第16話 ウチの一票、ガチで総理決めてたらしい
特別国会の初日、首班指名選挙が行われる朝、千道るる奈は午前五時半にアラームの音で叩き起こされた。
「……マジむり。まだ夜じゃん」
ふかふかの高級羽毛布団——数日前、御子神に無理を言って「経費」名目で買い替えさせたものだ——を頭から被って五秒だけ現実逃避し、それから重い体を起こした。
実家の自室は、議員バッジを手に入れても何も変わらない。枕元のスマホには、すでに御子神から鬼のようなスケジュールメールが届いていた。
「六時三十分、議員会館前集合。遅刻は一秒たりとも許しません。服装はダークスーツ。髪はまとめ、ネイルはベージュ系の肌馴染みの良いものに塗り替えてあるはずですね?」
「うわ、昨日の夜マジで塗り替えさせられたの恨むわ……」
るる奈は不機嫌そうに、御子神に指定された「地味め」な紺のスーツに袖を通した。
朝食はいつものコンビニの飲むヨーグルト。
スケジュール表を開くと、夜十一時まで一分の隙もない予定がびっしりと詰まっている。
ため息を吐きながら、彼女はバッジを襟元に刺した。
議員会館前に着くと、御子神、丸目、竹中の三人が、鉄壁の布陣で待ち構えていた。
「おはようございます、先生。早速ですが、シャツの襟が立っていますよ」
丸目が苦笑しながら直し、竹中が「朝のニュースは見ましたか?」と早速ミニテストを始める。
御子神は無言で腕時計を指差した。
民自党の両院議員総会を終え、一行が衆議院の赤絨毯が敷かれた重厚な廊下を歩いていた時だった。
廊下の向こうから、凄まじい圧迫感とともに「風」が吹いてきた。
数人のSP、そしてテレビで何度も見た顔ぶれを従えた一団。その中心にいたのは、日本初の女性総理、鷹町栄だった。
そのすぐ斜め後ろには、あの面接でるる奈を場違いと切り捨てた氷室レイが、鋭い眼光を光らせて付き従っている。
「……ッ!」
御子神、丸目、竹中の三人は、まるで訓練された兵士のように、一糸乱れぬ動きで壁際に寄り、深々と、完璧な角度でお辞儀をした。
だが、るる奈だけがタイミングを逃した。
「あ……」
呆然と立ち尽くし、マスコミのフラッシュを浴びながら歩いてくる「本物の権力」に圧倒された。
鷹町栄の視線が、ふと止まった。一瞬、本当に一瞬だけ、総理の慈愛に満ちているようでいて底知れない冷徹な瞳が、るる奈の瞳を射抜いた。
その隣で、氷室レイが眉をピクリと動かした。
その表情には「なぜ、まだこんな場違いがここにいるのか」という明確な軽蔑が張り付いていた。
言葉はなかった。
総理の一団は、るる奈を空気か何かのように通り過ぎ、嵐のように去っていった。マスコミのシャッター音が遠ざかる。
「……先生!!」
御子神の、地を這うような低い声が廊下に響いた。
「今の失態は万死に値します。なぜ会釈すらできないのですか。あなたは今、党の一員として、総理に対して敬意を払うべき立場なんですよ!」
「お、御子神さん、声が大きいですよ……。でも先生、あれは流石にマズいです。氷室先生のあの顔、見ました?」
丸目が青ざめた顔で周囲を気にする。
「千道先生、いいですか。政治の世界で『礼節を欠く』ことは、宣戦布告と同じ意味を持つんです。明日から徹底的に所作の特訓を追加します」
竹中の眼鏡がキラリと光り、るる奈は「ひぇっ……」と身を縮めた。
その後、本会議場での投票は、練習した「鷹町栄」の字を震える手で書くだけの作業だった。
自分の書いた拙い字が、あの圧倒的な存在を総理の座に据える一票になる。その事実が、少しだけ怖くなった。
手続き、研修、書類の山。
挙げ句の果て、廊下で迷子になりかけ、参議院側に迷い込んだところを丸目に回収される。
「先生、迷子届を出さなきゃいけなくなりますよ」
「だるいってば……。もう足パンパン」
夜十一時。ホテルでの豪華な懇親会を終え、ようやく自宅に戻った。
ハイヒールを脱ぎ捨て、メイクも落とさずにベッドに倒れ込む。スマホには、すでに明日の「スパルタ・スケジュール」が届いていた。
天井を見つめながら、るる奈はバッジに指を触れた。
「……あのお局センセイ、マジでウチのこと殺しそうな目で見てたな」
氷室レイのあの冷たい視線。そして、鷹町栄の底知れない眼光。
あの中心に自分もいるのだ。今はまだ、おじさん秘書たちに飼われているだけの「お人形」に過ぎないけれど。
「……でも、ウチの一票も、数に入ってたんだよね」
そう呟きながら、るる奈は深い疲労の中で、意識を失った。
千道るる奈、25歳。
彼女の「議員」としての初日は、屈辱と、恐怖と、ほんの少しの不思議な高揚感とともに終わった。




