第38話 【フランス研修編】出発前夜の千道家
海外研修の参加許可を女性局から得て、そこから約十日後のむし暑い夜、フランス渡航を明日に迎えた千道家のリビングに、場違いなほど明るい声が響いた。
「じゃじゃーん! 見て見て! ウチの初めてのパスポート!!」
るる奈がダイニングテーブルに飛び込んできた。手には紺色の小冊子。表紙には菊の紋章と『JAPAN』の文字。
母の冬子が「あら」と顔を上げ、妹のりり華が「わあ!」と身を乗り出した。しし男だけが、お茶をすすりながら半目でるる奈を見た。
「パスポート、初めて取ったのか?」
「そう! 丸目さんが全部手続きしてくれて、写真も撮って、あっという間に出来上がり! しかも手続き費用、全部経費で落ちるって御子神さんが言うから、実質タダ!」
「実質タダって言葉、好きだよな、お前」
「だって実質タダじゃん! ていうか研修費三十万円も、調査費の百万円から出るから、これも実質タダ! スーツケースのレンタルも経費で落ちるって! マジ実質全部タダ!!」
しし男のこめかみに、うっすらと青筋が浮かんだ。
「……それ、国民の税金な」
「わかってるって」
しし男は、呆れのため息をついた。
りり華は、るる奈のパスポートを両手で受け取り、目を輝かせながらページをめくった。
「お姉ちゃん、写真、ちゃんと映ってる! きれい!」
「でしょ! 三回撮り直したんだから! 丸目さんに『メイク薄めにしてください』って言われたのは納得いかなかったけど」
「はあ、フランスかあ……」
りり華は、うっとりと呟いた。
「パリって、エッフェル塔あるよね。シャンゼリゼ通りとか、ルーブル美術館とか……」
「一応、研修だから観光はどうかな……。でも時間あったら行ってみたい!」
「いいなあ、私も行きたい……!」
「りり華も、機会があたっら、行けるといいね」
冬子がテーブルに麦茶を置きながら、心配そうに眉を寄せた。
「ねえ、るる奈、着替えはちゃんと準備できてるの? 洗面用具は? お薬は? 胃腸薬、入れた? フランスってご飯口に合うのかしら」
「大丈夫、大丈夫! 昨日のうちに全部パッキング終わったから! 御子神さんからチェックリスト送られてきて、それ通りにやったし!」
「チェックリスト?」
「これ!」
るる奈が、あらかじめ用意していたA4の紙を取り出した。びっしりと項目が並ぶ、完璧な持ち物リスト。
冬子はそれを見て「まあ、秘書さんって、本当に何でもやってくれるのね……」と、安心なのか複雑なのか分からない顔をした。
「あ、そうだ、しし兄! これ読む?」
るる奈が次に取り出したのは、きれいに製本された冊子だった。表紙には『欧州女性政策視察研修 行程・資料集』の文字。
「なんだこれ?」
「研修のしおり! 修学旅行みたいでしょ! 御子神さんが渡してくれたんだけど、ウチ読んでもよく分かんなくて」
「しおりって……これ、内部資料じゃないのか? 一般人が読んでいいやつ?」
「いいんじゃない? 研修のしおりだし」
しし男は少し躊躇したが、選挙マニアで政治オタの血が、静かに騒ぎ始めていた。
(まあ、国家機密って訳でもないし……ちょっとだけ……)
冊子を開いた瞬間、しし男の目が変わった。
【フランス国民議会との意見交換。現地のファミリーセンター視察。少子化対策担当省へのヒアリング。保育政策の現場調査。欧州議会関係者との懇談等】
しし男の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……お前、これ、本当に行くのか」
「うん、明日の朝イチで!」
「いや、そういう意味じゃなくて」
しし男はしおりをテーブルに置き、るる奈を正面から見た。
「これ、ガチの政策研修だぞ。観光のフランス旅行じゃない。フランスの国会議員と意見交換って書いてあるぞ。ファミリーセンターの視察って、現場でフランス語でヒアリングするやつだぞ。お前、フランス語どころか英語もたぶん……」
「通訳さんいるって!」
「通訳がいても、内容を理解できなきゃ意味ないだろ! 少子化対策の現地ヒアリングって……お前、少子化問題にそもそも興味あるのか?」
「……興味……あるよ、たぶん」
「たぶんって言った」
「未来の日本は大事じゃん!」
「三秒で出てきた答えじゃないか、それ」
しし男はこめかみを押さえた。
社会福祉士として現場を知っている彼には、このしおりが示す研修の密度が、リアルに見えていた。
果たしてこのノーテンキギャルが、三泊五日のガチ政策研修で何かを得られるのか。理解できるのか。氷室レイという史上最強の学級委員長の隣で、場を乱さずにいられるのか。
心配の種類が多すぎて、どこから言えばいいか分からなかった。
その間、当のるる奈は冬子とりり華と、完全に別の会話を展開していた。
「パリって何時間かかるの?」
「飛行機で十二時間くらい? 御子神さんに聞いたら長いって言ってた」
「機内食ってどんなの出るのかな」
「エコノミーだから普通じゃないかなあ。急遽の参加だから、ビジネスクラスは無理かもって言われたし」
「でも外国の機内食って、なんか特別な感じがするよね」
「わかる! なんか、もうそこから旅行始まってる感じするよね!」
りり華の目が、夢を見るように遠くなる。るる奈はそんな妹の頭を、無造作にぽんぽんと撫でた。
「りり華も将来、仕事でどっか行けるといいね。福祉系なら海外の制度勉強しに行くとかありそうじゃん」
「お姉ちゃんみたいに議員になったら行けるかな」
「そっちのルートはオススメしない。供託金のくだりがマジで地獄だった」
二人がケラケラと笑う。
しし男はしおりを閉じ、ため息をついた。
「……まあ、頑張れよ」
「しし兄が心配してくれてる! 珍しい!」
「心配じゃなくて、呆れてるんだよ」
「同じじゃん」
しばらくして、るる奈は大きく伸びをした。
「そろそろ寝る! 丸目さんが朝五時半に迎えに来るって言ってたから」
「五時半!?」
「国際線は早いんだって。じゃ、おやすみ!」
パタパタと部屋に戻っていくるる奈の背中を、三人が見送った。
リビングに静けさが戻る。
冬子がふと、窓の外を見た。春男は今夜も特養の夜勤だ。いつも通りの、何も変わらない千道家の夜。
なのに明日の朝、この家の元ニートギャルは、生まれて初めて飛行機に乗って、パリへ飛ぶ。
「……なんか」
りり華が静かに言った。
「お姉ちゃんが国会議員で、フランスに行くって、たまに現実じゃない感じがする」
しし男は何も言わず、もう一度しおりの表紙を見つめた。
元プロニート、元貯金五千円、元毎日ベッドの上でスマホをスクロールしていただけの妹が、与党の海外視察団に混じってパリへ飛ぶ。
「……まったくだ」
千道家の夜は、いつも通り静かに更けていった。




