六日目 トルコ① 空港の真ん中でアイーンと叫ぶ
基本、旅には冒険を求めてはいない私たちです。…が、望む望まざるにかかわらず、旅はやっぱり冒険なのです。日常から離れたら、そこは常に何かしらの想定外の事態が待っているものなのでした。だとしたら、私たちはなぜ旅に出ようと思うのでしょうか。
「何泣いてんのよ。泣きたいのはこっちよ」
国内線のゲート前で珍しく妻が青い顔をして待っていた。
「君に二度と会えなくなると思った。泣かせてくれ」
走り寄った私はとめどなく出てくる涙を拭こうともせず、妻に抱きついた。
「ぎゃっ!」
「『ぎゃっ』はないだろう。僕は君の夫だぞ」
「もう何でもいいわ。ゲートまで急ぐわよ。乗り遅れるわ」
妻は自分のバックパックをかつぐと、ベンチ下にあった私のをズリッと足で押し出す。
相変わらず行儀が悪い。だが今はこの「奇跡の再会」を喜び合ってほしい。
私のまだ潤んだままの瞳で妻に話しかける。
「いろいろ聞いてくれ。僕に何があって、どうやって切り抜け、いかにして」
「うるさい。早くしろや、ハゲ親父」
妻はもはや私の顔も見ず、ゲートに向かって急ぎ歩き出した。
「おおう」
私の感動と妻の罵倒の落差が激しすぎる。
さてここはイスタンブール空港。
私はこの空港で大変なミスを犯した。時は朝の4時。
タブレットを搭乗席に置き忘れたことに気が付いたのは乗り換えの国内線搭乗口へ辿り着いた時だった。
私たちはこれからカッパドキア行きに乗るのだ。
「ちょっと行ってくる。途中で落とし物預かり的なデスクを見た」と妻に告げる。荷物は妻に任せて(これが全てのトラブルの根源)私は国際線のゲート方向に引き返した。まだ3時間近くある。大丈夫だ。うん。
大丈夫じゃなかったんだな、これが。
私が迷いつつ辿り着いた国際線の出口で空港スタッフに訊くと『仕方ないな。ここを通してやるから、あのデスクに行ってみろ』というようなことを(多分)言われたので、その出国ゲートをスルリと出た。(このスルリが最大の間違いだった。生涯でもかなりランク上位の過ちだ。多少スリルがあってもスルリと出てはいけない)
迷いつつも私は忘れ物デスクに辿り着き、何か『ここに連絡せよ』的な用紙を貰って妻の元に戻ることにした。半分タブレットのことは諦めた。安物だし、手続きがよくわからんし、何より時間がない。3日後にはもう一度ここに来るしな。
だが私は忘れていた。何を?すべてを。
私はすべてを忘れて手ぶらで出国ゲートをくぐってしまったのだった。パスポートもボーディングパスも、何とスマホも。まさにモルディブで完全にスポンジ頭になっていた副作用としか言いようがない。
妻の待つ国内線の搭乗口に行くのでこのゲートを通してくれと頼んだが、私が誰かを証明するものは何一つない。先ほどのスタッフはどこにも見えない。妻に連絡してパスポートを持って来てもらうにもスマホを忘れた。(ちなみに妻の電話番号、私は覚えていない。フツーだよね?)
親切なスタッフが妻の姿を探しに行ってくれたようだが、100以上の待合にある数千のベンチ、私の説明「眼鏡をかけてこのくらいの歳で、こんな感じでこんな荷物と服装」ではわからなかったそうだ。「さほど美人ではないが可愛げがあり、口は悪くて時々ミュージカルを」みたいなことを言えば良かったのか。駄目だろうな。
「誰か一緒についてきてくれないか。妻のところまで行けば、パスポートだって搭乗券だって全部あるんだ」という主張も『規則でそれは出来ない』と気の毒そうな顔で突き放される。
私は詰んだ。
最終的に何か怖そうなおばさんスタッフが登場して『もう私たちにできることはない。警察か大使館に行くように』などと睨まれ『シッシ』みたいな仕草までされ、私は空港ロビーの真ん中に立ちすくんだのだった。
私は本当にパニックになった。妻のようにミュージカルが出来れば何かの役に立つのだろうか。
必死の私はとにかくそこら辺を歩くすべてのスタッフ(らしき人)に泣きつくという作戦を敢行する。
片っ端から、そう10人以上に呼び掛け、ある人はエアラインカウンターに、ある人は空港警察に案内してくれた。それぞれ親切ではあったけれど、私がゲートを通過できることはなかった。その兆しさえなかった。
そんなこんなで二時間超、私は空港の真ん中で泣き顔を見せつつ、助けを求め続けた。
カッパドキア行きのゲートオープン時間が迫っている。いよいよこのまま駄目だった場合のことが脳裏をかすめる。妻とどうにかおちあえれば…待てよ妻が私をおいて「とりあえず」とか飛行機に乗り込んでしまったら、それはもう本当に詰む。一切身寄りも身分証明もお金もない状態で異国に一人きりだ。げ。
…あきらめるな。俺はカッパドキアで気球に乗って妻とどこまでも行くのだ。気球に乗ってどんどんどこまで山のかなたの空遠く幸子という名で18で愛というのじゃないけれど(錯乱している)
パニック状態の中、また通りかかった別のスタッフ(らしき)若い女性に話しかけてみる。
ヒジャブを着たその女性スタッフは(今まで以上に)ものすごく親切な人だった。チケットブースまで連れて行ってくれてカウンターの男性スタッフに私の事情を話し、何か『気の毒じゃないの。何とかしてあげてよ』的なことを言ってくれている(ような気がする)
苦笑いのスタッフが私に話しかけた。
「あなたの搭乗券は?ないの?じゃあパスポート見せなさい。えっ、それもないの?スマホにEチケットが残ってない?奥さんと連絡取れない?ええっ!スマホもない?…」
ここまで数回繰り返したこの質問に同じように答え、同じようにそのスタッフの目も点になっていく。
もはやjimaくんの命運もここで尽き、世界一周旅行記、これにて完!残念!
と思いきや、そこへ何かすごく偉そうな重役スタッフが登場した。
『いったい何の騒ぎだね』みたいなことを言いつつ。(推測)
このヒトはどうやらホントにすごくエライ人だったらしく、私にいくつかの質問(氏名は?日本での住所は?生年月日は?次の目的地は?などと)をして、その後私をジッと見、カチャカチャとキーボードを操作するとモニタを覗き込む。
「OK。君はjimaくん、日本人だね。世界一周の途中で、今からカッパドキアの気球に乗りに行くので間違いないね?」
人間のバックに本当に後光が差すのを私は初めて見た。
「イエース!イエース!その通り!私ジャポネ。悪いことシタコトナイネ。センキューセンキュー」
専務?は生ぬるい笑みを浮かべつつ、私に新たなボーディングパスを差し出して言った。
「そこのゲートを通って、早く奥さんのところへ行くのだ。もうすぐ搭乗が始まる。急ぎなさい」
「オーイ、オーイ(泣)。あなたは恩人だ。いいヒトだ。結婚してください」(別の意味で錯乱)
「…何を言ってるのかわからないが、早く行った方がいい」
そして私は三時間ぶりに妻と会った。おおわが妻よ、さほど美人ではないとか思ってごめんね。君と明日は気球に乗るんだ。上空で手をつないで、ドンドンどこまでも…
そうだ、気になっていることがあった。
急ぎ足で通路を並び歩きながら、私は尋ねる。
「ねえ、もしあのまま僕が来なかったら、君はどうした?」
妻が鼻をフフンと鳴らした。
「私だけ乗るに決まって…」
そこで妻はまだ涙の乾かない私のヘロヘロ顔を見、『プッ』と噴き出しかけて口をおさえる。
それから無理やり真顔に戻しながら肩を震わせて言った。
「…探しに行くに決まってるでしょ。空港がどんなに広くても愛の力で巡り合えるわよ。ホホホ、ダイジョーブ」
「い、今、『自分だけ』って」
「ほら、今回はエコノミーよ。とっとと進みなさい。パスポートの準備は?」
何か非常に不本意な気もするけれど、まあいいだろう。私はとにかくゲートを越えられた。
この旅はまだまだこれからなのだ。
「もちろんあるよ。もう絶対に肌身離さず」
妻も搭乗口で笑顔になる。
「忘れないで!そしてあきらめないで!」
真矢〇きかい。
妻が搭乗ゲート前で体を一回転させ、私やスタッフを見まわしながら手を広げ、それから胸の前で合わせる。急いでるんじゃなかったのか。
「♪あなた忘れていった あれほど言ったパスポート とんだイスタンブール 入れないのねゲート おいでイスタンブール (でも)通れないのがルール 予約して空のイス」(『飛んでイスタンブール』)
2025年 10月6日 トルコ① イスタンブール空港からカッパドキアへ
そんなこんなで無事…ではなかったが、どうにか乗り越えたり乗り換えたりして、カッパドキアへやってくることが出来た。有名な気球ツアーに参加するため、世界一周航空券とは別に自前でやってきたのだった。
「カッパドキアホットバルーンツアー」それはどこまでも続く雄大な奇岩群を見下ろしながら、気球で1時間ほどの空の散歩を楽しむという、ずっと憧れていたツアーだ。このツアーの顛末は次回だ。こうご期待。(ここでも私を不幸が襲うがそれはまた別の話)
さて、カッパドキアの空港には9:30頃に到着し、事前に予約してあったタクシーに乗り、1時間半ほどかけてホテルにたどりついた。
「タスコナホテル」はけっこう有名な、そして日本人御用達ホテルらしい。私がここを選んだのは早朝上がっていく無数のカラフルな気球が奇岩群をバックに一望できる、というおしゃれなルーフトップがあるからだ。
とりあえず、ホテルに荷物を預け、付近の散策と昼食に出かける。グーグルマップで探した「コムズキッチン」という小さな食堂でパンケーキをいただいた。おばちゃんが一人でやっている素朴な店で、この旅で珍しく酸っぱくない一皿だった。味はまあ正直普通だったが、のんびりした雰囲気にリラックスし私たちはついつい長居したのだった。
チェックインの時間が近づいたので途中でジェラートなど買って食べ歩きしながらホテルに戻った。
*この旅、ヨーロッパはどこへ行ってもたいてい物価が高く、すべて美味しかったというわけではなかったが、ジェラートはどこで食べても本当に美味かった。ピスタチオ味がどこにでもあって、けっこうメインの扱いだったけど日本にはあんまりない。どうして。
坂道の途中にある高台のタスコナホテルは複雑な造りで、ホテル内のうねうねとした小路を上がったり下がったりしつつ、エレベーターのない2階へ狭い階段を登っていくと私たちの部屋があった。
広くも明るくも、そしてゴージャスでもないけれど、素朴な木と石の造りがいい雰囲気を出す部屋に私たちは満足した。ただトイレは紙が流せないタイプで、使い終わったペーパーは便器の横のバケツにためていくシステムだ。そしてそのバケツの蓋がややゆるめで少し匂う。それ以外は不満のない素敵ホテルだった。そのくらい大丈夫だ。
夕食は街中の「ファットボーイズ」、ホテルで割引券をくれたのでそこで食べた。名物の「つぼ焼きケバブ」とサラダをオーダーする。名物に旨いものなし、とまでは言わない、が。言わないが言わない。
サラダは例によって酸っぱい。というかドレッシングってないのだ。オリーブオイルと塩コショーだ。
『また身体にいいものを採ってしまった』(cv.井上真樹夫)
ようやくホテルで荷ほどきをし、ベッドにゴロリと転がる。私は実はまだグッタリとしていた。よくここまで来れた。あの空港での出来事に疲れ切っていたのだ。朝の4時にイスタンブールに到着し、もう駄目だというところま追い込まれた。それでも挫けず頑張って乗り越えた。俺ってやるじゃん。
いや、だがそもそも日本を出る際に「絶対これだけは守ること。パスポートは肌身離さない。はい、復唱!」などと妻とともにコントをやっていたのだ。「やるじゃん」じゃないな。いくら何でも自分が残念過ぎる。
まだ私はこのまま西へ西へと世界を進み、ヨーロッパも北米南米も踏み越えねばならぬのだ。私はベッドの中で拳を握りしめ、力んだ。明朝は「ホットバルーンツアー」で4時起きだ。なのに力んだせいで眠れなくなった。どうしたらよいのか。
世界どころか明日が踏み越えられそうもない。
<Tips7>「イミグレ」
海外への旅の中でもイミグレーションはなかなかに緊張する場面です。とはいえ、ほとんどの国際空港が自動化をすすめていて、基本的にはパスポートのスキャンと顔の撮影および認証でゲート通過という感じです。だから事前に海外旅行英会話で練習しておいた「Yes,sightseeng」とか「Five Days」とかを使うことも最近はほとんどありません。簡単になりました。
よく言われる「あいさつと笑顔が大切」もあんまり関係ない感じです。とはいえ、案内とか手荷物とかラウンジとかその場のスタッフにニコリとしてその国の言葉で「ボンジュール」とか「ボンジョルノ」とか「グラシアス」とか言うのはやっぱり大事な気がしますよね。人としてね。
*とある旅行動画で『ニューヨークとかの入国は他と別。ニコニコしてると怪しまれる。また入国検査では意外といろいろ訊かれる。要注意』と聞いて身構えて行きましたが、他と同じように素通りでした。状況や身なりなどで違うのかもしれません。私個人の感想ですが『日本人』とそのパスポートはすんごく有利だと感じました。
今回ターキッシュエアラインの座席に私が忘れていったタブレットもカッパドキアの帰り、イスタンブール空港で問い合わせると大変丁寧に対応してくれて、無事に私の手元に戻ってきました。その遺失物スタッフが『ジャポネ?ウェーイ』と日本のアニメの話で盛り上がったのはいい思い出です。(二人で『カ~メ~ハ~メ~波~っ!』とかやりました)
ここで少しくらいは役立つことを書こうと思い、割とお節介なアドバイス。パスポートケースって結構邪魔です。このイミグレの自動ゲートでは取らなくっちゃいけませんし、スキャナーには開いてまっすぐにしてギュッと押し当てないと読み取ってくれない場合があります。
そういうわけで私がちょっとだけ心配していたイミグレーション、どの国でもだいたいすんなりと通り抜けることが出来ました。ただ南米はまだ自動化進んでいない場合もあって、治安状況次第では厳しいこともあるようです。
ボリビアのラパスではその場で何だかよくわからないQRコードを使わせられたり、機関銃をもった兵隊さんがボーディングブリッジに並んでいて『乗客全員通路の端に並べ』って言われたり、そこで麻薬犬にクンクン体をまさぐられたりしました。怖かったです。(前日までずっと高山病予防にコカの葉を嚙んでいたこともあって *もちろん合法)
読んでいただきありがとうございました。この旅行記は実際の出来事に沿って書いておりますが、最初のパートは脚色強めのコント仕立て、中間パートは出来るだけ事実のみを、最終段落は私の浅い知識ではありますが、もし世界一周(または海外)旅行を考えていらっしゃる方がいたら参考になればという気持ちです。妻は突然その辺で歌いだすような変人ではありません。一応念のため。




