第36話 【フランス研修編】研修でもいいから、フランス行きたい。できたら、タダで行きたい。
七月の永田町は、国会閉会の解放感と夏の湿気が混ざり合って、ぐったりとした空気に包まれていた。
つなぎ融資の完済通知書を手渡された千道るる奈は、議員会館の自室のソファで大の字になり、天井に向かって一人でガッツポーズを決めていた。
「終わったァ……! マジで終わったよォ……! 借金人生、完全フィニッシュ……!!」
「おめでとうございます、先生。調査研究広報滞在費も、これで満額の百万円がそのままお手元に残ります」
御子神が淡々と告げる。
「百万円……百万円ってことは、今まで五十万でやりくりしてたのが、倍になるってこと……!? 神じゃん! これでやっと、推しの限定グッズ全部コンプできる……!!」
「政治活動費です」
「分かってるって」
そんな解放感に満ちた午後のことだった。
廊下で書類を抱えたまま早足で歩いていたるる奈の耳に、すれ違った女性局スタッフの会話がフワリと引っかかった。
「……フランス研修の日程、氷室先生が全部仕切ってくださってるから、今回はスムーズね」
「フランス、パリでしょ? 今回の女性政策の視察」
その単語が、るる奈の脳内で三秒かけてゆっくりと展開した。
(……パリ? フランス? 研修?)
そしてさらに三秒後、脳内に一本の光の筋が走った。
(……タダで、行けたりする……?)
るる奈は廊下でUターンし、事務所に飛び込んだ。
「御子神さん! 丸目さん! 竹中さん! ちょっと相談!」
三人が顔を上げる。
「女性局がフランス研修行くって聞いたんだけど。ウチも、なんか……行けたりしない……かな……?」
三人の表情が、見事に同じタイミングで複雑に歪んだ。
御子神は眼鏡の位置を直し、丸目は口元をひきつらせ、竹中は持っていた眼鏡を外してレンズを拭き始めた。これが全員の「困惑の無意識行動」だと、るる奈は最近ようやく学習していた。
「……先生」
御子神が静かに口を開く。
「女性局の海外研修は、女性局員として活動されている先生方が対象です。そして、千道先生は、女性局員ではありません」
「でもさあ……」
るる奈はソファに浅く腰掛け、上目遣いで三人を見回した。
「女性地位向上PTとか、部会とか、数合わせで呼ばれてるじゃん、ウチ。法案の署名だって、聞かれたら全部ハイって言ってきたし。完全ゼロってわけじゃないっしょ? なんか、うまいこと……ならない……かなあ……?」
語尾がふわふわと宙に溶けていく。
三人の顔が、再び歪んだ。
丸目がこめかみを指で押さえ、竹中が苦笑し、御子神が深く、長い、この世の終わりのようなため息をついた。
「……筋として申し上げると」
御子神の声は、ため息の残骸を引きずっていた。
「今回の研修の責任者は、氷室レイ参議院議員です。氷室先生に直接アポを取り、お願いするのが唯一の道かと」
「氷室センセイ……」
るる奈の脳裏に、あの面接の記憶がフラッシュバックした。
『これ以上、礼儀知らずと同じ空気を吸うのは耐えられません』
廊下を音を立てて出て行ったあのヒール。氷のような目線。完璧すぎる美貌の裏に張り付いた、隠しきれない嫌悪の色。
「……いや、でも」
るる奈は自分に言い聞かせるように呟いた。
「闇金には飛び込めたんだから、氷室センセイくらい余裕っしょ……たぶん……」
「先生」
「なに」
「氷室先生が、あなたのことをどう思っているか、覚えていますか」
「……覚えてる。でも行く」
御子神はもう一度ため息をついた後、静かにスマートフォンを取り出した。
「……分かりました。アポを入れます。ただし、先生」
「なに?」
「土下座は、絶対にしないでください。中身の無いへつらいは、たいてい嫌われますから」
「大丈夫、ウチ、最近ちゃんと礼儀覚えたから」
「……」
御子神の眼鏡の奥の瞳が、かすかに「本当に?」と言っていたが、るる奈はそれを見なかったことにした。
数分後、御子神のスマートフォンに返信が届いた。
「……氷室先生から返信です。『今ちょうど時間が空いています。女性局にいらっしゃるなら、お話は伺います』とのことです」
「マジ!? 早っ!」
「今すぐ行けるか?ということです、先生」
「え、今から!?」
「今から、です」
るる奈は立ち上がり、ネイビーのスーツの襟を整えながら、全力で「礼儀正しいギャル」の回路を起動した。
(大丈夫、大丈夫。土下座はしない。ちゃんとした言葉で頼む。御子神さんのアドバイス通りに)
(そして、タダで……フランスへ……!)
脳内にエッフェル塔がそびえ立ち、どこからともなくシャンソンが流れ始めた。
るる奈は、闇金に突撃した時とまったく同じテンションで、彼女は女性局への廊下を歩き始めた。
御子神は、その背中を見送りながら静かに呟いた。
「……丸目君、念のため。フランスのビザ条件を調べておいてください」
「了解です。……先生、パスポートは持ってますかね」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。




