16.北へ
荷台の幌の中は薄暗く、揺れるたびに積み荷が低い音を立てた。
ヘムの御者台からは鼻歌が断続的に聞こえてくる。陽気な人間だ、とハルは思った。
幌の外から、雨音が聞こえていた。地面を叩くわけでもなく、葉を鳴らすわけでもない。ただ静かに降り続ける、かすかな音だった。幌の布に当たってはすぐに消えていく。
周囲の音は雨に吸収され、程よい静けさが心地よかった。
ミントはいつの間にか目を覚ましていた。積み荷に背を預けて、膝の上で指を組んでいる。
「起きていたのか」
「さっきから」
ミントはそう答えながら、荷台の隙間から外を覗いた。木々の隙間から空が見える。雨雲が空を覆っていて太陽の位置は見えなかったが、体内時計の感覚で正午を回ったところだと判断した。
「眠れましたか、ハルさん」
「ああ」
4時間程度眠っていただろう。感覚だけで体のチェックを行う。体はすっかり回復しているようだった。
しばらく無言が続いた。荷台の揺れと、幌を叩く雨の気配だけがある。街道沿いの木々が風に揺れる音が、幌越しにかすかに届いた。
「ハルさん」
「なんだ」
「昨日のことですが、一応確認がてらお話ししていただいてもいいですか?」
ライズのことだ、とすぐにわかった。
「ああ、昨日ギルド長に教会のことを伝え忘れたことに気づいて追いかけた――」
ハルは昨日のことをミントに説明した。話しながら、自分の声が思ったより平坦なことに気づいた。知らず知らずに感情を抑えていたことに驚いた。
「そうですか」
ミントはそれ以上聞かなかった。責めているわけでも、慰めようとしているわけでもない。ただ確認した、という顔だった。
ハルはライズが息絶える直前のことを何度も反芻していた。首筋に触れた指先の記憶。脈がなかった。呼吸もなかった。
多くの死を見てきたハルだからこそ感じる違和感がそこにあった。死んだ人間の体は知っている。あの感触は、確かにそれだった。それでも何かがおかしかった。
「ミント」
「はい」
「お前は昨日、あの展開を予測していたか」
少しの間があった。
「いいえ」
正直な答えだった。
「ただ、いずれああいったことが起きることは予測できました」
ミントは言葉を切った。それから、少し説明するように続けた。
「私の予測というのは、予知ではないんです。誤解されやすいんですけど」
「どういうことだ」
「正確に言えば、これは"未来を読む"なんて大げさなものじゃありません。光、重力、気温、湿度、風、周囲の物体の材質……あらゆる物理情報を瞬時に解析して、これから起こり得る事象を確率順に並べ、その中で最も可能性の高い未来を選び取っているだけです。今は能力が七割ほどしか発揮できていないので、どうしても精度は落ちますが」
「未来が見えているわけではない」
ミントは頷いて続けた。
「戦闘時なんかは、相手の筋肉の動き、重心の移動、直前の視線の向きから次の行動をほぼ確定できます。オーガの戦闘のときのように、相手の動きを限定できるくらいには」
ハルはそれを聞きながら、ナノマシンによる感覚拡張と似ているようで根本が違うと思った。ハルのそれは脳に入る情報を極限まで広げる。ミントのそれは情報を極限まで絞る。入口は同じでも、やっていることが逆だ。
そこで会話を区切り、少し黙った後口を開いた。
「あらかじめハルさんに、いずれああいったことが起きると伝えておけばよかったです。ただ、確信が持てなくて……」
「悔やんでいるのか」
「……少し」
珍しく、すぐに答えが返ってこなかった。
「想定でもなんでもハルさんに話しておくべきでした。私がもう少し早く行動していれば、昨晩の出来事は変えられたかもしれない。それは考えます」
「俺も同じだ。もう少し考えを巡らせておくべきだった」
ミントがハルを見た。何かを確かめるような目だった。それからゆっくりと視線を前に戻した。
「ハルさんも……後悔するんですね」
「ああ。そっちは?」
「します。ただ、後悔の仕方が多分ハルさんとは違います」
「どう違う」
「私は後悔したら、次の予測に組み込むんです。見落とし、誤った判断、感情、それを踏まえて次はこう行動する——そういう考え方をします」
ハルはそれを聞きながら、自分の思考と比較した。似ているようで、少し違う。ハルも感情で引きずることは少ない。——ただ考えないようにして動き続ける。それがハルのやり方だった。
「合理的だな」
「ハルさんも似たようなものだと思っていましたけど」
「俺はもう少し、雑だ。ただ考えないようにする。それだけだ。考えても時間は戻らないからな」
ミントが小さく笑った。声には出さず、口の端が少し動いただけだった。
「——ハルさんらしいです」
その言葉の意味がハルには分からなかった。らしい、というのが褒めているのか呆れているのか。
追及する気にもならず、ハルは外の音に意識を向けた。幌を叩く雨の気配は変わらなかった。
昼を数刻過ぎた頃、街道の検問に差し掛かった。
幌越しに複数の声が聞こえてくる。ヘムが御者台で応じている声も聞こえた。
「行商ギルド所属、ヘム・ダラクでやす。ギルド証はこちら」
ギルド証の確認しているのか、短い沈黙。
「荷台の確認をさせてもらう」
ハルとミントは無言で視線を交わした。
「やめておいたほうがいいでっせ」
ヘムが冒険者ギルド員に対して、少し厳しく静止を行う。
「なぜだ?」
オホンと一つ咳ばらいをして、ヘムの口調が変わる。
「こちらの荷物は、グラデイウス国の国王に届けるものです。冒険者ギルドが中身を改めるというのはどういうことだか、理解できますよね」
ヘムの声が有無を言わさないものに変わった。完全な越権行為に当たる。
「そ、それは」
そもそも冒険者ギルドに商人ギルドの荷物を改める権利はないので、強制もできない。
「どうされますか?私は構いませんが、荷物を改めた場合はあちらに報告させていただきます」
少し間が開いて、通って良いと声が聞こえてきたあと、ゆっくりと馬車が動き出した。
ハルとミントは幌の隙間から、外の様子を窺う。雨の中、かなり大人数の検問だった。街道沿いに複数のギルドの冒険者が立っている。濡れた外套を纏った者も多く、長時間ここで張っているとわかった。
首都から手が伸びるのがこれほど早いとは、ハルは想定を軽く上回っていた。
声が遠ざかってから、ハルは静かに息を吐いた。
しばらくして、ヘムが幌を少しだけ開けて顔を覗かせた。
「通りやしたよ。お疲れ様でやした」
ニコリと笑って、ヘムはそう伝えた。それからそのまま幌を戻そうとしたので、ハルは声をかけた。
「ヘム」
「へい」
「商人ギルドというのは、どこまでの情報を持っている」
ヘムは少し考えるように間を置いた。外の様子を確認してから幌を少し広く開けて口を開いた。
「国境を越えた商売をしている以上、各国の政治的な動きは把握しておかないと商売になりやせん。どの街の物価が動いたか、どこで戦が起きそうか、どの貴族が失脚したか……そういった情報は、ギルド内で共有されていやす」
「今回の件も把握しているか」
「王都で何かがあったことは。詳細までは」
嘘をついている顔ではなかった。ただ、詳細を知らないのか、詳細を言わないのかは判断できなかった。
「一つ聞いていいか」
「へい」
「なぜ助けた」
ヘムは少し目を細めた。困ったというより、どこから話すか考えている顔だった。
「山賊から助けていただいた恩返し、というのは勿論ありやす。でもそれだけではありやせん」
ヘムは続けた。
「商人ギルドというのは、国に属さない組織でやす。どこの国とも契約はしていやすが、どこの国の傘下にもない。国を跨いで動く以上、どこかの国に肩入れしすぎると商売が成り立たなくなる」
「中立を保つということか」
「保ちたいとは思っていやす。ただ——」
ヘムは少し言葉を選んでから続けた。
「あっしは中立というのは、どちらにも加担しないということではなくて、筋の通らないことには加担しない、ということだと解釈していやす。どうも最近召喚の国は胡散臭い。最近召喚したという話も聞いておりやす」
ヘムは二人をちらりと見て言葉を続ける。
「召喚しておいて、使えない場合はポイっなんていうのは、許せませんでさ。それにお二人の目を見てると思うんでさ。追われるべき理由があるようには見えないんでさ」
それだけ言って、ヘムは幌を閉めた。御者台に戻る気配がして、また鼻歌が始まった。
その鼻歌を聞きながら、ハルはヘムという人間の輪郭を少しずつ掴もうとしていた。商人でありながら情報を持ち、権力に対して臆せず、それでいて余計なことを聞かない。
「信用できると思いますか」
ミントが静かに聞いた。
「今のところは」
「私もそう思います」
ミントは少し間を置いてから続けた。
「ただ、ヘムさんが動いた理由はたぶんそれだけじゃないですよ」
「気づいているか」
「何かを見極めようとしている目をしています。敵か味方、使えるか使えないかではなく。もっと違う何かを」
ハルは答えなかった。ミントの言う通りだと思ったからだ。そしてそれが今すぐ脅威になるとも思わなかった。ヘムが何を見極めようとしているにせよ、今は北の村まで連れて行ってくれる。それで十分だった。
さらに数刻、だんだんと外が暗くなり始めていた。雨雲の向こうで太陽が傾いているのだろう。山の稜線に差し掛かる時間らしい。
太陽が沈むにつれ空気がわずかに冷えてきた。雨が体温を奪う速さが少しだけ上がった気がした。
荷台の揺れが変わった。石畳から土道に切り替わった感触だ。車輪が地面を噛む音が低くなり、馬の歩調もわずかに落ちる。
「そろそろ着きやすよ」
ヘムの声が聞こえた。
幌の端を少し持ち上げると、木々の間に灯りが見えた。小さな村だ。家屋が十数軒、石造りの壁に木の屋根を重ねた造りが並んでいる。雨に濡れた石壁が灯りを反射して、ぼんやりと光っていた。村の中心には井戸があり、その周囲に荷物を抱えた人影がいくつか動いていた。
煙が数本、夕空に向かって真っ直ぐに上がっている。風がほとんどなかった。雨の中でも煙は乱れず、細く静かに空へ消えていった。
どこかの家から肉を焼く匂いが漂ってきた。脂の焦げる香ばしさと、香草らしい青い匂いが混ざっている。胃が小さく反応した。
馬車が村の入口で止まった。ヘムが御者台から降りてくる気配がした。地面を踏む音、それから馬をなだめる低い声。
「とりあえず今夜はここで。顔なじみの宿屋がありやすので、そちらを紹介しやす」
幌を開けたヘムが、二人を見て少し目を細めた。冷たい雨の空気が荷台の中に流れ込んできた。
「温かいものが食べられやすよ」
それだけ言って、先に歩き出した。
ハルはミントを先に降ろしてから荷台を出た。地面に足がついた瞬間、体が重さを思い出したように沈んだ。細かい雨粒が頬に当たった。冷たかった。
村の空気は街とは違った。煙と土と、草の匂いがする。雨が石畳を静かに濡らしていた。
ミントが隣に並んで、ヘムの背中を目で追った。
「ようやく落ち着けそうですね」
「そうだな」
ハルはそれだけ返して、歩き出した。雨はまだ、静かに降り続けていた。




