第2章 自分を変えてその先へ
次の日、僕は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
早く本で学んだ内容を実践したくてたまらなかったからだ。
朝9時に起きて歯を磨き、フィリップスのシェーバーで髭を剃る。
そして、冷蔵庫からおにぎりを取り出し、レンジで1分温めて、ラップを外して食べた。
鮭が入っていて美味しい。
しょっぱいものが好きな僕に取っては、最高の朝食だ。
まだ寝ている千聖の部屋に向かって「行ってきます」とだけ言い、僕は家を後にした。
青いMOVEに乗り、MAN WITH A MISSIONのFLY AGAINを掛けた。
そして、口ずさみながらアクセルを踏んだ。
僕の職場は自宅から30分ほど離れたドラッグストアだ。
ドラッグストア業界での売上順位は低いが、グループ社を含めて全国展開しているほど、規模は大きい。
登録販売者を取得しているので、医薬品販売がメインだ。
登録販売者とは、第3類や第2類医薬品の販売が出来るようになる資格であり、この資格がないとドラッグストアを運営することが出来ない。
この仕事を初めてから仕事にのめり込むことになった。
というのも、実は僕は大学時代にガソリンスタンドのアルバイトをクビになった経験があった。
当時の僕は、あまりにも仕事が出来なかった。
エンジンオイルの販売金額0円。
おまけに無愛想とまでお客さんに言われる始末。
ある日、冬の寒い日の早朝6時に、震えながら原付で店舗に出勤したら、シフトに名前がなかったのを今でも覚えている。
それで、バイトをクビになり、ふらふらしていた。
やがて貯金も底をつき、働こうとアルバイトを探していたら、時給1000円のアルバイトを見つけた。
当時の最低賃金は850円で、しかも僕が通う大学に行くために乗り継ぎをしなきゃいけない駅の前。
(ここだ!)
そう思い、僕はアルバイト面接をし、見事合格した。
だが、相当にハードな仕事だった。
研修期間は、あってないようなもの。
責任者以外は、全員走るのがマニュアルで、走りながら商品の値段を大きな声で言わないといけない。
そして、倉庫は地下にあるから、急な階段を、商品が入ったダンボールを持って登り降りするのもキツい。
(こりゃあ時給1000円だわ)
当初はよくそんなことを思ったものだ。
でも、不思議だった。
楽しかったんだ。
この仕事が。
当初はやっぱり、僕が仕事が出来なくてよく怒られていた。
でも、徐々にたくさんの仕事を任せて貰えるようになり、学生ながら精算までするようになった。
やがて、ブロックのリーダー社員から「うちで社員にならないか?」と誘いがあった。
けれど、僕は断った。
何故かというと、接客のマニュアルが僕には合わなかった。
一語一句マニュアル通りの言葉をレジで言わないといけず、更にはレジの上にあるカメラでリアルタイムに本部で接客の採点をされ、何かあれば電話で指摘が入る仕組み。
これだけに納得がいかなかった。
ガソリンスタンドで、接客態度が悪くてクビになった僕が、これに疑問を抱くとは、思いもよらなかった。
そして、会社説明会の時に自由に接客が出来る今のドラッグストアに入社したというわけだ。
MAN WITH A MISSIONのプレイリストを聴きながら昔を思い出しているうちに、僕が勤務している店舗に到着した。
店舗の大きさは180坪ほどの大きさで、駐車場には20台停められる。
共同で敷地を借りているため、同じ土地に吉野家がある。
僕はたまに、小腹が空いた時に通い、吉野家の店員も僕が勤務している店舗に山崎パンやおにぎりを買いに来る。
お互い持ちつ持たれつといった感じで、割と上手くやっていると思う。
僕は青いMOVEから降りて、店舗の自動ドアを開いた。
そして、店内に行き、それぞれの従業員に挨拶していった。
「おはようございます」
僕がそう言うと、入口近くのレジに入っていた前野さんが、丸メガネの位置を直しながら挨拶してきた。
前野さんは僕がこの店舗に異動する前の店舗で、一緒に働いていた。
そして、僕が今いる店舗がオープンすることになり、一緒に異動してきた。
面倒見が良く、愛想がいいのを評価されて、新店舗配属に抜擢された。
僕は店内の大通りを進み、L字門を曲がり、倉庫へと向かう。
倉庫の扉を開くと、もうひとり従業員がいた。
「おはようございます」
僕が挨拶すると、「おはよう!」と小柄でショートヘアが似合う声で元気に挨拶を返してくれた。
この人は山根さん。
この店舗のオープニングスタッフであり、僕の良き相談相手。
去年登録販売者試験に合格し、エプロン姿からKC姿になり、自信が付いてきて、今やこの店舗に欠かせない人物となっていた。
僕は倉庫の出入り口に張り出されたシフトを見る。
「あれ?岡田店長は休みですか?月間シフトには勤務ってなってましたけど…」
僕は月間シフトをバッグから取り出し、山根さんと一緒に月間シフトを覗き込む。
「あ、本当だ。私も気付かなかった。岡田店長休みだね」
僕は岡田店長に、本を読んだ内容を伝えたかった。
でも、いないのならしょうがない。
僕ひとりでやってみよう。
僕は事務所のロッカーに荷物を入れ、KCに着替えた。
KCは白を基調としており、清潔感がある。
割とこの制服が気に入っていた。
そして、バッグから超速を取り出し、付箋を付けたページを読み返す。
僕は内容を確認し、超速をバッグに入れ、事務所を後にし、売場へと向かった。
僕が本の内容で、一番試したかったことを実践するために。
入口近くのレジの中にパソコンがある。
そこに座り、一枚のコピー用紙をコピー機から取り出した。
そして、やることを全て書き出した。
優先順位が高いものや低いもの。
それぞれ書いて、可視化していった。
次に、今日のタイムスケジュールを書いた。
今日は11時から20時までの勤務。
つまり、8時間でこの仕事を終わらせないといけない。
僕はいつも仕事が終わらず残業していた。
まぁ、仕事が好きで残業するパターンもあるけど。
店長になったら、スケジュール管理は出来た方がいい。
改めて、こうやって紙に書くと、自分が今からやろうとしている業務量が分かるので、ゴールが見えやすい。
なんて言うんだろう…
もしかしたら、今までは、ゴール場所が分からずに100m走をしていたような。
そんな気さえ思う。
僕は、超速に書いてあった通り、優先順位の高いものから仕事をすることにした。
パソコンで、社内のポータルサイトを開き、風邪薬の棚替え表を印刷した。
明日新商品が入荷してくる。
棚替えをして納品する場所を作らないと納品出来ないし、もしCMが入ったら、お客様は購入出来ない。
だから、僕はこれが優先順位が高めだと判断した。
棚替え表と2段台車をガラガラと音を響かせながら、お買い物をしているお客様の間を通り抜け、風邪薬コーナーの前に到着した。
風邪薬は、箱が小さくて細かい。
品数も多くて時間も掛かる。
いつもならこういった面倒くさい作業は、避ける傾向にあって後回しにしていた。
でも、「面倒な作業ほど最初にやるべきだ」と超速に書いてあったので、素直に実行してみることにした。
僕は棚に並べられてある風邪薬を取り出した。
パブロン
コンタック
ルル
それを、2段台車に乗せ、商品が並んでいた棚をガラ空きにした。
そこから、棚替え表通りに並べ替えていく。
明日来る新商品のスペースを空けて、再度商品を並べ替えた。
出来た。
いつもなら夜にこういった棚替えをするから、2時間は掛かるのに、ものの1時間で終わった。
まだ昼頃なので、力が漲っているのも関係あると思った。
夜は疲れているからペースダウンしがちだ。
だから棚替えみたいに重要度が高く、体力を使う仕事は完了までの時間が遅くなりがちなんだ。
僕は、今この瞬間、超速に書いてあった内容を理解した。
棚替え表と2段台車を倉庫に持っていく最中、思った。
(本ってすごい。たった1日で、これほどまでの効果が出るなんて)
僕は感動の余り、言葉を失っていた。
ただ心の中で「本はすごい」と繰り返すことで精一杯だった。
そこから、優先順位の高い発注や本日期限の書類提出を実施し、余った時間は優先順位の低い簡単な事務仕事を実施し、定時5分前には全て仕事を終わらせた。
完了した仕事には、斜めの斜線を入れてある。
その数は、10個以上。
僕は改めて、その紙をじっと眺めた。
(僕は、本当に変われるかもしれない)
その時、脳裏に過ったのは、千聖と生まれてくる子供と僕が、笑顔で過ごしている光景だった。
僕は、その光景を忘れないように、斜線が引かれた用紙を大事そうにバッグへとしまい、店舗を後にした。
「ただいま」
22時に玄関の扉を開けた。
この時間に帰ってくるのが珍しく、少し心地よい変化に喜びを感じていた。
「おかえり」
リビングに進むと、千聖がテレビに映っていたドラマから僕に視線を移して、笑顔で言った。
僕は、今日あった出来事を話さずにはいられなかった。
僕は少し興奮気味に言った。
「あのさ、今日本の内容を試したんだ。そうしたら、いつもなら定時過ぎても仕事していたのに、今日は定時5分前に仕事が全て終わったんだ!」
僕はバッグから、斜線が引かれた用紙を取り出し、千聖に見せた。
千聖の眉間に皺が寄る。
やがて、パッと顔が明るくなった。
「すごい!たったこれだけで?パパは素直だから、すぐに変われるよ!」
僕は「ありがとう」と少し照れながらバッグに用紙をしまい、自分の部屋へと向かった。
自分の部屋のドアを開けて中に入り、超速をバッグから取り出し、表紙に向かって頭を下げた。
(本当に、本当に、ありがとうございます)
僕は、感謝の気持ちが抑えきれず、本に向かって頭を下げている自分が少しおかしくなって、一人笑っていた。
そこから、僕の仕事の質は大きく変わっていった。
後日、岡田店長に本で学んだ内容を説明した。
「おぉ!いいじゃねぇか!やってみろよ!」
岡田店長は、ドラッグストア業界30年以上の大ベテランであり、真っ黒に日焼けした姿で、矢沢永吉を崇拝していた。
仕草がそっくりで、ドラッグストア界のロックスターのような風格だ。
もちろん岡田店長も僕の妻が妊娠していることを知っていた。
だからこそだろう。
僕の昇進を手助けしてくれていた。
それからの僕は色々試した。
パレートの法則やら、メールと電話の使い方やら、パッシブタスクやアクティブタスクやら。
ありとあらゆる本の内容を試していった。
月に40時間していた残業が、5月には20時間になり、6月には、全ての勤務が定時で帰れるようになった。
そして、とある雨が降る6月下旬。
僕は店内で、衣類洗剤の棚替えをしていた時だった。
「大川くん、少しいいかい?」
突然、斉藤マネージャーが僕に話しかけてきた。
「はい?なんでしょう?」
僕は両手にアリエールの詰め替え洗剤を持って、拍子抜けした声で答えた。
我ながら少し恥ずかしかった。
僕は両手に持っていたアリエールの詰め替えを棚に戻し、斉藤マネージャーと一緒に事務所へと向かった。
僕達は事務所に入った。
斉藤マネージャーが、ジェスチャーで(ドアを閉めて)と手を振っている。
僕は、後ろを振り返り事務所のドアを閉めた。
緊張が走る。
まるで、告白される前兆のように。
斉藤マネージャーが事務所付近に誰もいないことを確認した。
そして、僕に向かってこう言った。
「大川くん。おめでとう!7月から平塚の店舗で店長に昇格だよ!」
僕は一瞬、何を言われたか分からなかった。
昇格?
昇格ってなんだ?
あぁ、
しょうが?
いや
しょうがくせい?
んん?
昇格ってもしや…
バカな考えを巡らせたら思考が正常に戻った。
そして、やっと斉藤マネージャーの言葉の意味を理解することが出来た。
「本当ですか!ありがとうございます!」
斉藤マネージャーがいつものようにIQOSをサッと取り出し、メンソールをセットする。
「良かったよ。育休前に昇格出来て。最近本を読んで色々勉強してるんだって?すごいじゃないか」
多分岡田店長が伝えてくれていたんだろう。
斉藤マネージャーは、残業管理をする立場の人だ。
僕の残業時間が減った=評価に繋がったんだと、この時に確信した。
斉藤マネージャーのIQOSが温まり、メンソールを口に咥える。
ゆっくりと煙を吐く。
その煙は、割とすぐに消えた。
「7月まであまり時間がないけど、店長になる店舗には挨拶に行くように」
僕は斉藤マネージャーに「ありがとうございます」とお礼を伝えて、軽い世間話をした。
子育てのこと。
店長の苦労やこれから起こるであろうこと。
平塚の店舗も斉藤マネージャーの管轄だから、心強く感じた。
僕は、残業せずに仕事を終え、自宅へと急いだ。
今日はONE OK ROCKの「The Beginning」だ。
新しい日々が始まるタイミングには丁度良い歌だ。
僕は店長になってからの日々を想像した。
生まれてくる子供のことを考えた。
千聖の笑顔を考えた。
僕は、あまり頭は良くない。
でも、良い未来を想像することは得意だ。
だから、今の僕に出来ることは、精一杯生きて、その未来を実現することだ。
それしかないし、それしか出来ない。
それでいい。
それがいい。
ブレーキをほぼ踏むことなく自宅へ到着した。
「ただいま」
僕は急いで靴を脱ぎ、リビングへと走る。
少しお腹が大きくなった千聖がソファーの上でスマホでベビーグッズを見ていた。
可愛らしいおくるみだ。
それに、黄色の肌着もスマホ画面に写っていた。
「おかえり。どうしたの?」
僕は抑えられない嬉しさのまま言った。
「千聖!7月から平塚で店長に昇格だってさ!」
千聖の目がいつもの2倍以上大きく見開かれた。
斉藤マネージャーから受けた言葉をすぐ理解出来なかった僕とは真逆の反応だった。
「良かったね!パパ、おめでとう!」
すると、突然千聖が口元を右手で抑えた。
「大丈夫?」
僕は慌てて千聖に駆け寄る。
そして、千聖の背中を優しく上下に撫でた。
千聖は、この頃悪阻がひどい。
産婦人科で薬を貰い飲んでいるが、少し楽になる程度で、改善に向かわない。
僕がいない間、この悪阻と一人で戦っている千聖の姿を思うと、涙が出る。
やがて千聖が洗面台へと向かい、口から吐き出した。
僕は急いでキッチンに向かい、コップに水を一杯入れる。
ゆっくりした足取りで戻ってさた千聖はソファーに座る。
だんだん背中を丸めていき、お腹を優しくさすった。
僕は水の入ったコップを千聖に手渡し、千聖はゆっくりと水を飲み始めた。
まるで、砂漠で残り少ない水を飲むように。
ゆっくり、ゆっくり水を飲み終えた千聖は、空になったコップを右手に持ちながら言った。
「ありがとう。少し落ち着いたわ」
僕は、「良かった」と小さな声で言った。
「ごめんね。せっかくの良い話を遮っちゃって」
僕は、首を横に振った。
力強く、そして、優しく。
千聖は、コップをニトリのダイニングテーブルに置いて、僕の方へ向き直った。
「改めておめでとう。パパ」
素直に嬉しかった。
それ以上の言葉は僕には必要なく、僕が父親になる決意を固めるのには、十分すぎる一言だった。




