10.召喚者
召喚されてから、十四日が経った。
佐伯ユウトは訓練場の端で息を整えながら、日数を数えていた。
二週間。たったそれだけで、自分の体はずいぶん変わった。
魔法が使える。
それだけで、もう十分すぎるくらい異常なことのはずなのに、今のユウトにはもう"当たり前"に近い感覚になっていた。人間の適応力とは恐ろしいものだと、どこかで他人事のように思う。
「ユウト、もう一本行くぞ」
教官の声に、ユウトは顔を上げた。
四人の訓練は、毎朝この広場で行われていた。
石畳の四方に的が並んでいて、それぞれの適性に合わせた課題が出る。ユウトは攻撃魔法——炎の魔法と肉体強化での近接訓練。カナは治癒と補助。ナナミは土と風と速度強化に慣れる訓練。そしてアキトは、氷属性の魔法全般。
教官はオルドという五十代の細身の男で、退役した兵士らしい。物腰が柔らかく、怒鳴ることもない。説明は丁寧で、四人それぞれの進捗をきちんと見ている。ユウトはオルドのことを、素直に信頼できる大人だと思っていた。
「ナナミ、今日は調子がいいな。魔法が安定しているし出力も高い」
オルドが声をかける。四人の中でもナナミが一番ストレスを感じているのか、情緒が安定しない。調子のいい日と悪い日で魔法の出力がまるで違う。本人も困惑しているようで、このところ毎朝、自問自答して自分の調子を確かめている。
昼前に訓練が終わり、四人は連れ立って食堂に向かった。
城の廊下は天井が高く、足音が響く。石の壁に細長い窓が並んでいたが、こちらの世界に来てから太陽というものを見た記憶がない。常に曇り空だ。気になって質問してみると、元の世界でいう梅雨のような時期らしい。
「毎日、魔法が強くなっているよね」
アキトがユウトの隣を歩きながら言った。
「そうか?」
「うん。なんか……すごいな、って思ってる」
アキトはそういう物言いをする。人の良いところをさらっと言って、それ以上続けない。押しつけがましくなくて、ユウトはそれが嫌いじゃなかった。
「アキトこそ、魔法の威力上がったんじゃないか?」
「……あんまり、実感ない」
アキトは少し視線を落として、ぼそっと答えた。
自己評価が低いというか、自分に関心が薄いというか。四人の中でアキトだけが、魔法の上達をあまり喜ばない。不思議なやつだとユウトは思っていたが、人それぞれだと思うことにしていた。
後ろをカナとナナミが歩いている。二人は小声で何か話していた。ナナミが笑って、カナが微笑んだ。
ユウトはその光景を一瞬振り返ってから、前に向き直った。
——あの笑顔が絶えないように、自分が頑張らないと。
まだ二週間で、この世界のことは何もわからないけれど——力がついている。それだけが、今のユウトの支えだった。
——みんなを守るためにはいくら力はあっても問題ない。もっと強く、強く。
食堂に入ると、見慣れた顔が数人、おぼつかない様子で食事の準備をしていた。
同じくらいの年頃の若者たちで、三人いる。ユウトたちの食事の給仕や部屋の世話をしてくれている。最初は少し戸惑ったが、今ではすっかり見慣れた光景になっていた。
ナナミが席に着くと、そのうちの一人が温かいスープを静かに置いた。
「ありがとう」
ナナミが言うと、相手は小さく頷き、ぎこちない笑顔を浮かべる。
「どうぞ!!」
ユウトが席に着くと元気な声が耳に届く。
ユウトにいつも給仕してくれている少女だ。名前はファル。
仲間以外からこんなふうに笑顔を向けられたのは、この世界に来てから初めてだった。なんとなく気になって、目で追ってしまう。
今日のメインは煮込み料理だった。肉と根菜が柔らかく煮てあって、パンと合わせて食べる。
「ナナミ、それ食べないの」
カナがナナミの皿を見て言った。
「……食べたいんだけど、あんまりお腹がすいてなくて」
「昨日もそう言ってたじゃん」
「今日はちゃんと食べる」
ナナミはスプーンを手に取った。カナはそれを見届けてから、自分の食事に戻った。
ユウトは黙って食べていた。ナナミはカナがいろいろと気遣ってくれているので、特に心配はしていない。自分がやることは別のところにある。
——そう思いながら、もう一度だけ少女の方を見た。
ちょうど厨房に戻るところで、背中しか見えなかった。
アキトはテーブルの端で、静かに食べていた。誰かに話しかけることも、話しかけられることも少ない。
存在感が薄いというより、自分から場所を取らないような振る舞いをしていた。
食事が終わると講義を受けるために部屋を移動する。
部屋に入ると木製の椅子と机が四つ、黒板の前に向かって並んでいた。もう見慣れた光景だ。窓から見える空は今日も曇りで、室内は少し薄暗かった。壁には大陸の地図が貼られていて、いくつかの地名に赤い印がついている。
机には飲み物が置かれている。水でもない、ほんのり甘いジュースのようなものだった。
四人が席に着くと、講師が入ってきた。五十代くらいの男で、肩くらいまで伸びた白髪交じりの髪の毛を後ろで一つに結んでいた。
戦闘訓練の教官オルドとは違い、この男は訓練に立ち会ったことがない。座学専任らしかった。
「では始めます」
感情のない声で言って、黒板に文字を書いた。
"召喚者の役割と使命"
ユウトはノートを開いた。
「まず、あなた方がなぜこの世界に呼ばれたかを説明させてください」
講師は黒板に向かったまま続けた。
「この世界には、人間の力では対抗できない存在がいます。魔王と呼ばれる存在です。定期的に力を蓄え、人間の世界に害をなす。その脅威は数百年前から記録されており、通常の軍事力では抑えきれない」
地図の一点を指した。大陸の南端、赤い印のついた場所だった。
「召喚魔法は、その対抗手段として古くから用いられてきました。異世界の人間は、この世界の魔力に適応することで特異な力を発揮します」
四人は聞いていた。
ユウトはペンを走らせながら、素直に頷いていた。なるほど、と思った。召喚されたことに意味があるなら、それはわかりやすい。
カナは真剣な顔でノートを取っていた。
ナナミはペンを持ったまま、黒板をぼんやりと見ていた。内容が頭に入っているのかどうか、表情からは読めない。
アキトは——無表情で黒板を見ていた。
「直近だと、六十年前、三十年前に召喚されています。いずれも魔王が出現したタイミングです。召喚者の力なしには乗り越えられなかった」
ユウトはペンを止めた。自分たちの前にも召喚者がいた。召喚された日に"使命を果たしたら元の世界に帰還できます"と聞いていたので、きっと元の世界に戻ったんだろうと楽観的に考えている。
「我々の都合で召喚を行うので、召喚者にはできる限りの待遇を約束しております。衣食住、知識、能力。それらを十分に提供させていただきます」
講師は一拍置いた。
「また、同年代の関わりも必要と考え、あなた方の身の回りの世話を少女たちにお願いしています」
ユウトは食堂の光景を思い出した。同じくらいの年頃の、あの三人の少女。
——なるほど、そういう配慮か。
悪くない話だと思った。むしろ、丁寧に扱われているという感覚が強まった。
カナも同じように頷いていた。
ナナミはスープを置いてくれた子の顔を、なんとなく思い浮かべた。
アキトは何も思わなかった。
「召喚者には特別な地位が与えられます。国の保護下に置かれ、訓練を受け、力を伸ばす。そしてその力を、国と民のために用いる。それが、あなた方にお願いしたいことです」
"国と民のために"。
ユウトはその言葉をノートに書いた。悪くない、と思った。むしろ——なぜか腑に落ちた。筋が通っていると感じた。疑う理由がどこにもなかった。
カナが手を挙げた。
「あの……帰還については、どうなっていますか」
「使命を果たした召喚者には、帰還の儀式が執り行われます。この世界への貢献が認められた時点で、国王直々に許可が下ります」
カナは頷いた。
「……わかりました」
疑問は解消された顔をしている。ユウトもナナミも、特に反発を抱くことはなかった。
アキトは頷きもしなかった。ただ、窓の外の曇り空を少しだけ見ていた。
——この講義内容で疑問を持たないか…。こいつらの洗脳が随分と進んでるな。時間とともに技術も洗練されていくってことかね。
アキトはほかの3人の様子を見ながらそんなことを考えていた。そして、ちらっと出された飲み物を見る。
——えげつない飲み物を作り出したもんだよ。この国は本当に腐っている。それに、魔王か、懐かしい響きだな…。
アキトは心の内側で、その言葉を転がした。
——いつの時代でも便利な存在だ。
三十年前も同じことを言っていた。魔王の脅威。召喚者の使命。国と民のために戦え。
信じた。本気で信じて、戦った。役に立とうとした。
その結果がどうなったかは——覚えている。骨の髄まで、覚えている。
どす黒い感情が沸き上がってくる。今はその時ではないと、無理やり抑え込んだ。
あの三人の少女がどこから来たのか、アキトにはわかっていた。
わかっていて、何も言わなかった。
言う理由が、ない。
——今回で終わらせてやるよ。
講義が終わったのは夕方近かった。
夕食のあと、カナは自室に戻った。
机に向かって、日付と出来事を書き留める。召喚された日から続けている習慣だ。
"十四日目。訓練は順調。ナナミの調子は可もなく不可もなく。ユウトは元気"
ペンが止まる。
続きを書こうとして、何を書くべきか迷った。ここ二、三日はなんとなく落ち着かない。
——誰かに見られてる気がする。
訓練中、講義中、たまに誰かに見られているような感覚が襲ってくる。
——後遺症って言ってたし……そういうもの、なのかな
召喚時の魔力適応に伴う過敏症状が出るかもしれない。そう説明されていた。もしそういう症状が出ても、徐々に慣れると。
ペンを置いて、窓の外を見る。中庭に人影はない。
ふと、食堂の少女たちのことが頭に浮かんだ。
同じくらいの年頃で、毎日ここにいる。どこから来たんだろう。城の中で生まれ育った子たちなのか、それとも——。
——まあ、いろいろあるよね。
深く考えないことにした。
——大丈夫。気にしすぎ。
カナはそう結論づけて、日記を閉じた。
夕方、ユウトは一人で訓練場に残っていた。
もう少しだけ、と思って大剣をふるっていたのに、気づけばかなりの時間が経っていた。的はすでにぼろぼろだった。腕が少し痛い。でも止め時がわからなかった。強化された石の的を叩くたびに小さな快感に襲われる。
——なんだこの感覚。
おかしいとは思う。でも、止める理由も見当たらなかった。一撃一撃が洗練されていくのも感じていた。的が砕けるたび、胸の奥で何かが満たされていく。
この後しばらく、訓練場からは重い打撃音が響いていた。
夜、扉を叩く音がした。
「どうぞ」
ユウトが答えると、開いた扉の向こうにファルがいた。
湯気の立つカップを両手で持って、「お持ちしました」と元気よく言う。昼間と変わらない声だった。
「ありがとう」
「はい!」
ファルはにこっと笑った。昼間と同じ笑顔。
ユウトはカップを持ったまま、少し迷ってから言った。
「……ここでの仕事、大変?」
我ながら唐突な質問だと思った。でも、なんとなく聞きたかった。
ファルは一瞬だけ動きを止めた。ほんの少しだけ。
「大変じゃないです。みなさんが優しいので」
答えはすぐに返ってきた。
でも——その一瞬が、ユウトには少し引っかかった。
ほんの一瞬。
けれど、ユウトの胸に小さな棘のように残った。
「そっか」
「では、おやすみなさい」
一礼して、ファルは出て行った。
廊下に足音が遠ざかっていく。
ユウトはカップに口をつけた。温かくて、おいしかった。
ファルのさっきの一瞬の間のことを、もう少しだけ考えた。
——でも、結論は出なかった。
——何も疑わなかった。




