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第40話 【フランス研修編】空飛ぶホテル最高!……って思ったら、ウチだけ自主勉なんだけど!?

 ラウンジに搭乗案内のアナウンスが流れた瞬間、るる奈は食べかけのクロワッサンを名残惜しそうにトレイに置いた。


「新日本国際航空、パリ行き……ビジネスクラスのお客様は優先搭乗をご案内いたします」


「先生、参りましょう」


 紫村が静かに立ち上がる。春日局長一行も、慣れた動作でバッグを手に取り、おしゃべりを続けながらゆったりと立ち上がった。

 何もかもが、彼女たちにとって日常の延長線上にある動作だった。


 搭乗口では、一般乗客の長い列を横目に、優先レーンをすいすいと通過する。

 地上スタッフにパスポートと搭乗券を差し出すと、満面の笑顔で「いってらっしゃいませ」と送り出された。


 ボーディングブリッジを歩きながら、るる奈は小さく深呼吸した。


(これを渡ったら、飛行機……。飛行機、初めて乗る……)


 機内の入口で、客室乗務員が出迎えた。


「いらっしゃいませ。お席までご案内いたします」


 カーテンをくぐった瞬間、るる奈の足が止まった。


「……え」


 そこは、るる奈が想像していた「飛行機の中」とは、完全に別の空間だった。


 横一列に並んだシートは、それぞれが仕切りで区切られた半個室になっている。

 シートは広く本革張りで、まるでどこかの高級ホテルのソファを切り取ってきたような質感だ。

 前方にはタッチパネルの大型モニター。サイドテーブルには間接照明まである。


「……半個室……? 飛行機に、個室……?」


「こちらがお席です」


 客室乗務員に案内された自分のシートに座ると、体がふわりと沈み込んだ。


「ふかっ……! なにこれ、ソファじゃん……!」


「フルフラットになりますので、ベッドとしてもお使いいただけます」


「フルフラット!? ベッド!? 飛行機の中でベッドで寝られるの!?」


「はい。長距離フライトですので」


「神じゃん……! ていうか、フルフラットって、こうやって……」


 るる奈がシートを操作しようとした瞬間、客室乗務員がにこやかに制止した。


「離陸後にご案内いたします。まずは、ウェルカムドリンクをどうぞ」


 差し出されたのは、シャンパングラスに注がれた琥珀色の液体だった。


「これ……シャンパン? 朝から?」


「……ジュースもございますが」


「いや、せっかくだし……! いただきます!」


 客室乗務員に手荷物を収納してもらいながら、るる奈は機内食メニューを手渡された。

 それを開いて、また表情が固まった。


 前菜、スープ、メインコース、デザート。和食コースと洋食コースが選べる。メインは牛フィレ肉のロティか、オマール海老か。


「……これ、レストランじゃん。ウチ今、空の上のレストランにいるじゃん……!」


「先生、少し声が」


 紫村がそっと耳打ちする。るる奈は口を手で覆い、「すみません」と周囲を見回した。


 ――その時だった。


「千道先生」


 低く、澄んだ声。

 通路の向こうから、氷室レイが颯爽と歩いてきた。

 今日はネイビーのジャケットに、移動用のやや柔らかめのパンツスタイル。

 それでも背筋は完璧に伸び、客室乗務員たちが自然と道を空けている。


「楽しんでいるのは結構ですが、周囲のお客様へのご配慮を」


「す、すみません……」


「それから」


 氷室はるる奈の斜め向かいのシートに腰を下ろし、正面からるる奈を見た。


「改めて確認させてください。今回の研修テーマは女性政策と少子化対策が中心です。ただし」


 氷室は一拍置いた。


「あなたが子どもの貧困問題に関心を持ち始めていることは、把握しています。子ども食堂の件も、官僚へのレクも、あなたなりに動いていたことは知っています」


 るる奈は少し驚いた。氷室レイが、自分のことをそこまで見ていたとは思っていなかった。


「フランスは子どもの貧困対策においても、先進的な取り組みをしている国です。今回、あなたには子ども支援政策に絡んだ視察枠を別途手配しました。せっかくのフランス研修ですので、あなたが本当に関心を持てるテーマを学びなさい」


「……氷室センセイ、それって」


「ただし」


 氷室はバッグから、A4サイズの資料の束を取り出した。


「事前に理解しておくこと。現地でのヒアリングは、基礎知識なしでは意味をなしません。紫村がサポートします。食事と休憩と睡眠以外の時間は、この資料の読み込みに充てなさい。いいですね」


「……え、今から? 飛行機の中で?」


「パリまで約十二時間あります。十分です」


 氷室はそれだけ言うと、自分のシートへと戻っていった。


 るる奈は資料の束を両手で持ち、重さを確かめた。


(重っ……。内容も重そう……)


 ちらりと前方を見ると、春日局長一行のシートから、笑い声が漏れ聞こえてくる。

 大型モニターで映画を選んでいるらしく、「あら、これ面白そうよね」「軽食も頼みましょうよ」と楽しそうな声が続いた。


 るる奈の胸の奥で、何かが切実に叫んだ。


(ウチも映画見たい……。軽食食べながら……ドラマ一気見したい……。このフルフラットシートで……)


「先生、最初のページからご一緒に読みましょう」


 紫村が隣に座り、静かに資料を開いた。

 るる奈は後ろ髪を、春日局長のシートの方向に全力で後ろ髪を引かれながら、観念したように資料の一ページ目に目を落とした。


『フランスにおける子どもの相対的貧困率の推移と、家族手当制度の変遷について』


「……漢字が多い……」


「大丈夫です、一緒に読みます」


「紫村さん、あとで映画、見る時間ある……?」


「研修が全て終わった後であれば」


「……やっぱ研修か」


 窓の外、滑走路がゆっくりと動き始めた。


 千道るる奈の、人生初の海外フライトは、フルフラットシートと大量の資料と、遠くから聞こえる春日局長の笑い声とともに、静かに幕を開けた。

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