第3話「離縁を申し出た夜、辺境伯は初めて動揺した」
エレナが決意を口にしたのは、夕食の後だった。
いつもならそれぞれの部屋へと向かう時間に、エレナは「少し、よろしいですか」とライナルトを呼び止めた。彼は振り返り、無言で続きを促した。
エレナは微笑んだ。完璧な、いつもの微笑みを。
「離縁を、お願いしたいのです」
沈黙が落ちた。
ライナルトは微動だにしなかった。しかしそれは最初の、ほんの一瞬だけのことで——エレナの言葉が空気に染み込んだ瞬間、彼の表情が何かに引き裂かれるように、歪んだ。
椅子を引く音。立ち上がる気配。
ライナルトは一歩、エレナに近づいた。「……何が」と声を出そうとして、途中で止まった。「何が、不満だ」
絞り出したような声だった。艶のない、かすかに震えを帯びた声。エレナは生まれて初めて、あの無口な男の声が揺れるのを聞いた。
「……不満ではありません」とエレナは答えた。「ただ、正直に申し上げると」
一度息を吸った。微笑みが、剥がれ落ちそうになる。
「愛されていないことが、わかるからです」
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静寂は、長かった。
ライナルトは反論しなかった。否定もしなかった。ただ——エレナには見えなかったが、彼の両手は腿の横でかたく握りしめられ、それでも止まらず、微かに震えていた。戦場で怪我ひとつしなかった手が、一人の女の言葉に、震えていた。
「……愛していないわけでは」
言いかけて、止まった。
どう続ければいいのか、わからなかったのだ。エレナにはそれが見えた。言葉を探して、見つからなくて、喉の奥で詰まらせている——その様子が。
だから余計に、辛かった。
愛していないわけでは、ない。その先がないなら——それは、言えなかったのと同じだ。
「離縁の件は、少しだけ時間をください」とエレナは静かに言った。「明日、また改めて」
頭を下げて、自室へと向かった。
廊下を曲がった瞬間、壁に手をついた。膝が震えていた。泣きたくないのに、目が熱かった。
*愛していないわけでは——*
その先が聞けなかったことが、泣くより辛かった。
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翌朝、薬草園にいると、ベルントが現れた。
副官のベルントは、辺境伯の右腕と呼ばれる男で、人懐こい笑顔と鋭い目を使い分ける人物だった。その彼が、珍しく真剣な顔をしていた。
「奥様、少し伺ってもよいですか」
座るよう勧めると、ベルントは根っこ付きの木の切り株に腰を下ろして、静かに話し始めた。
「旦那様は、奥様が薬草園を作りたいとおっしゃった翌日に、予算を三倍にしました」
エレナは手を止めた。
「知っての通り、辺境は豊かな土地ではありません。予算を割くなら兵器か食料と言い張る家臣を、旦那様は三日がかりで説得された」
「……知りませんでした」
「ご存じないはずです。旦那様が口止めを」
ベルントは続けた。種袋のこと。王都の薬問屋に直々に書状を送り、幻草の種を手配したこと。「奥様が兵士の前で声をあげて泣くことのないよう」と全ての使用人に厳命したこと。奥様が通る廊下の石畳の欠けを見つけたその日のうちに修繕を命じたこと。
エレナは土の上に、静かに座り込んだ。
「どうして、言ってくれなかったんですか。旦那様は」
ベルントは少しだけ間を置いてから、答えた。
「旦那様は、物心ついた頃から国境の砦で育ちました。父君は戦で早く亡くなり、母君も病で。言葉で愛情を伝えてもらったことが、一度もないんです、あの方は」
エレナの目に、涙が盛り上がった。
「だから言い方を、知らないんです。愛していないんじゃない。言葉の形を知らないだけで」
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薬草園に風が通った。
エレナは膝を抱えて、長い間、黙っていた。
昨夜、震えていた手のことを思った。言いかけて止まった声のことを思った。扉の影に置かれた野花のことを、名前も書かれていない種袋のことを。
——全部、全部、そういうことだったのか。
「……離縁は、やめます」
エレナは土に指を沈めて、やわらかい地の感触を確かめながら、呟いた。
「やめて、どうなさいますか」とベルントが穏やかに問う。
「聞きに行きます。あの方に、直接」
土についた指先を払って、エレナは立ち上がった。
泣いた後の顔のまま、それでも背筋だけは、真っ直ぐに。
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(第4話へつづく)




