第37話 【フランス研修編】正論面接マジ鬼畜。でも、絶対フランスに行きたい。……ていうか、パスポートって何?
女性局の扉を開けた瞬間、るる奈は室内の空気が永田町の他の場所とは明らかに違うことを肌で感じた。
壁には視察先の資料が整然と貼り出され、スタッフが手際よく書類を仕分けしている。その中心に、氷室レイが背筋をピンと伸ばして座っていた。
今日も完璧なグレーのスーツ。隙のない黒髪。その視線がるる奈を捉えた瞬間、室内の温度が二度ほど下がった気がした。
(大丈夫、大丈夫。開幕土下座はしない。ちゃんとした言葉で……)
考える事とは裏腹に、るる奈の膝が、じわじわと折れ始めた。
「……千道さん」
氷室の声が、静かに、しかし鋭く飛んだ。
「床に額をつける前に、椅子にお座りください」
「してないじゃないですか!?」
「しようとしていましたよね」
「…………はい」
るる奈は大人しく椅子に座った。
氷室はひと呼吸置いてから、手元の書類に視線を落としたまま口を開いた。
「用件は伺っています。フランス研修への参加希望ですね。なので、面接します。色々、聞かせてください」
「……面接ですか!?……はい」
「今回の研修テーマは何か、ご存知ですか」
るる奈は、一瞬固まったが、とにかく口に出した。
「……女性の、地位向上……とか?」
「正確には、フランスの女性活躍推進制度の現地視察と、少子化対策における家族政策のヒアリングです。シャンパンを飲みながら観光地を巡る旅行ではありません」
氷室は、るる奈を正面から見据えた。
「千道さん、率直に申し上げます。女性の地位向上、少子化問題……これらのテーマに、あなたはこれまで本気で向き合ってきましたか。PTへの出席は記録に残っています。署名も確かに頂いた。ですが……」
氷室の声が、わずかに低くなった。
「あなたが全ての法案を、一行も読まずに署名していたことも、私は把握しています。生半可な気持ちで参加して、現地で何も得られないのでは、国費と時間の無駄です。あなたにとっても、同行者にとってもです」
言葉の一本一本が、的確にるる奈の胸に刺さった。
反論しようとして、できなかった。全部、正しかったから。
沈黙が落ちた。るる奈は、「やっぱり、甘い考えだった」と、諦めたその瞬間だった。
「まあまあ、氷室先生」
奥の書棚の向こうから、のんびりとした声が割り込んできた。
書類の山をかき分けるように現れたのは、民自党女性局長・春日春子衆議院議員だった。
ゆったりとした笑みを浮かべた、年齢不詳のベテラン女性政治家。
その柔らかな物腰の奥に、長年の政治家生活で磨き上げた「したたかさ」が透けて見えるのは、るる奈にも何となく分かった。
「若い子が一人いたら、現地でも華やかでしょ。女性局も、いろんな世代がいた方が良いわよ。ねえ、千道先生、せっかくだから一緒に行きましょうよ」
にこにことした春日局長の視線が、るる奈にべったりと貼りついている。
(……あ。この人、ウチを自分の仲間に引き込みたいんだな)
るる奈の野生の勘が、珍しくちゃんと仕事をした。
氷室は春日局長をちらりと見た。その横顔に、かすかな苦みが走る。
「……春日局長が、そうおっしゃるのでしたら、仕方ありません」
氷室は小さく息を吐き、るる奈に向き直った。
「参加を認めます。ただし、条件があります」
「はい!」
「自己負担金として、三十万円をご用意ください」
その金額が耳に届いた瞬間、るる奈の全身の血が、一拍だけ止まった。
(三十万……タダじゃないじゃん……)
しかし次の瞬間、脳内電卓が猛スピードで回転した。
(待って。調査費、今月から百万円になったじゃん。返済してた時は五十万でやりくりできてたんだから……三十万くらい余裕っしょ。実質タダじゃん!)
「承知しました!」
るる奈は、満面の笑みで深々と頭を下げた。
「詳細なスケジュールと準備事項は、御子神秘書を通じてお伝えします。現地では私の指示に従ってください。一言でも場の空気を乱すような言動があれば、即刻退場させます。よろしいですね」
「はい! マジで……いえ、誠に、ありがとうございます!」
踵を返して帰ろうとしたるる奈の背中に、氷室の声が飛んだ。
「千道さん、最後に一つだけ確認です」
「はいはい、なんでしょう」
「パスポートは、お持ちですか」
るる奈の足が、ピタリと止まった。
「……パス、ポート」
「海外へ渡航する際に必要な、顔写真付きの本人確認書類です。それがなければ、そもそも飛行機に乗れませんし、フランスの入国審査も通れません。事前に確認しておく必要があります」
「…………」
るる奈は、ゆっくりと振り返った。
そして、その顔は、笑みが消えていた。
「……持って、ないです」
氷室レイは、二秒間だけ目を閉じた。
「……至急、手続きをしてください」
女性局を出たるる奈は、廊下で立ち止まり、スマホを握りしめた。
(パスポートって……どこで買うんだっけ……?)
千道るる奈の、人生初のフランス研修への道は、まだ始まってもいなかった。




