14.逃亡
戦闘は一方的だった。
空中に氷のナイフが生成される。六本、七本、八本。それが一斉に飛んでくると同時に、リリア本人が氷の剣を手に踏み込んでくる。牽制と本命が同時に来る。情報量が多い攻撃は脳での処理が遅れる。
ハルは拾ったライズの剣で本命だけを受け流し、避けられない氷のナイフは体に受けた。
――キン
刃が軍服を叩く、硬質な音。氷がこんな音を出すなんて信じられないが、魔法はハルにとって未知数のものだ。氷が鉄以上の強度を持ってもおかしくはない。
ハルの軍服はかなりの優れものだった。防刃、防弾、温度調整、ナノマシン用の冷却システム。長時間の作戦に耐えられるように設計されている。近代兵器の高周波ブレードや高威力の銃弾には耐えられないが、異世界程度の文明レベルの武器であれば基本どんな攻撃も致命傷にはならない。
魔法に関しては未知数だったが、リリアの氷は物理的なもののようで、今のところ防げていた。
ただ、防刃防弾といっても衝撃は別の話だった。ナイフが当たるたびに鉛玉が撃ち込まれているような衝撃が、剣が当たるたびに鉄の棒で殴られているような衝撃が走る。内臓が揺れる。呼吸が乱れる。それを処理しながら次の攻撃に備えなければならない。
顔への攻撃だけは完全に避けた。それ以外の体への斬撃はある程度許容するしかなかった。それくらいリリアの攻撃は激しかった。
怒りで精度が落ちるどころか、研ぎ澄まされていた。
雨が激しくなっていた。石畳を叩く音が絶え間なく続き、視界が白く霞んでいた。雨粒が顔を叩き、足元の水が跳ねる。リリアの銀髪が濡れて顔に張り付いていた。それでも動きは一切鈍っていなかった。
ハルは後退しながら、リリアの動きを読もうとしていたが――読めなかった。
急所を的確に狙うわけでもない。最大出力でハルのどこかに当たればいいという攻撃。合理的ではなかった。だが、それが逆に厄介だった。人間の体はどこでも急所になりえる。足が飛ばされれば動けなくなる。腕が飛ばされれば防御ができなくなる。最小の攻撃で最大の成果を得るような戦い方ではないが、この手の攻撃には読む側の予測が通用しない。
副ギルド長に武器を没収されてしまったので、今手にあるのはライズの血で塗れた剣だけだ。ナノマシンは制限下、機械眼もない。この状況でリリアの本気を捌き続けるのは、じわじわと限界に近づいていた。
服が特別なものでなかったら、とっくに死んでいるだろう。
氷の刃が口元を掠めた。一センチずれていれば顔面に刺さっていた。
対話しようにも、喋る余裕はハルにはなかった。
ガルドは動かなかった。腕を組んで、少し離れたところから見ていた。冒険者たちも囲んだまま動かない。リリア一人で十分だと判断しているのか、それとも——消耗しきったところで全員まとめて片付けるつもりなのか。
前者だろう。この激しい攻撃の中に加勢しても邪魔にしかならない。乱戦になればリリアの動きが制限され、逃げ道が生まれる可能性はあった。しかし向こうもそれは織り込み済みらしく、冒険者たちは隙を見せないまま、ただ囲み続けていた。
壁が背中に当たった。退路がなくなった。リリアの次の踏み込みが来る。
ハルの今までの経験が死の警告を鳴らす。
——そのとき、閃光が走った。
雷ではなかった。白に近い強烈な光が、通り全体を一瞬で塗り潰した。視界が飛んだ。冒険者たちの怒号が重なった。リリアの動きが止まった。
腕を引っ張られた。
細い手だった。
「こっちです」
ミントの声だった。
ハルは引かれるまま走った。光がまだ残っている間に路地に入り、角を曲がり、また曲がった。
背後でリリアの声が聞こえた。名前を呼ばれた。
雨音がその声を飲み込んでいった。
振り返らなかった。
廃屋の中は暗かった。ミントが扉を閉め、息を整えてからハルの腕を見た。外の雨音が壁越しに聞こえていた。
「大丈夫ですか」
「問題ない」
「嘘つかないでください」
ハルはあきらかに消耗している。外傷はないが、ミントの眼はハルの体の状況を的確にとらえていた。複数個所の打撲、肋骨に複数個所のひび、左上腕の骨にひび。
しばらく沈黙があった。雨が屋根を叩き続けている。
「闇に紛れてできるだけ遠くに移動しましょう。このまま騒ぎが大きくなるとまずい」
ハルを少し休ませてやりたかった。しかしそうも言っていられる状況ではなかった。
「私たちの眼があれば暗闇でも動けます。なので——ハルさんの眼へのアクセスを許可してもらえますか」
ハルは少しの間、黙っていた。
機械眼には軍の機密が眠っている。アクセスを許可すれば、ミントが何を読み取るかわからない。
本来ならば、漏洩の危険があるなら死を選ぶべきだ。それが軍人としての正しい判断だった。
正しい判断なのだが――。
頭の中にライズの声が残っていた。目を閉じる直前の、穏やかな声。
――リリアを頼む
軍人としては間違いだ。それはわかっている。
「……最低限の機能回復だけでいい。それ以上は触るな」
「わかりました」
ミントは少しだけ目を細めた。ハルの心情の変化を読み取ったのか、小さく頷いた。
二人の機械眼が微かな光を帯びた。データのやり取りが始まる。ノイズが走り、徐々に安定していく。
夜の闇が薄れた。建物の輪郭が、壁の亀裂が、外の路地の石畳が、昼間と変わらない鮮明さで見えてくる。
(暗視と狭い範囲の探知機能、通信だけ回復しました)
直接脳にミントの声が響く。久しぶりの感覚だった。
(北に向かいます。街から離れるまでは機械眼の通信システムを使いましょう)
私はこの通信方法嫌いですけど、街から離れるまでは我慢します。ミントの不服そうな声が頭に響いた。
(オーガの件で混乱が残っているはずです。そちらなら追手が散りやすい)
(わかった。ただ一緒に来る必要は......)
(いえ、私も行きます。正直ここに一人残っても、良くない未来しか見えません)
それ以上は聞かずに、ハルは立ち上がった。ミントはそれを肯定と取り一緒に行動を開始する。
扉を開けると、雨の夜が広がっていた。土砂降りはまだ続いていた。人気がなかった。
そっと外壁まで移動すると、門から普通に外に出た。門番はいたが、すんなり通してくれた。まだ話はここまで届いてはいないようだ。
街から少し離れるとハルはミントを抱えて、全速力で北に走り出す。雨粒が顔を叩き続けた。腕や肋骨のひびはすでにナノマシンが治癒を始めている。痛みはあるが我慢さえすれば行動に何の問題もない。
街の灯りが雨の向こうに滲み、遠ざかっていった。
日が昇るまでの数時間、ハルはミントを抱えたまま走り続けた。
夜明けが近づく頃、雨はようやく細くなり始めた。空が白み出すと、目立たないように森の中を移動しながら北上した。どうやら追手は来ていないようだった。濡れた地面が足音を消してくれていた。
ハルは走りながら、何度もライズの最期を振り返っていた。
――おかしい。
脈はなかった。呼吸も止まっていた。状態は死を示していた。今まで多くの人間の死を見てきた。戦場で、任務で、理不尽に奪われた命を数えきれないほど見てきた。
それでも、あの瞬間に感じたわずかな違和感が消えなかった。それが何なのかわからないまま、ハルは走り続けた。
山に差し掛かったのは昼を過ぎた頃だった。雨はすっかり上がり、濡れた葉が光を反射していた。獣道を外れた斜面で、怒号が聞こえた。
(三人、いや四人)
ミントの声が脳に届いた。
(一人が地面に伏せています。荷物を持っている。商人か行商人かと)
ハルは足を止めた。斜面の先、岩陰から状況を確認する。
男が四人、馬車を取り囲んでいた。馬車の前では、派手な色の上着を着た小太りの中年男が地面に座らされている。
「有り金全部出しな。それと荷物も」
「わかりました、わかりましたから、どうか——」
男の声は情けなく上擦っていたが、どこか妙に落ち着いてもいた。
(行きますか)
(ああ)
ハルはミントを降ろし、斜面を駆け下りた。
四人を片付けるのに時間はかからなかった。ただ、いつもより動きが重かった。判断は正確でも、体がわずかに遅れてついてくる。
最後の一人が岩に背中を打ちつけて動かなくなったとき、ハルは振り返った。
中年男は地面に座ったまま、目を丸くしてハルを見上げていた。
「……いやはや」
男はゆっくり立ち上がり、上着についた土を払った。
「助かりました。命の恩人でっさ」
男はハルとミントを交互に見た。それから、少し間を置いて言った。
「あなた方、北に向かっているんしょう?」
「何故そう思う」
「山を北に抜けるのはこの道しかないんでさ。で、こんな獣道を使うのは急いでいるか、人目を避けているかのどちらか」
男は笑った。愛嬌のある笑い方だった。
「私はヘムと申しまっさ。商人ギルド所属、国をまたいで商売をしている、ただの行商人でっさ」
ヘムは荷台を指さした。
「北の村まで行く予定なんですが、よければ荷台に乗っていきませんか。お礼の代わりに」
(どう思う)
ハルはミントに通信を飛ばした。
(悪い人ではないと思います。それに——正直ハルさん、限界に近いです)
ハルは返事をしなかった。ミントの言う通りだと、自分でもわかっていた。
傷や骨のヒビはナノマシンのおかげですでに回復していた。ただ、一睡もしていない上に極度の緊張状態が続いていたこともあり、休息は必要だと感じていた。
――休めるときに休んでおかないと、いざというときに動けない。
よく隊長に言われていたことだ。
「世話になる」
「いえいえ、こちらこそ」
ヘムはまた笑った。先ほどと同じ、愛嬌のある笑い方だった。
荷台に乗り込むと、ヘムがタオルと外套を2つ差し出してくる。
「これは?」
「うちの商品でさ。お礼といっては何ですが、その格好では何かと目立つでしょう。一応、結構いい生地を使ったマントでして。とにかく今着ている服を乾かしてくだせぇ」
ハルは受け取った。ヘムがある程度状況を察していることは明らかだった。それでも何も聞かない。
荷台は厚い幌で覆われていた。ヘムが入り口の布を内側から結んでくれた。外の光が遮られ、荷台の中が薄暗くなった。
荷物の隙間に二人分のスペースがある。それだけで十分だった。
濡れた服を脱いでタオルで体を拭い、荷台の端に干した。
ミントは息を飲んだ。
古傷だらけだった。肩から背中にかけて、いくつもの傷跡が重なり合っている。切り傷、火傷、何かに抉られたような跡。
どれも完全には消えずに残っている。その上に今夜リリアにつけられた新しい打撲の痕が、青黒く広がっていた。
ハルは気にした様子もなく、タオルで髪を拭いてマントを羽織った。
「……痛くないんですか」
「慣れた」
それだけ言って、腰を下ろした。ミントはしばらく何も言えなかった。
それから、ミントも濡れた服を脱がなければならないことに気がついた。
「……あの、少し、向こうを向いていてもらえますか」
ハルは無言で視線を幌の端に向けた。ミントは手早く服を脱いでタオルで体を拭い、マントを羽織った。思ったより時間はかからなかったが、薄暗い荷台の中で頬が少し熱かった。
「……終わりました」
「ああ」
揺れに合わせてミントの肩がハルに当たった。しばらくして、ミントの呼吸が深くなった。眠ったらしかった。
ハルは幌の隙間から外を見た。山の稜線が遠ざかっていく。街はもう見えなかった。雨上がりの空が、遠くで薄く晴れ始めていた。
御者台からヘムの声がした。
「北の村まで二日ほどかかります。ゆっくり休んでいてください」
それだけ言って、ヘムはそれ以上何も聞かなかった。
追われている理由も、どこから来たのかも、何者なのかも。
ハルはそれが、単純な無関心ではないと感じた。そんなことを考えながら目を閉じた。意識が落ちるまで、時間はかからなかった。




