第39話 【フランス研修編】初めての空港デビューがビジネスクラスって、ある意味異世界転移みたいっしょ!?
早朝、成田空港は既に人の波に溢れていた。
千道るる奈は、レンタルのスーツケースをガラガラと引きながら、巨大な出発ロビーを見上げた。
「……でっか」
生まれて初めて来た国際空港。天井は高く、案内板は日本語と英語とが並び、世界中の航空会社のロゴが視界に飛び込んでくる。
行き交う人々の半分は外国人で、るる奈は早くも自分が別の惑星に迷い込んだような感覚に陥った。
そんなるる奈の隣で、丸目が穏やかに微笑んだ。
るる奈の3泊5日のフランス研修に合わせて御子神、丸目、竹中の3人の秘書も5日分の休暇を取っていたが、丸目は自主的に自家用車で、るる奈を成田空港まで送っていた。
「それでは先生、お気をつけて。研修で何かしら、得られるものがあるといいですね。……心から、祈っています」
「丸目さん、休暇なのに成田空港まで送ってくれて、本当にありがとう」
「いえいえ、お気になさらず。私はこのままドライブで遠出の温泉旅行に行く予定ですので」
「え、いいな! ウチも行きたい!」
「先生はパリに行くんです。では、行ってらっしゃいませ」
丸目はにこりと笑い、駐車場へと歩いていった。その背中は、紛れもなく「解放された男」の背中だった。
るる奈は一人、広大なロビーに取り残された。
(さて。新日本国際航空の受付は……どこ……?)
案内板を見上げるが、航空会社のロゴが多すぎて頭がパンクしそうになった。とりあえず近くにいた案内係の女性に「すいません。新日本国際航空ってどこですか?」と聞いた瞬間、背後から声がかかった。
「失礼します。千道るる奈先生ですね?」
振り返ると、三十代後半と思しき女性が立っていた。
ネイビーのジャケットをきっちりと着こなし、髪は綺麗にまとめられている。
柔らかな笑顔の奥に、仕事ができる人間特有の静かな鋭さが光っていた。
「紫村紫音と申します。氷室レイ先生の私設秘書です。今回の研修、サポート全般を担当させていただきます。どうぞよろしくお願いします」
「え、氷室センセイの秘書さん!? マジで助かります!!」
「お任せください。まずチェックインから参りましょう」
紫村に連れられてたどり着いたのは、一般のチェックインカウンターの列ではなかった。
ガラスで仕切られた、別世界のような空間。『BUSINESS CLASS』のプレートが静かに輝いている。
「え、ここ……ウチも入っていいの?エコノミーって、聞いていたけど……」
「先生をエコノミーに乗せる訳にはいきません。運良く、席は確保できました。では、参りましょう」
カウンターの中の地上スタッフが、にこやかに迎えてくれた。
紫村から搭乗券を受け取り、スーツケースをスタッフ預ける。わずか数分で手続きが終わった。
「え、もう終わり? なんか、超スムーズじゃん……!」
「ビジネスクラスのカウンターはこういうものです」
次は保安検査。紫村が「こちらです」と示した先には、一般レーンとは別の、ガラガラに空いた優先レーンがあった。
「え、並ばなくていいの!?」
「優先レーンです」
「神じゃん……!」
手持ちの荷物をトレイに乗せ、ゲートをくぐる。ルーティンをこなすように淡々と進む紫村の横で、るる奈は逐一感動しながらついていった。
出国審査では、自動化ゲートへ案内された。パスポートをかざして顔認証するだけで、あっさりと通過する。
「え、人と話さなくていいの!?」
「自動化ゲートです」
「ウチ、なんか緊張してたのに拍子抜けじゃん……」
保安検査から出国審査まで、合計十五分。るる奈はその間に五回感動し、三回驚き、一回「マジか」と声に出した。
紫村はその度に静かに微笑んだ。おそらく氷室レイの秘書として、もっと色々な場面をくぐり抜けてきた人なのだろう。
るる奈の反応など、微笑ましい範疇に収まっているようだった。
搭乗まで一時間以上ある。紫村に連れていかれた先には、木目調の落ち着いた空間が広がっていた。
「……え」
るる奈は入口で固まった。
新日本国際航空のビジネスクラスラウンジ。
清潔感あふれる広い室内。ゆったりとしたソファ、整然と並んだ食事コーナー、ずらりと揃った飲み物のサーバー。窓の外には滑走路が広がり、大きな飛行機がゆっくりと動いている。
「朝食をお取りいただけます。シャワー室もご利用可能です」
「シャ、シャワー!? 空港にシャワーがあるの!?」
「ラウンジですので」
るる奈のテンションが、静かに、確実に、天井を突き破り始めた。
朝食コーナーには和食も洋食も揃っていた。クロワッサン、スクランブルエッグ、サーモン、フルーツ。飲み物はコーヒー、紅茶に加え、ジュースが何種類も並んでいる。
(これ……全部食べていいやつ? 無料で? 実質タダ?)
るる奈がトレイを手に取り、目を輝かせながら食事を選んでいると、ラウンジの奥から聞き覚えのある笑い声が響いてきた。
「あら、千道先生! 来てたのね」
春日春子女性局長だった。年季の入ったベテラン女性議員たちを数人引き連れ、すでに広いソファの一角に陣取っている。軽食を前に、談笑の真っ最中だった。
「春日局長、おはようございます!」
「そうよ、今回はあたしが一声かけてあげたから来られたんだものね。よかったわ、るる奈ちゃん」
春日局長は満面の笑みで言った。温かい言葉のはずなのに、なぜか背中にじわりと重いものが乗っかってくる感覚があった。
「ほんと、若い子が一緒で華やかだわ。ねえ皆さん、そう思わない?」
取り巻きの議員たちが「そうよねえ」「かわいいじゃない」と口々に言う。
その視線は、都会に出てきたばかりの田舎の子を見るような、善意と上から目線が混じり合った、なんとも言えない温度だった。
るる奈は「ありがとうございます」と笑顔で頭を下げながら、心の中で小さくため息をついた。
(分かった。あの人たち、海外研修とかに何回も来てるやつだ)
春日局長と取り巻き一行の、場慣れした余裕。
ラウンジのソファへの座り方、飲み物の選び方、さりげない会話の流し方。
全てが「何度もここを通ってきた人間」の動きだった。
(ウチは今日が初めてで大騒ぎしてるのに、あの人たちはもうこれが日常なんだ)
るる奈は自分のトレイを持ち、春日局長一行から少し離れたソファに腰を下ろした。
クロワッサンをひとくち齧ると、バターの香りが口に広がった。
(……うま)
窓の外、滑走路をゆっくりと飛行機が動いていく。
さっきまで最高潮だったテンションが、少しだけ落ち着いていた。
浮かれていたのは本当だ。
でも、春日局長の「あたしのおかげ」という空気が、妙な形でるる奈の頭を冷やした。
(まあ、お世話になってるのは事実だし。感謝はしてる。でも……)
るる奈はクロワッサンをもうひとくち齧り、窓の外を見た。
(ウチはちゃんと、研修受けよう……、できる範囲で……あと、やっぱり観光したい)
るる奈は、人生初のビジネスクラスラウンジで、人生初のクロワッサンを食べながら、人生初の複雑な気分を噛みしめていた。




