5.街の依頼
冒険者の朝は早いらしい。昨日帰り際にリリアが教えてくれた。
といっても目覚ましもなければ、正確な時計も存在しない世界なので、空気の感覚と太陽だけでざっとした時間を把握するしかない。
薄い壁越しに、隣室の物音が筒抜けで聞こえてくる。どこかで鶏が鳴いた。
ハルは夜明け前から目が覚めていた。眠れなかったわけではない。ナノマシンの影響で睡眠時間が一般的な人間の半分ほどで事足りる体になっていた。
天井を見上げる。木の板に、染みがいくつか浮いている。
昨日一日で得た情報を整理する。この世界の通貨、物価、ギルドの仕組み、冒険者のランク体系。
まだ足りない。土地の地理、国家の構造、この世界にしかない魔法について。
把握すべきことは山積みだった。
身支度を済ませ、廊下に出る。
向かいの扉をノックした。
返事がない。
もう一度、少し強めに叩く。
「……っ、は、はいっ」
明らかに寝起きの声だった。
しばらくして、扉の向こうでドタバタと物音がし始める。何かが倒れる音。小さく「いたっ」という声。
二分ほど経って、扉が開いた。
ミントが立っていた。髪が盛大に跳ねている。服はどうにか整っているが、目がまだ半分閉じている。
「……おはようございます」
「起きていたか」
「……今は起きています」
目を細めたまま、それだけ言った。ハルは特に言及せず、階段の方へ歩き出す。
ミントが慌てて後を追いながら、手櫛で髪を整え始めた。
宿を出ると、少し冷たい空気が頬を撫でた。朝の澄んだ空気を肺に取り込み歩き出す。
曇り空の下、朝の光はまだ弱く、石畳はうっすらと湿っている。
「今日も曇りですね」
「ああ」
「……早く晴れるといいですね」
まだ半分眠そうな声だった。
ギルドに着いたのは、朝の鐘が鳴ってすぐのことだった。
だが扉を開けた瞬間、昨日とは空気が違うことに気づいた。
騒がしい。いや、騒がしいというより——慌ただしい。
冒険者たちが装備を確認し、地図を広げ、互いに声を掛け合っている。笑い声はない。全員の目が、どこか鋭い。
「来たわね」
リリアが駆け寄ってきた。
「何があった」
「昨晩、街の外でオーガの群れが目撃されたわ」
「オーガ」
「大型の魔物よ。成人男性の二倍以上の体格で、魔法への耐性も高い。単体でもCランク相当。それが群れで出た」
ミントが眉をひそめる。
「群れで、ですか。珍しいんですか?」
「珍しいどころじゃない。オーガは本来、山を越えた国境付近にしか生息しないはずなのよ」
リリアの声に、わずかに緊張が滲んだ。
「なぜここに」
「それがわからないから、みんな慌ててるの」
ハルは静かに情報を整理する。
本来の生息域から逸脱した魔物の群れ。原因として考えられるのはいくつかある。
食料不足で縄張りを広げた。あるいは、より強い外敵に追われた。もしくは、生息域そのものに何らかの異変が起きた。
いずれにせよ、オーガが山を越えてここまで流れてきたという事実は——山の向こうで何かが起きているという証左に他ならない。
――念のため頭に入れておく必要がある。
「それで、Dランク以下は街の外への外出禁止。あなたたちもしばらくは街の中だけね」
「わかった」
「私も討伐に駆り出されるから、今日は一緒に動けないわ」
リリアはそう言って、少しだけ表情を和らげた。
「無茶しないでよ。街の中の依頼だけ受けてれば安全だから」
それだけ言って踵を返して、仲間の元へ戻っていく。
しばらくして、ギルドの中央に大きな人影が現れた。全員の視線が、自然とそちらへ集まる。
屈強な体躯。普通の男性よりも二回りは大きい。鎧は着込んでいるが、それでも筋肉の隆起が透けて見えるようだった。
顔の左側に、目尻から顎にかけて走る大きな傷跡がある。古傷だ。深く、きれいには塞がらなかった跡。それでも、その傷が男の顔を険しくするどころか、どこか人間くさく見せていた。
年齢は五十前後か。白髪交じりの短い髪。だが目だけが、まだ若い頃の鋭さを保っていた。
「落ち着け」
低く、よく通る声だった。
それだけで、ギルド内の喧騒が一段落ちた。
――あれがギルド長か。
「昨晩、街の北方三キロ地点でオーガの群れ、推定十二体が目撃された」
ざわめきが起きる。だが男は続ける。
「騒ぐな。数は多いが、統率はとれていない。本来の生息域から追われてここまで流れてきたと見ている」
「追われた?オーガが?」
誰かが声を上げた。
「そうだ。山の向こうで何かが起きている可能性がある。それについては追って調査する」
男は一度、ギルド内を見渡した。その視線が、ハルたちのところで一瞬止まった気がした。だがすぐに流れる。
「今日の目的はオーガの駆除と、街への侵入阻止だ。Cランク以上は北門に集合。Dランクは東西の警戒にあたれ。短期決戦だ。放置すればするほど、生態系への影響が大きくなる。以上だ」
簡潔だった。無駄がない。
冒険者たちが動き出す。混乱はなかった。全員が自分のやるべきことを理解して動いている。
近くにいた冒険者が仲間に声をかけるのが聞こえた。
「ギルド長が直々に指揮を取るのか」
「ああ、ライズ・シュバルツ自らが動くとなりゃ、相当だな」
ハルはその名を脳内に刻む。
――ライズ・シュバルツ。ギルド長。
「リリアさんと同じ苗字ですね」
ミントが静かに言った。聞こえていたらしい。
「……強そうな方ですね」
「そうだな」
ただ強いだけではない。あの場を一声で静めた。力だけではできないことだ。
人が自然とついていく人間というのは、ああいうものかもしれない、とハルは思った。
頭にちらっと小隊長の笑顔が浮かんだ。
やがてギルドから人が減っていく。
重い足音が遠ざかり、扉が閉まるたびに、空間が静かになっていく。
最後にライズが出ていく際、ハルとミントに声をかけた。
「お前たち、新顔か」
「ええ、昨日登録しました」
ミントが答える。
「Eランクなら街の中だ。無理はするな」
それだけ言って、出ていった。
威圧感はあった。だが不思議と、嫌な感じはしなかった。
閑散としたギルドで、ハルとミントは受付に向かった。
マオが苦笑いで迎える。
「今日は街の中の依頼しかご案内できませんが」
「わかっている」
並べられた依頼書を確認する。
荷運び、井戸の修繕手伝い、迷子の子供の捜索、市場の荷物整理。
「これを」
ハルは一枚を手に取った。市場の荷物整理。
「こちらでよろしいですか?」
「問題ない」
その時、隣に人の気配がした。
振り返ると、三十代ほどの男が同じように依頼書を眺めていた。革鎧に使い込まれた剣。Dランクの冒険者証。
「あんたら、昨日登録した新顔か?」
「そうだ」
「俺はゼイン。見ての通り討伐には行けないDランクだ」
苦笑いだった。手にしているのは、荷物整理の依頼書だった。
「同じ依頼か」
「ああ。定員が3人だったんで、ちょうどいいと思ってな。一緒に行動させてもらうな」
ハルはミントを見る。ミントが小さく頷く。
「構わない」
市場に着くと、荷物が乱雑に積まれた一角があった。
三人で歩きながら、ゼインが口を開いた。
「あんたら、召喚されてきた口だろ」
ハルは答えなかった。
「否定しないってことは当たりか。まあ、この国じゃ珍しくないんだけどな」
「珍しくない?」
ミントが聞く。
「エルデイシアは昔から召喚をやってる国だ。魔王討伐のためって名目でな。でも実際は——」
ゼインは少し声を落とした。
「召喚された連中を前線に使い捨てにしてるって話だ。魔王討伐なんて建前で、本当は周辺国への侵略の尖兵にしてるって噂がある」
「噂か」
「証拠はない。でも召喚されたやつはいつの間にかいなくなってる。それに、国境付近での戦闘が増えてるのは事実だ。まぁ、元の世界に帰ったっていうのが一般的な説だがね」
ハルは無言で情報を整理する。
召喚の真の目的。使い捨ての尖兵。城内での「処理対象」という言葉。
点が、少しずつ線になっていく。
市場の一角に着くと、荷物が乱雑に積まれていた。
ミントが依頼書を確認しながら言う。
「この荷物を倉庫まで運ぶ依頼ですね」
「この量だと三人で五往復ぐらいか?」
冒険者歴が二人より先輩のゼインが口を開く。
「効率よくやれば三往復で終わりますよ」
ミントが荷物を見渡して言う。
「え、どういう計算だよ?」
ゼインが首を傾げる。
「積み方の問題です」
ミントがにこっと笑った。
「じゃあ私が仕分けしますね」
ミントが荷物の前に立つ。少しだけ目を細めて、全体を見渡した。
それから、驚くほど迷いなく動き始めた。荷物を少し触って揺らしていく。
「これとこれは一緒に。こっちは重いので二人で。これは割れ物なので最後に」
「なんで中身がわかるんだ?」
ゼインが驚いたように言う。
「少し揺らせば音と重さで大体の中のものはわかります。そこからどの順番で運べば一番効率がいいか判断する感じです」
ハルとゼインが重い荷物を、ミントは軽めの荷物を運んでいると、ゼインがぽつりと続けた。
「……さっきの話だけどな。ライズさんは召喚に反対してるって話だ」
「ギルド長が?」
荷物を積みながら、ゼインが続ける。
「ライズさんはもともと傭兵上がりでな。若い頃から最前線で戦ってきた人間だ。だからこそ、力のある者が弱い者を使い捨てにすることを、骨の髄から嫌っている」
「それで国とは折り合いが悪いのか」
「折り合いが悪いどころじゃない。何度か直接掛け合ったって話も聞く。でも国は聞く耳を持たない。召喚は続いてる」
三往復目。ゼインが荷物を置きながら、少しだけ声を落とした。
「まあ、ライズさんにできることには限界がある。召喚者が役目を終えて元の世界に帰るのは、国が認めた名誉なことだからな。文句をつけようにも、表向きは筋が通っている」
「……そうか」
「あんたらも無事に帰れるといいな」
屈託なく言った。悪意はない。ただ、信じているだけだ。
最後の荷物を倉庫に収めて、ゼインが呆れたように笑った。
「本当に三往復で終わったぞ」
「そうでしょう」
ミントが涼しい顔で言う。
依頼を終えてギルドに戻り報酬を受け取ると、外はすでに夕暮れに差し掛かっていた。
「飯でも食っていくか? おすすめの店があるんだが」
ゼインが言う。
「いい店か」
「安くて量が多い。冒険者向けの店だ」
「行こう」
即答するハルの隣で、ミントが小さく笑った。
連れていかれたのは、ギルドから少し離れた通りにある食堂だった。
木の扉を開けると、肉と香辛料の匂いが漂ってくる。武装した客が多い。冒険者御用達らしく、テーブルも椅子も頑丈な作りだった。
三人で席に着く。ゼインが慣れた様子で注文を済ませた。
「この国に来て、まだ日が浅いんだろ。わからないことがあれば聞けよ」
「それでは一つ」
ミントが少し前のめりになる。
「この国はどんな国なんですか?」
ゼインは少し考えてから、料理が来るのを待ちながら話し始めた。
「この国、エルデイシアは大陸の中央に位置する。魔力資源が豊富で、昔から魔法技術が発展している。その力を背景に、周辺国との交易で栄えてきた」
「昔から、ということは今は違うのか」
ハルが聞く。
「……ここ十数年でな。先代の王は穏健派でな。周辺国とうまくやっていた。でも今の王になってから、方針が変わった」
「...」
無言で続きを促す。
「交易より支配に舵を切ろうとしていて、周辺の小国との摩擦が増えている。特に西側のグラデイウスとの関係が悪化している」
料理が運ばれてきた。肉の煮込みと、厚めのパン。素朴だが、確かに量が多い。
「グラデイウスとはどんな国だ」
「魔法よりも純粋な戦闘技術を重んじる文化がある国で武の国と呼ばれている。エルデイシアとは真逆だな。武器もこことは比べ物にならないくらい品質が高いらしい」
ミントがパンをちぎりながら聞く。
「国同士の関係が悪化しているなら、冒険者にも影響があるんですか?」
「それが面倒なところでな」
ゼインが少し渋い顔をした。
「ギルドは本来、国家に属さない独立した組織だ。どの国にも支部があって、冒険者は国をまたいで自由に動ける。だが国が戦争を始めれば、ギルドもその影響を受けざるを得ない」
「基本的にギルドは国家間の戦争には参加しないが、依頼にきな臭いものが増える」
「具体的には」
「国境付近の依頼が多くなる。物資搬送、魔物討伐。それは戦争のための依頼で、遠回しに手を貸していることになってしまうので、見極める必要が出てくる」
ハルは無言で咀嚼しながら、情報を整理する。
エルデイシアの拡張政策。グラデイウスとの対立。
ゼインが最後の肉を口に入れながら、少しだけ疲れた顔をした。
「俺みたいな一介の冒険者には、どうにもできないことだがな」
しばらく沈黙が続いた。食堂の喧騒だけが流れていく。
「……ごちそうさまでした」
ミントが静かに言った。
「おう。また明日も頑張ろうぜ」
ゼインが立ち上がる。
「ああ」
店を出ると、夜の空気が冷たかった。
石畳に足音が響く。空には星もなく、ただ暗い雲が広がっているだけだった。
「……ハルさん」
ミントが歩きながら、静かに言った。
「なんだ」
「……たぶん、面倒なことになりますよ」
それきり、ミントは何も言わなかった。
宿までの道を、二人は無言で歩いた。




