20.水脈と灼熱
竜の目が、ハルを捉えた。
金色の虹彩が収縮する。一秒にも満たない時間だった。それだけで十分だった。
竜が動いた。
眠りから覚醒へ。その切り替わりに助走はなかった。七メートルの体躯が一瞬で戦闘態勢を取る。首が持ち上がり、胸腔が大きく膨らんだ。
息を吸っている。
ブレスだ。
距離、十五メートル。回避できる空間はない。ミントはハルの右後方、扇状に広がる炎の射程内にいる。ハルは判断より先に動いた。右腕をミントの肩に当て、横へ突き飛ばす。ミントの体が壁際に弾け、視界の外に消えた。
ハルの視界が赤に染まる。
最初の一瞬は、圧力。その直後に全身が燃えた。
旅人の服が弾け飛ぶように焼ける。ナノマシンが即座に反応した。損傷部位を検知し、修復を開始する。焼けた皮膚の下から新しい層が押し上げられてくる。痛みは一瞬だけあって、消えた。
炎が止む。
上半身を覆っていた布は消えていた。
剥き出しになった体には、古傷が走っていた。肩から脇腹にかけての切創。胸の中央を縦断する、何かに抉られたような跡。左の二の腕には熱傷の痕が幾重にも重なっている。どれも塞がっているが、消えることはなかった。兵器として生きてきた年数が、そのまま刻まれていた。
空気が薄い。ブレスが広い空間の酸素を一気に消費していた。
竜がハルを見ている。
竜の側面へ回り込みながら、剣を叩きつける。鱗に弾かれる。火花が散った。手が痺れる。構わずもう一撃。また弾かれる。三撃目は首の付け根を狙った。刃が鱗に食い込み——折れた。
金属が裂ける音。刃の半分が床に落ちる。断面が鋭く光る。残った柄側を左手に握り直した。リーチは半分になった。
竜の硬度確認と、この後の戦闘のことを考えてあえて獲物を折った。このほうが好都合だった。あとは竜のヘイトがこちらに向いてくれれば——
竜の首がハルへ向く。注意が引けた。
(ハルさん、誘導できますか)
ミントの声が頭に響いた。
(問題ない。予定通り動け)
ハルは奥の通路へ向かって走り出す。竜が追ってくる気配がある。石床が揺れる。振り返らなかった。
通路に入った。
竜が続いた。体幅ぎりぎりの狭さだった。左右の鱗が壁を削り、石粉が舞う。
(位置確認。私は竜の後方八メートルです)
(水脈まで二十メートル。このまま引き込む)
竜の胸腔が膨らみ始めた。
またブレスを使う気だ。狭い通路の中で、正面にハル。逃げ場はない。
ハルは壁の一点を見た。機械眼がスキャンデータと照合する。水脈まで一メートル。ここだ。
(ミント、位置についたか)
(はい。いつでも)
胸腔が限界まで膨らんだ。
ハルは息を吸い——止めた。
竜の口が開きかける。その刹那——
(お借りします!)
ハルの眼を強制的に一瞬ハックする。視線が通った——
ミントの視線が竜の口腔を貫いた。炎の点がひとつ、口腔に灯り、次の瞬間、口の中で炎が爆ぜた。
くぐもった轟音が通路全体に響いた。首から頭にかけて、鱗の隙間から煙が漏れる。竜が初めて声を上げた。低い呼吸とは全く異なる、高く裂けた鳴き声。天井から石粉が降ってくる。
同時に、狭い通路の酸素が消えた。
炎が空気を食い尽くした。
息を止めたまま、ハルは動いた。
ナノマシンを最大出力に切り替える。
全身に電流が走った。古傷が——光り活性化を象徴する。肩の切創、胸を縦断する跡、左腕に重なる熱傷の痕。全ての傷が赤く発光し、暗い通路の中でハルの輪郭を浮かび上がらせた。
出力が満ちる感覚がある。同時に、それが削れていく感覚も始まった。砂が落ちていくような、静かな減少。
最小の手数で目的を果たすために行動に移る。
折れたブロードソードの断面を壁に押し当てた。くさびのように食い込ませ、体の中心から力を絞り出す。肩でも腕でもなく、もっと奥から。
――ドンッ。
衝撃が壁の内部を走った。表面には亀裂一本。しかし内側が爆ぜるように砕けた。もう一度。また内部から崩れる。三度目で、壁が割れた。
出力の残りが、半分を切った感覚がした。
冷たい水が吹き出した。
圧力を持った水流が狭い通路に叩きつけられる。竜の体に直撃した。
高温になった鱗に冷水が触れた瞬間——甲高い収縮音が連続して竜の全身を走った。鱗が縮み、浮き上がる。隙間が開く。白く曇った表面が、硬度を失っていくのがわかった。
肺が、重くなってきた。
まだだ。
折れたブロードソードを逆手に持ち直した。柄側で、浮いた鱗を打つ。一枚が剥がれた。続けて打つ。また剥がれる。リズムを上げた。連続した打撃が首の周囲を走り、鱗が雨のように床に落ちていく。竜が暴れようとするが、狭い通路の中では体を回せない。水が流れ続ける中、首の一帯の外皮が剥き出しになった。
肺が、悲鳴を上げ始めた。
出力の残りが、さらに削れていく。古傷の発光が揺らいだ。ナノマシンが酸素消費の抑制と出力の維持を同時にこなそうとして、綱引きをしている。
それでも、淡々とプロセスを進めていく。
腰の薄い剣を抜いた。剣先を、露出した首に静かに当てる。
振りかぶる空間はない。
右の拳を、柄に添えた。
体の中心に力を集める。オーガの腹に触れた時と同じ感覚。ただあの時と違うのは、今は刃が間にある。触れるのではなく、通す。
もうナノマシンの出力維持も限界が迫っている。
そんなことには構っていられない。限界に到達する前にすべてを終わらせる。
――ドンッ。
衝撃が、刃を通じて走った。
一瞬後、首に一筋の線が走りゆっくりと竜の首が、落ちた。
頭が落ちる音の後に体が崩れる音が聞こえ、そのあとは音はなかった。水の流れる音だけが、通路に満ちていた。
活性化限界まであとわずかなことが感覚でわかる。傷口の発光が薄くなっていた。
竜の体が通路を塞いでいる。このままでは酸素のある空間に戻れない。
(ミント。押し出す。後ろに下がれ)
返事を待たずに動いた。
七メートルの体躯に両手を当てる。残った力を全て押し込んだ。
動いた。
少しだけだが、確かに動いた。
押す。また押す。石床を鱗が擦る音が響く。視界が霞み始めていた。肺が限界を叫んでいる。それでも足を踏ん張った。
押す。
押す。
竜の体が、少しずつ後退していく。
突然、冷たい空気が流れ込んできた。
通路の出口だ。ハルは最後の力を振り絞って竜の体を広い空間へ押し出し、そのまま肺が空気を貪るように吸い込んだ。
その瞬間——ナノマシンの出力が、切れた。
古傷の発光が、音もなく消えた。
全身から力が抜けた。膝が折れる。手が床をつかもうとしたが間に合わなかった。体が横に倒れ、冷たい石の上に叩きつけられた。熱い。全身が内側から焼けているようだった。オーバーヒートだ。ナノマシンが限界を超えて稼働した代償だ。
視界が、揺れていた。
足音が聞こえた。
「ハルさん——っ」
ミントの声が近い。駆け寄ってくる気配がある。
次の瞬間、ミントの手がハルの肩に触れた。
「あつっ」
すぐに手が離れた。
「ごめんなさい、動かないでください」
ミントが立ち上がる気配がした。通路の方へ向かっている。
冷たい水が、ハルの体に降り注いだ。
皮膚に触れた瞬間、白い蒸気が上がった。水が体温に触れて、音を立てて蒸発していく。もう一度。また蒸気が上がる。ミントがブーツに水を汲みハルにかけることを繰り返していた。
少しずつ、熱が引いていく。
視界が、戻ってきた。
「……生きてるか」
「生きてます」
ミントの声が、わずかに震えていた。
どれくらい経ったかわからない。
ハルは石の床に横たわったまま、天井を見ていた。暗視モードが拾う天井の岩肌は、何の変哲もない灰色だった。
ナノマシンが修復を始めていた。
オーバーヒートした内部から順番に、熱が処理されていく。血管を流れる感覚がある。熱いものが少しずつ冷たいものに置き換わっていく。皮膚の下で何かが動いている感触。痛みではない。ただ、全身が再構成されていくような、奇妙な感覚だった。
指が、動いた。
次に手首。肘。少しずつ、信号が末端まで戻ってくる。
「ナノマシンの修復が始まってます。急がなくていいです」
ミントが隣に座っていた。膝を抱えて、ハルの顔を覗き込んでいる。目元が少し赤かった。
ハルは何も言わなかった。
天井を見たまま、修復が進むのを待った。
五分ほど経った頃、全身に力が戻ってきた感覚があった。ハルはゆっくりと上体を起こした。腕に体重をかける。問題ない。立ち上がった。足元が少し頼りなかったが、歩ける。
「動けますか」
「動ける」
ハルは通路の方を見た。水が流れていて、そこにアイアンドラゴンの首が転がっていた。
首を持ち帰ることは不可能だった。七メートルの体躯。金属質な鱗に覆われた首だけでも、二人には動かせない重さだった。
ハルは竜の頭部に回った。
暗視モードで確認する。目は閉じていた。瞼の縁に指を当て、こじ開ける。金色の虹彩が、死んで光を失っていた。眼球は鱗に守られた体躯とは違い、柔らかい。討伐の証明として十分な素材になる。
ミントのナイフを借りた。
刃を眼窩の縁に沿わせ、丁寧に切り出す。力はいらなかった。数十秒で終わった。ミントのマントに包む。もう片方も同じようにした。
「鱗も数枚持ちましょう」
ミントが床に落ちていた鱗を拾って目と一緒にマントでくるんだ。
「行きましょう」
ミントが先に立って歩き出した。ハルはその後を追った。




