほど、ただそのままが美しかった。
そしてバスがカーブを曲がった瞬間、視界の端に鉄の塔が現れた。
「あっ!!」
おもわず、声が出た。
エッフェル塔は、テレビで見るより遥かに大きく、そして本物だった。
夕空を背景に、無数の鉄骨が交差してそびえ立っている。
「本物だ……エッフェル塔、本物……!」
周囲のベテラン議員たちが、一斉に「お登りさんを生暖かく見守る大人の視線」をるる奈に向けた。
「あらあら」「まあ初めてだものねえ」という空気が、バス全体にそっと漂った。
だが、るる奈は気にしなかった。本物のエッフェル塔が目の前にあった。それだけで十分だった。
バスが止まったのは、オスマン様式の重厚な建物の前だった。
正面玄関には制服姿のドアマンが二人、ゴールドのロゴが入った重厚な回転扉、天井まで届くガラス窓から漏れる、暖かな光。
「……五つ星ホテルって、こういうこと……?」
あまりの豪華さに身動きできないるる奈に、紫村が静かに頷く。
「パリの老舗グランドホテルです」
「ウチ、入っていいの?」
「もちろんです」
「本当に?」
「先生」
「はい」
「早く中へ」
ベテラン議員たちは既に当然のように回転扉をくぐり、ロビーへと消えていた。
春日局長は先頭でスタッフと談笑しながら、チェックインカウンターへと歩いている。
慣れた、余裕のある動作だった。
るる奈はまだひとりで、ホテルの正面で立ち尽くしていた。
供託金六百万円を闇金から借りた元プロニートのギャルが、パリの五つ星ホテルの前に立っている。
現実感は、まったくなかった。
(人生って、ほんとバグってる)
紫村にそっと背中を押され、るる奈は恐る恐る回転扉に手をかけた。
千道るる奈のパリ一日目は、場違いという言葉では到底追いつかない場所で、静かに幕を開けた。




