第4話 氷室レイは止まれない
深夜の永田町は静まり返っていた。
民自党本部の七階にある政策調整室には、日付が変わってもまだ明かりが灯っている。
「この補助要件のままでは、自治体側が申請を弾いてしまいます」
静かな会議室に、低く通る女性の声が響いた。
声の主は、氷室レイ。
黒髪を後ろで一つにまとめ、淡いグレーのスーツを隙なく着こなしている。
彼女が資料を開くだけで場の空気が引き締まるのを、周囲の総務官僚や党職員たちは知っていた。
「前年度実績を有する団体に限る、という一文があると、新規の福祉法人が参入できません。これでは、現場の最前線である特別養護老人ホームへの、国からの直接的な処遇改善手当が滞ってしまいます」
若手の官僚が、戸惑いながらも反論した。
「ですが、実績の要件をなくしてしまうと、不正受給のリスクが高まります」
「だからこそ、段階審査にするのです」
レイは、即座に切り返した。
「現場で過酷な夜勤を回している介護福祉士や生活相談員たちに、一刻も早く予算を届けるのが私たちの仕事です。ゼロか百かというような、雑な制度設計はやめましょう」
彼女の言葉に、感情的な熱さはない。
しかし、相手の逃げ道を塞ぐように、理路整然と論理が積み上がっていく。
若手官僚はそれ以上反論できず、黙り込んだ。
レイは手元の資料に視線を落とし、余白へ細かく赤字を書き込んでいく。
実際、体は限界を迎えていた。
それでも彼女が足を止めないのは、制度の不備によって不利益を被る人々の姿を、官僚時代から嫌というほど知っているからだった。
東京大学を卒業後、総務省に入省。
「将来の事務次官候補」とまで言われたレイが、40歳で安定した官僚の地位を捨てて政治の世界へ飛び込んだのは、「制度そのものを変えるには、政治の側へ行くしかない」と確信したからだ。
行政の光が届かない場所で、人手不足に喘ぎながらすり減っていく福祉の現場、困窮する若者たち。
理想を叫ぶだけでは彼らを救えない現実を、彼女は誰よりも冷徹に理解していた。
だからこそ、泥をすするような党内調整にも応じ、現実主義の政治家として戦い続けている。
そんなレイにとって、昼間に面接した千道るる奈のような存在は、優先順位の極めて低い、関わるだけ時間の無駄な「爆弾」に過ぎなかった。
深夜二時。すべての資料を閉じ、ようやく政策調整室の明かりを消した。
重い一歩で廊下を進みながら、レイは疲れた目でスマホの画面をスクロールした。世間の動向をチェックするため、SNSを開く。
その指が、ふと止まった。
画面に表示されたのは、昼間、自分が激しく一蹴したはずのギャルのアカウントだった。
そこには、党本部の窓ガラスを背景にした、いかにも軽薄な自撮り写真がアップされていた。
『民自党公認あざす☆ センセイになって人生イージー☆モード突入してくる! #衆院選 #ギャル国会議員』
普通の政治家なら「ふざけるな」と激怒して終わりだろう。
しかし、レイはスマートフォンの冷たい光に照らされながら、その無敵のギャルスマイルを静かに見つめ、深く、静かに息を吐き出した。
(なぜ、二十五歳の若者が、人生を逆転させるために、国会議員という手段の博打に賭けなければならない社会になってしまったのだろうか……)
その疑問だけは、氷室レイの胸の奥に、消えない棘のようにいつまでも残り続けていた。
二人の運命が、この国の歪んだ福祉の現場を介して、いずれ激しく交錯することなど、今の彼女たちはまだ知る由もなかった。




