第35話 高所得者って言われても、税金エグすぎて議員ボーナス入った瞬間メンタル破壊されたんだけど
議員会館の自室で、るる奈はスマートフォンを握りしめたまま、魂が抜けたような顔で画面を凝視していた。
画面に表示された『期末手当(夏季)入金額』の数字は、以下の通りである。
差引支給額:1,997,816円
「……は? うそ、マジで意味わかんないんだけど……」
るる奈は画面を二度見し、三度見し、最終的にはスマホを顔に近づけて思いきり目を凝らした。
「……待って。事前に見た資料にはさ、額面で3,189,740円って書いてあったじゃん。なんで100万円以上消えてんの? ウチの100万円、誰が盗んだわけ!?」
混乱する室内に、小気味よいノックの音が響いた。
「先生、御子神です。入室してもよろしいですか」
「……どうぞぉ」
るる奈がソファーにある意味鎮座して、力なく応じると、重厚なドアが開いた。
いつものダークグレーのスーツを隙なく着こなした御子神を先頭に、心配そうな丸目、そして政策担当秘書の竹中が静かに後に続く。
「先生、期末手当の口座入金は確認されましたか」
「確認した。っていうか確認しなきゃ良かった。ウチの100万円が神隠しに遭ったんだけど」
るる奈が涙目でスマホを突き出すと、御子神は眉一つ動かさずに淡々と告げた。
「神隠しではありません。所得税の源泉徴収です。引かれた金額は正確には、1,041,894円ですね」
「……ひゃ、104万円!? 税金だけで軽自動車が買えるじゃん!」
るる奈の声が悲鳴のように裏返る。
「月々の歳費(給与)にかかる税率が高いため、期末手当にも同じ最高クラスの税率が連動する仕組みです。これは法律ですから、どうにもなりません」
「法律とかどうでもいい! ウチは今、ウチの100万円がどこに消えたかっていう現実の話をしてるの!」
「国家財政、つまり国庫に行きました。国の予算として組み込まれます」
「……」
るる奈はガタッとソファーの背もたれに頭を打ち付け、天井を仰いだ。
「じゃあ何? 夏のボーナスなのに手取り200万円切るってこと?」
「正確には、党費の特別負担金が今月は別途15万円引かれますので、残額の1,997,816円が手元に残るすべてです」
るる奈は跳ね起きると、自分の盛った銀髪エクステをぐしゃぐしゃとかきむしった。
「ちょっと待って! ウチ、『議員になったら年収2000万円超え』って聞いてここに来たんだけど! 2000万円ってどこにあるわけ!? ウチの通帳に2000万円の数字が並ぶハッピーな日はいつ来るの!?」
御子神は深い溜息をつくと、静かに諭すような声音に変えた。
「先生。税引き前の総支給額をすべて足せば、確かに2000万円を超えます。しかし、税金や社会保険料、党への上納金を差し引いた実際の可処分所得――つまり手取りは、年間で約1000万円程度になるのがこの国の現実です」
「2000万円が……半分……」
「それが、先生がこれから嫌というほど向き合うことになる、日本の税制です」
るる奈は完全に言葉を失い、膝を抱えてソファーの隅に丸くなった。
「凹む。マジで凹むわ……。頭では分かってるよ? 税金払わなきゃいけないことくらい。でも、実際に数字で引かれてるのを見たら、ガチでメンタルにくる……。ウチ、これだけあれば、今月こそ推しの配信にいっぱい投げ銭できると思ってたのにさ……」
「先生、そこは誤解しないでください」
ソファーに丸くなるるる奈に向けて、御子神がすかさず釘を刺した。
「前にお話しした通り、つなぎ融資の返済は『調査研究広報滞在費』から毎月50万円を充てています。ですから、この期末手当から借金が引かれることはありません。約200万円は、減らずにそのまま先生のものです」
るる奈の瞳に、一瞬だけパッと光が戻る。
「えっ! じゃあこれ、ウチが自由に使っていいやつ!?」
「いいえ」
御子神は即座にその光を叩き潰した。
「何度も申し上げている通り、現在は借金返済の身です。完済するまでの残り数ヶ月間は、この期末手当も当然、私が口座ごと厳重に管理させていただきます。無駄遣いは一切認めません。晴れて自由の身になる完済の日まで、大人しくお待ちください」
「うぐぅ……自由、遠い……」
再び撃沈したるる奈を見て、竹中が眼鏡を指で押し上げながら、静かに口を開いた。
「先生。手取り1,000万円という金額は、現在の日本国民の上位約二%に過ぎません。残りの九十八%の国民は、それ以下の遥かに世知辛い所得で日々の生活を営んでいます」
いつになく重みのある竹中の言葉に、るる奈はハッとして顔を上げた。
「先生が守ろうとしなければならない、あの子ども食堂に集まる人たちの中に、今そこにある200万円どころか、その消えた100万円さえ持てずに苦しんでいる人間がどれだけいるか。それを忘れないでいただきたい。これは国会議員として、先生が背負うべき『最初の数字』です」
説教ではない。
嫌みでもない。
竹中はただ、この永田町でるる奈が背負うべき「事実の重み」を静かに置いていったのだ。
「……うん」
るる奈は小さく、鼻をすすりながら頷いた。
「それは……分かった。ウチ、ちゃんと考える。あの子たちのこと」
部屋に数秒の、静かな沈黙が流れた。
やがて、るる奈は未練がましそうにスマートフォンをもう一度取り出すと、お気に入りの配信者のページを開いた。画面の向こうでは、推しが元気にリスナーを煽っている。
『今月の投げ銭予算:0円』
「……推し、マジごめん。今月も無課金勢でいくわ」
ぽつりと呟き、るる奈は画面を暗転させた。まだ完全に未練は断ち切れていないが、その横顔には、自分の特権と責任を自覚し始めた新人政治家の表情が、確かに混ざり始めていた。
自室の静けさの中、るる奈はソファーに寝転びながら、スマートフォンの画面を眺めていた。
指先が迷うように画面をスクロールし、やがて「母」の文字をタップする。
久しぶりに送る、母親へのメッセージだった。
『お母さん、ボーナスって税金えぐいね。初めて知った』
送信ボタンを押し、天井を仰ぐ。天井の木目を数える暇もないうちに、画面に「既読」の二文字が灯った。
『そうよ〜! お母さんたちも毎年凹むわよ(笑) でもちゃんと働いてる証拠だから、えらいえらい』
るる奈はその、どこか気の抜けた、けれど温かい言葉を三回繰り返して読んだ。
「……えらいえらい、か」
小さく呟き、ソファーに寝返りを打つ。今月もコンビニの新作スイーツは我慢することになりそうだった。
それでも、胸の奥に灯った小さな灯火が、悪くない夜だと思わせてくれた。
翌週の月曜日。
永田町の議員会館は、相変わらず独特の慌ただしさに包まれていた。
るる奈は自室のデスクでスマートフォンを片手に、退室しようとしていた公設秘書の御子神を呼び止めた。
「御子神さん、ちょっといい?」
「はい、何でしょうか」
振り返った御子神の顔は、いつものように厳格な鉄仮面だった。しかし、るる奈の次の言葉に、その眉が僅かに動いた。
「あのさ、ボーナス入ったじゃん。それで、少し親に何かしたいなと思って」
るる奈は珍しく語尾を濁らせ、視線を落とした。自分の家族のことをこの老練な秘書に話すのは、どこか気恥ずかしい。
「……プレゼントですか」
「うん。なんか、今までいろいろ心配かけたし。お父さんもお母さんも、介護の仕事をずっと頑張ってるから。何がいいと思う? ブランドのバッグとか、服とかかな」
御子神は顎に手を当て、少しの間を置いてから静かに口を開いた。
「ご両親のご年齢と、普段のご職業を考えますと……商品券が、最も喜ばれるかと存じます」
「商品券?」
るる奈は顔を上げた。
「なんか、地味じゃない?」
「地味です。ただ、確実に使えます」
御子神の声は淡々としていたが、そこには確かな経験の重みがあった。
「現場で体を使うお仕事をされている方は、自分ではなかなか買わないものを、自分で選んで買える喜びを、一方的なプレゼントよりも大切にされることが多いのです。趣味や好みを外す心配もありませんし、何より贈る側の自己満足になりません」
るる奈は、実家のリビングで古い鞄を使い続けている母親の姿を思い浮かべた。
「……確かに。お母さん、ウチがあげたもの『ありがとう』って言いながら、結局クローゼットに仕舞いっぱなしのことあるわ」
「よくあることです」
「御子神さん、経験者?」
「六十年も生きていれば、贈り物の失敗くらい嫌というほどいたします」
その言葉に、るる奈の緊張が少しほぐれた。
「じゃあ、商品券にする。いくらくらいがいいかな」
「ご両親へは、気持ちが伝わる額で。ただし、高すぎると相手に余計な気を遣わせます」
「じゃあ、3万円で」
御子神は一瞬だけ目を細め、それから小さく頷いた。
「……立派だと思います」
「あと、やっぱりメッセージカードとか付けた方がいい?」
「付けてください。商品券だけでは、ただの金券です。品物に言葉を添えて、初めてそれは『贈り物』になります」
「そっか。これってオンラインで買えるの?」
「買えます。百貨店の公式サイトであれば、のし対応からメッセージカードの添付、自宅配送まで全て手続き可能です」
「さすが御子神さん、なんでも知ってるね」
「秘書の仕事ですから」
御子神は一礼して部屋を出て行った。
その日の昼休み。るる奈はデスクに突っ伏しながら、スマートフォンで百貨店のオンラインストアを開いていた。
贈答用商品券、3万円✕2。のしには「御礼」と指定し、配送先には実家の両親の名前を入力する。
しかし、メッセージカードの入力画面で、るる奈の指がぴたりと止まった。
何を書けばいいのか、急にわからなくなったのだ。
「ありがとう」だけでは軽すぎる気がした。「ごめんなさい」を入れると、あのどん底だった時期の暗い記憶が蘇って重くなる。
画面を見つめたまま五分が経過した。るる奈は意を決して、拙い文字を打ち込み始めた。
『お父さん、お母さんへ
いろいろ心配かけてごめん。
二人がずっと働いてるの、ウチちゃんと見てた。
好きなもの買ってね。
るる奈より』
送信前に何度も読み返した。
「……なんか、小学生の作文みたい」
自嘲気味に呟いたが、結局書き直さなかった。これ以上、綺麗でスマートな言葉を探そうとすれば、自分の本当の気持ちから遠ざかっていくような気がしたからだ。
購入ボタンをタップする。画面が切り替わり、「ご注文ありがとうございました」の文字が表示された時、るる奈は胸の奥の支えが取れたような気がして、小さく息を吐いた。
勢いに乗って、次は妹のりり華へのギフトを探した。
「りり華は何が好きだっけ……本? 勉強道具?」
少し考えて、彼女にも同じ商品券を一万円分選んだ。
『りり華へ
お姉ちゃんがバカでごめんね。
好きなもんに使って。
るる奈より』
「……これも小学生だな」
苦笑しながら決済を済ませる。
最後に、兄のしし男の番になった。
ギフト券の選択画面を開いたまま、るる奈は指を止めた。
あの事件の夜。しし男はるる奈に向かって、怒鳴ることもせず、ただ静かに「まず頭を下げろ」と言った。順序を間違えるな、と。
あれはきっと、兄としての感情ではなく、彼が社会福祉士という仕事の中で培ってきた、人と向き合うための誠実さだったのだと、今ならわかる。
るる奈は金額の入力欄を消去し、ギフト券のサイト自体を閉じた。
しし男に商品券を贈ることは、何かが違う気がした。お金で解決したくないという綺麗事ではなく、ただ、あの兄にはモノではない別の何かを渡さなければいけない気がしたのだ。
るる奈はメモアプリを開き、一文字ずつ言葉を紡いだ。
『しし兄へ
あの夜、頭下げさせてくれてありがとう。
おかげでちゃんと謝れた。
ウチ、まだバカだけど、ちょっとだけマシになろうとしてる。
見ててください。
るる奈より』
メッセージカードのサービスだけを利用し、金額はゼロ円。
送信ボタンを押し、るる奈は椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「……しし兄、怒るかな。でも、妹のお金欲しがるイメージないし」
その時、コンコンと小気味よいノックの音が響き、ドアが開いた。秘書の丸目が顔を出す。
「千道先生、午後の本会議の日程確認、よろしいですか」
「あ、はーい! 今行きます」
るる奈はスマートフォンをデスクに置き、勢いよく立ち上がった。その拍子に、胸元にピン留めされた議員バッジが、窓から差し込む初夏の陽光を反射して鋭くきらめいた。
三日後の夜。
実家の冬子から、画面に入りきらないほどのLINEが届いた。
『るる奈! 届いたわよ! びっくりした! こんなにしてくれなくてよかったのに! でも凄く嬉しい。カードも読んで泣いちゃった。お父さんも照れて言葉がなくなってたけど、絶対に嬉しそうだったわよ(笑) ありがとうね。えらいえらい』
続いて、りり華からも短いメッセージが届く。
『お姉ちゃんありがとう。参考書買う』
「参考書かい」
るる奈は思わず声を出して笑ってしまった。本当にあいつらしい。
そして夜も更けた十一時過ぎ、しし男から一言だけ、ぶっきらぼうな通知が跳ねた。
『カード、もらった。……まあ、見ててやる』
「ツンデレかよ」
るる奈は呆れたように笑いながら、スマートフォンをベッド脇のテーブルに置いた。
銀行の口座残高は、また少し心細くなった。今月も推しへの投げ銭はお預けだ。
それでも、スプーンですくって口に運んだコンビニのプリンは、いつもより少しだけ、格別に甘い味がした。




