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15.憎悪

 ライズ・シュバルツが死んだ。その事実が、街の空気を変えた。

 雨が降っていた。音もなく、静かに、石畳を濡らす細い雨だった。

 ギルドの掲示板からは依頼の半分が外され、残った冒険者たちは口数が少なくなった。

 受付のマオは業務をこなしながら何度も奥へ引っ込み、赤くなった目を隠して戻ってきた。

 常連の冒険者たちは食堂の隅に固まって、声を潜めて話した。笑い声はなかった。

 ギルドが設立されてから、一番の静寂に包まれていた。


 副ギルド長ガルド・ハイネスが臨時ギルド長として執務室の椅子に座ったのは、ライズの件があった翌朝のことだった。

 椅子は少し大きかった。

 ガルドはそれを意識しないようにしながら、書類に目を通した。依頼管理、冒険者の等級査定、街の警備との連絡。どれも自分でも処理できる内容だった。ライズがいなくても問題なく回せる。いや、むしろ自分のほうがうまく、効率的に回せるとすら思った。あの男は人情に厚すぎた。感情で動きすぎた。だから国に睨まれた。組織というのは頭が冷えていなければ長続きしない。

 物思いにふけっているとノックがあり、部下が入ってきた。

「ハルとミントの捜索状況を報告します。現在、ギルドの全戦力を各方角に展開していますが、依然として発見に至っておりません。ただ、北の山岳地帯への追跡班からの連絡が途絶えています」

「途絶えた理由は」

「不明です。先日のオーガの件といい、北側は何か異変が起きているようで、そのせいかもしれません。この件以前も北のほうの依頼で行方不明になっている冒険者は多く……」

「そうか。引き続き全方位の捜索を続けろ。追跡班の代替要員を手配しろ」

「はい。それと——リリア・シュバルツが単独で行動しています。ギルドの指揮系統を外れており、管理が困難な状況です」

「放っておけ」

「しかし——」

「あの娘は戦闘力が高い。今はまだ使える。ただ、時が来たら考えねばならん」

 ガルドは書類をめくった。

「ライズの子だ。少し泳がせても問題ない。ハルとミントを見つけ次第、連絡させろ」

 部下が退出した。ガルドは一人になってから、窓の外に目を向けた。雨が窓ガラスを伝って流れていた。

 うまくいった。

 にやりと不敵な笑みが浮かぶ。ライズは邪魔だった。召喚制度に噛みつき、国の方針に口を出し、裏でいろいろと嗅ぎまわっていた。いずれ排除されるべき存在だった。ハルとミントという異物が現れたおかげで、行動を早めただけにすぎない。

 ガルドは机の引き出しを開け、王城のセインから届いた封書を取り出した。昨夜、密使が運んできたものだ。蝋で封じられた紙を開くと、整った字が並んでいた。


   計画は完遂された。ご苦労だった。

   次の段階に移る。引き続き協力を求める。

   ギルドの掌握を急げ。特にライズに近かった冒険者の動向を逐一把握し、不穏な動きがあれば即座に報告せよ。

   ハルとミントは確実に排除しろ。今回の計画を完璧なものに仕上げろ。

   少しのほころびも許されない。

   使えないものは消せ。


 ガルドは封書を蝋燭の火にかざした。紙が燃え上がり、灰になった。

 使えないものは消せ。

 ガルドはその言葉が自分にも向けられていることを知っていた。わかった上で従っている。それが処世というものだと、長い年月をかけて学んだことだった。


 同じ頃、王城の執務室では国王と側近のセインが向かい合っていた。

「ライズの件は完璧でしたな。あそこまでうまくいくとは」

 セインは穏やかな声で言った。国王は窓の外を見ていた。城下の街が見える。小さく見える建物の1つに、ギルドがある。雨に煙って、その輪郭はぼんやりと霞んでいた。

「召喚者の少年はどうした」

「自室に戻り、閉じこもっています。精神的に不安定ですが、問題ありません。副作用が進行すれば、次の用途に使えます」

「使い道があるうちはいい」

「はい。また、ハルという召喚者については——」

「もう用なしだ。王都から離れてくれたのは好都合だ。邪魔な人間は一度に消してしまえ」

「御意に」

 セインは一礼して退出した。廊下を歩きながら、薄く笑った。

 計画は予定通りに動いている。いや、予定より少し速いかもしれない。ライズが消えたことで、ギルドは文字通り骨抜きになった。今ならガルドがうまく掌握するだろう。

 召喚者たちは国の制御下に置かれることになる。ハルとミントという異物は残っているが、排除も時間の問題だろう。リリアひとりに圧倒されたと聞く。

「想定以上にうまくいっている」

 セインは廊下の角を曲がり、そうつぶやくと、ほくそ笑んだ。細長い窓の向こうで、雨は静かに降り続けていた。


 リリアは走っていた。

 もう何日たったのか――数えるのをやめていた。街を出て、北の街道を走り、森を抜け、村を回り、また街道へ戻る。ずっと雨だった。降り始めた日から、止む気配がなかった。

 ギルドの捜索班が展開しているルートは把握している。だからそれとは別のルートを選んだ。自分一人のほうが足が速い。

 氷を足場にして崖を駆け上がり、頂から眼下を見渡した。街道が細い線のように続いている。雨に霞んだ視界の中、旅人と行商人が数人行きかっている程度で目立つ者はいない。

 ハルとミントはいなかった。

 憎かった。

 憎しみというものをリリアは今まであまり知らなかった。嫌いな人間はいた。腹が立つこともあった。でもこれは違う。あの光景を思い出すたびに胸の奥が灼けるように熱く、同時に破壊的な衝動が全身を駆け抜けてくる。

 ライズが死んだ。

 あの場所で、血の中で倒れていた。そのそばにハルが立っていた。地面には血に濡れたハルの剣があった。

 握ったライズの手はまだ温かかった。ガルドがハルを指さし、そこにいた全員がハルを見た。

 その瞬間に溢れたどす黒い感情——憎しみと怒り。

 氷が生まれた。意識するより先に指先から魔力が溢れて、怒りが形になっていた。ハルに向かって放ち、すべて受け流された。

 それでも止まれなかった。

 この一撃で終わってくれればよかったのに。そのあとは全身全霊でハルを"殺そう"とした。自分自身が止められなかった。ちゃんと考える余裕もなかった。憎しみと怒りのままに体が動いていた。まぶしい光で目がくらむまで、リリアは攻撃をやめなかった。

「……なんで」

 声が出た。誰に言うわけでもなかった。冷たい雨粒が頬に当たった。風はなかった。静かに、雨は降り続けた。

「なんでライズを——」

 喉が詰まった。泣かなかった。もう涙は枯れてしまっていた。

 ライズにリリアは幼いときに拾われた。両親が死んで、街で行き倒れていた七歳のリリアを、ギルドへ連れて帰った。飯を食わせて、剣を持たせて、戦い方を教えた。

 厳しかったが、同時に温かい人だった。本当の親だと思うようになってから随分と立つ。どんな時も気にかけてくれていた。

 ――ギルドマスターになること。ギルド長に救われたように、多くの人を救いたい。

 あの二人に夢を語ったのが、昨日のことのようだった。

 ハルは「リリアなら出来る」と言った。ミントがにこにこしていた。三人で焼き菓子を食べながら歩いた。日が落ちかけた市場の通りで、並んで歩いた。

 ――なんでなんでなんで

 疑問が頭の中をぐるぐる回る。信じていた。騙された。でも本当に全部嘘だったのかと問われると、答えが出ない。それが余計に腹立たしかった。

 ライズがいないギルドに、リリアは帰りたくなかった。ガルドが臨時ギルド長として座っているあの椅子を見たくなかった。

 だから走り続けた。二人を探しながら、ライズがいなくなった街から逃げながら、走り続けた。濡れた服が体に張り付いていたが、止まる気にはなれなかった。

 見つけたら、きっと憎しみに任せて剣をふるうだろう。この感情のぶつけ先がそこにしか存在していないのだから。

 ――今度こそライズの仇をとる

 リリアは目を閉じた。

 冷たい雨が、静かに降り続けていた。

 憎い。

 それだけしかなかった。


 ライズを殺した次の日からユウトは食事と睡眠以外、すべての時間を訓練場で過ごしていた。

 体を動かして自分を追い込んでいるとき、何かを攻撃しているときだけ、心が落ちついた。朝が来て、訓練して、食事をして、夜になる。仲間たちともほとんど会話を行っていなかった。

 カナが声をかけにきても短く返すだけで、ナナミが廊下で泣いていても部屋に戻った。

 毎晩、ファルが食事を運んでくる。いつも元気なファルだが、ユウトの様子がおかしいのを感じて、優しく声をかけてくれた。

 最初の二日は返事もしなかった。皿だけ受け取って扉を閉めた。三日目の夜、ファルが「食べられそうなものがあれば言ってください」と言った。押しつけがましくない、ただそれだけの言葉だった。

 ユウトは何も答えなかったが、扉をすぐには閉めなかった。

 四日目、ファルが温かいスープを持ってきた。「今日は冷えるので」とだけ言って、返事を待たずに廊下へ戻ろうとした。

「……ありがとう」

 声が出た。自分でも驚いた。ファルが少しだけ振り返って、笑顔で小さく頷いた。それだけだった。

 それからユウトは、夜にファルが来る時間を待つようになっていた。


 手が震えている。守ろうとした。守るために人を殺した。

 ずっと震えている。あの夜から止まらない。人を刺す感覚がまだ手のひらに残っていた。ライズという人間を刺した。そのことを頭で理解してから、胸の中で何かが壊れた音がした。

 仲間を守るために動いた。それは本当のことだ。カナとナナミを、ここで守らなければならないと思った。ライズが危険だと言われた。信じた。信じて行動した結果がこれだ。

「……俺は」

 声が出た。続きが出なかった。

 最後にライズのそばで膝をついていた少女の顔が浮かんだ。銀髪の少女。ライズの手を握って、肩を震わせていた。あの顔を見た瞬間に自分がやったことの重さがどっと押し寄せてきて、ユウトは闇の中へ消えた。

 机の上の水が入った器を見た。手を伸ばして、掴んだ。握った手に力が入って、そのまま床に叩きつけそうになって——

 ユウトは手を止めた。器を静かに戻した。

 波のようにやってくる感覚がある。

 ――破壊したい

 何もかもを壊したくなる。物を、壁を、何かを。それが自分の中に生まれ続ける。止め方がわからない。最近頻度が多くなってきている。

 ユウトは膝を抱えて、壁に背中をつけた。目を閉じると、ライズの顔が見えた気がした。闇の中で倒れた男の顔。

 ——なぜ。

 ライズはユウトの何倍もの実力を持っていた。返り討ちにもできたし、逃げることもできた。でもそうしなかった。自ら刺されたようにすら見えた。

 あのとき何を思っていたのか今となってはわからないが、こちらを気遣っていたようにも思えた。

 それが余計に苦しかった。怒ってくれればよかった。そうしてくれれば、もう少しだけ楽になれた気がした。


 扉がノックされた。

 静かな、遠慮がちなノックだった。すぐに誰か分かった。

「……ユウト様。夜食をお持ちしました」

 ファルの声だった。ユウトは立ち上がって扉を開けた。ファルが小さな盆を両手で持って立っていた。ほんの少し焦げた匂いのするパンと、湯気の立つミルクが載っている。

「今日、上手く焼けなかったので……。もし食べられそうなら」

 謝るような顔をしていた。ユウトは何も言わずに盆を受け取り、壁際に座った。ファルが扉を閉めようとした。

「いてくれていい」

 口から出てから、少し驚いた。ファルも驚いた顔をしたが、何も言わずに扉の内側で静かに座った。

 ユウトは焦げたパンを食べた。旨くはなかったが、温かかった。ファルは何も聞かなかった。何も言わなかった。ただそこにいた。

 その静けさの中で、何かがゆっくりと緩んでいった。張り続けていたものが、音もなく解けていくような感覚だった。

 知らず涙が流れてくる。嗚咽が止まらない。ファルはそんなユウトを恐る恐る抱きしめた。

 嗚咽が寝息に変わるまでそう時間はかからなかった。ファルは自身の膝にユウトの頭をのせて撫でた。

 その寝顔は穏やかだった。眉間の皺も、震えていた手も、今は静かだった。まだ何も知らなかった頃の——召喚される前の、ただの高校生だった頃の顔に戻っているようだった。

 ファルは撫でる手を止めずに、その顔を見下ろした。優しい目をしていた。

 窓の外では、雨がまだ降り続けている。

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