21.ゼインの事情
坑道を出ると、冷たい風が頬をなでた。
日は沈み、辺りは闇と静寂が支配していた。雲が星を隠し、ほとんど何も見えない。坑道の中に満ちていた熱と轟音が嘘のようだった。耳が、静けさに慣れるまで少しかかった。
ハルは折れたブロードソードを手に提げたまま、しばらく動かなかった。
肺が外の空気を吸い込む。煙と鉄の匂いが、少しずつ薄れていく。土と草の匂いが戻ってくる。外の空気が、心地よかった。
ミントが隣に立った。
「帰りましょう」
アイアンドラゴンの眼球と鱗があれば、討伐の証明にはなる。七メートルの体躯を動かすことも、頭を切り落として運ぶことも、二人には無理だった。そもそも今夜のハルに、余分な力は残っていなかった。
山道を下りながら、ハルは自身の状態を確認する。
フル稼働からの治癒で、ナノマシンにはかなり無理をさせた。そのためか、体が動く程度まで回復したところで、ナノマシンは低稼働の自己修復状態へ移行していた。歩ける。だが全身が痛み、芯から重いだるさが抜けない。
思考だけが、やけにはっきりしていた。
村の入り口に、明かりが見えた。
ヘムが松明を持って立っていた。ハルたちが村を出てから、ずっとそこにいたのだろう。
二人の姿を認めた瞬間、ヘムの肩から力が抜けるのが見えた。一歩、前に出かけて、止まる。松明を持つ手が、わずかに揺れていた。
「帰りました」
ミントが言った。
「……お帰りなさいやし」
いつものニヘラとした笑いが、来なかった。
ヘムは早足で近づいてきた。松明を掲げ、ハルの体を照らす。上半身が剥き出しのまま、古傷だらけの体で立っているハルを、一瞬だけ見た。その目が、何かを堪えるように細められた。
「少し、待っててください」
声が、いつもより掠れていた。
ヘムは荷物のそばへ戻り、中を漁って一枚のマントを取り出した。戻ってきて、ハルの肩にそれを掛ける。手つきが、妙に丁寧だった。
ハルはマントを羽織ると、包んでいた眼球と鱗を地面に置き、その場へ腰を下ろした。ミントも倣って座り込む。疲れがどっと出たのだろう。二人とも会話はせず、ただ体の力を抜いていた。
「それで……」
ヘムが、言いかけて、口をつぐんだ。続きを言えずにいる。
ハルとミントは顔を見合わせ、マントを開いてヘムに見せた。
死んで光を失った大きな眼球が二つ。鈍く光る鱗が、数枚。
ヘムは息をのんだ。
ハルを見て、ミントを見て、もう一度、竜の眼球に視線を落とす。それから、ゆっくりと、のんだ息を吐き出した。その吐息が、震えていた。
「……素晴らしい」
言葉が、続かなかった。
「お二人で、本当にあれを……」
そこで一度、口元を手で覆った。村の方を見ないようにしているのが、ハルにはわかった。子どもと年端もいかない若者を二人、竜の住む坑道へ送り出した男の顔だった。送り出したのは自分だという、その重みを、今になって下ろしているように見えた。
ハルは、ヘムの目元が濡れているのに気づいたが、何も言わなかった。
「悪いが、村長への報告はヘムの方からしてくれ」ハルは言った。「おそらく、気が気じゃないはずだ」
「……ええ。ええ、すぐに」
ヘムは何度か頷いた。それから、深く頭を下げた。
「本当に。本当に、お疲れ様でやんした」
その声が、夜の静けさに、しばらく残った。
宿に戻ると、二人はそれぞれの部屋に入り、着替えを済ませた。
ハルはベッドに腰を下ろし、背中を壁につけて、目を閉じた。
眠れなかった。
戦闘の高揚が、まだ体の奥に残っていた。人間を相手にしたのではない。未知の生物との闘い。読み切れない動き、桁外れの質量、口の中の灼熱。あれを倒した。倒せてしまった。その実感が、熱の引かない炭のように、胸の底でくすぶっている。
ハルは目を開けた。
天井を見た。古い木の梁が走っている。どこかで、虫が鳴いていた。
いつの間にか、眠っていた。
夜明けと同時に、村が動いた。
昨日までとは、音が違った。鉱山へ向かう足音、道具を担ぐ掛け声、誰かが誰かの名を呼ぶ声。ひと月のあいだ村を覆っていた沈黙が、嘘のように剥がれ落ちていた。
村の男たちが鉱山へ向かい、アイアンドラゴンの解体と運び出しが始まった。ハルとミントは村人たちから、頼むからゆっくり休んでいてくれと何度も押し戻され、村に残ることになった。
ミントは宿の椅子で本を読んでいた。村長から借りたという、この国の地誌だった。時折ページをめくる音がする。
ハルは広場の隅で、壁に背をつけて目を閉じた。昨日とは違う心地いい雰囲気を味わいながら少しだけ眠った。
台車が三台、ロープと鉤爪。男手が総出で坑道へ入った。
三時間ほどかけて、運び出された素材が広場に積まれていく。金属質な鱗の山。牙が数本。砕いて運ばれた巨大な骨格の一部。それを目にした村人たちが、口々に声を上げた。年老いた男が一人、おそるおそる鱗に触れ、その硬さに手を引いた。子どもが寄っていこうとして、母親に襟首を掴まれた。
広場に積まれた素材を、革細工師と鍛冶師が二人がかりで検分した。
ミントが機械眼で成分を読み、横から補う。鱗は硬度と熱耐性が高く、防具素材として需要がある。牙は魔法触媒。骨格は精錬すれば、武器の芯材になる。
「全部売れば、概算でどのくらいに」
革細工師に訊いた。
「鱗だけで、銀貨五百枚は下りません。牙と骨格を含めれば、八百は超えます」
男たちの間に、ざわめきが走った。誰かが、信じられないという顔で隣の男の肩を叩いた。五百枚あれば、鉱山が止まっていた一ヶ月の損失を、取り返してなお余る額だった。
「お肉はどんな味なんだ?」
誰かが訊いた。
「聞いた話じゃ、滅多に貴族の食卓にも上らねえ代物だそうで。それが、村中で食い放題でやす」
「ほほう、それは楽しみだな!今夜は俺たちが貴族様ってわけか」
誰かがそう言い、笑いが起きた。一ヶ月ぶりの、心からの笑い声だった。
日が高くなる頃には、村中に肉を焼く匂いが満ちていた。
空は、変わらず厚い雲に覆われていた。一ヶ月のあいだ晴れ間ひとつ見せなかった鈍色の蓋が、今日も村の上に低く垂れ込めている。だが、もう誰も空など見ていなかった。煙が、灰色の空へ真っ直ぐに上っていく。
広場に火が組まれ、竜の肉が焼かれた。
脂が炭に落ちて爆ぜる。香ばしい匂いが立ち上る。焼けた一切れを口にした男が、目を見開いた。柔らかく、濃い。聞いていた以上だった。次から次へと手が伸び、子どもが頬を膨らませ、酒が回り、誰かが歌い出した。村は夜通し騒ぎ明かすつもりらしかった。
ミントは女たちに囲まれて、何かを話していた。時折、こちらを見て笑う。
ハルは火から少し離れた場所で、それを見ていた。
だが、その場所も長くは保たなかった。
最初に来たのは、解体を仕切っていた鍛冶師だった。杯を満たし、深く頭を下げ、礼を言う。それから、坑道の中で何があったのかを尋ねた。ハルが短く答えると、男は何度も頷きながら聞いていた。
その男が離れると、入れ替わりに別の村人が来た。また杯が満たされる。また礼を言われる。また、討伐の話をせがまれる。
かわるがわるだった。老人が来て、若者が来て、子を背負った女が来た。誰もが杯を満たし、頭を下げ、竜の話を聞きたがった。ハルが一口飲むより早く、次の手が瓶を傾ける。杯は、減る暇がなかった。
子どもたちが、いつの間にか足元に集まっていた。
「竜って、どのくらい大きかったの」
「七メートルだ」
「火、吐いた!?」
「吐いた」
「こわくなかった?」
ハルは少し考えた。
「……怖くはなかった」
子どもたちが、わっと沸いた。そこから武勇伝は勝手に膨らんでいった。ハルが言っていないことまで、次々と付け足されていく。ハルは、それを訂正しなかった。
火の向こうで、ミントがこちらを見て、小さく笑っていた。少し、面白がっているようだった。
杯は、いつまでも満ちたままだった。
もっとも、いくら飲んだところで、酔いは回らない。アルコールも、ナノマシンにとっては処理すべき毒の一つでしかなかった。喉を通った酒は、酔いに変わる前に分解されていく。村中が夜と酒に溶けていくなかで、ハルの意識だけが、冷たく冴えたまま残っていた。
夜が更けた頃──ハルの感知が、何かを拾った。
火の輪の外。村の暗がり。一つ。敵意はない。
ハルは杯を地面に置いた。立ち上がる。火の向こうで、ミントと目が合った。ミントが小さく頷く。気づいていた。
ハルは何も言わず、広場を離れた。
村の外れ、井戸のそばまで来ると、暗がりから人影が立ち上がった。
ゼインだった。
「久しぶりだな」
三十代の男。いつもの気さくな冒険者の顔は、なかった。顔色が悪く、目の下に隈がある。だが──立ち方が違った。宴の喧騒のただ中を、誰にも気取られずにここまで近づいた。足音ひとつ、立てていない。ただの冒険者の立ち方ではなかった。
「……見つかっちまったか」
ゼインは頭を掻いた。笑おうとして、うまくいかなかった。
「気配を消すのが上手いな」
「そういう世界で生きてきたものでね」
ゼインは壁から離れ、正面からハルを見た。
「──話がある」
ハルは黙って、聞く姿勢を取った。
「あの夜、俺はお前を犯人だと証言した。違うと分かっていて、あの証言をした」
「ああ」
「……知ってたのか」
「あの時のお前の様子が、おかしかった」
ゼインは口の端を歪めた。それから、視線を落とした。
「家族を、人質に取られている。嫁と、娘だ。暗に従わなければ殺すと副ギルド長に脅されている」
風が吹いた。遠くで、宴の笛が鳴っていた。
「二人は王都に住んでいる。あいつらの庭の中だ。屋敷に閉じ込められてるわけじゃない。普通に暮らしてる。買い物に出て、近所と笑って、娘は学校に通ってる」
ゼインの声が、低くなった。
「だからこそ、いつでも殺せる。解放なんてものは、最初から存在しない。人質を返すも何も、ずっと手の届く場所に置いたままなんだからな」
ハルは、しばらく黙っていた。
「お前の状況は、出口がない」
ハルは静かに言った。
ゼインは、ハルを見た。乾いた笑いが漏れた。
「……そうだな。今の俺の状況は、まさに生き地獄だ。だからといって、今回のことを許してくれとは言わねえ」
ゼインは続けた。
「少し、聞いてほしいことがある」
一度、深く息を吐いた。
「俺は冒険者ギルドのDランクだが、それが本業じゃない。暗殺ギルドの人間だ。諜報、追跡、情報収集──そっちが本来の仕事でね。冒険者として潜り込んでいたのも、監視と情報集めが目的だ。Dランクで燻っていたのは、その方が都合がよかったからだ。誰も気に留めない。どこにでもいられる」
「……お前たちの足取りも、首都を出た翌日には掴んでいた」
ゼインは、そう付け加えた。
「そのことを、ギルド長は知っていたのか」
ゼインは少し黙った。
「知っていた。知った上で、泳がせてくれていた。あの人は、俺が何者かを見抜いていた」
「副ギルド長は」
「あいつは気づいちゃいない」
ゼインの声が落ちた。
「俺をただのDランクだと思って使ってる。本当の腕を知られれば、もっと都合よく使い潰されるだけだ」
「副ギルド長の動きは、把握していたか」
「ああ。ライズさんが殺される三日前──ガルドが、王城の人間と接触していた。路地の奥で、金の受け渡しが行われていた。細身の男だった。穏やかな顔をしていたが、目が──恐ろしいほどに冷たかった」
宴の太鼓が、低く響いていた。
「今回の件の黒幕は──」
ハルは、そこで言葉を切った。ゼインを見る。
「ああ。国と、ガルドだ」
想定はしていた。それが、ゼインの証言で、確定に変わった。
「お前がここに来た理由はわかった。謝罪と、情報の提供。──それだけか」
「違う」
ゼインは、まっすぐにハルを見た。
「お願いがある。虫のいい話だとは思うが──」
ハルは黙って、続きを待った。
「結論から言う」
ゼインは、少し間を置くと真剣なまなざしでハルを見て──
「──殺してくれ」




