第三十三話 流出
(壱)
終演の帳が虚構空間を急速に押し包む。
メインフレームの無限ストレージに格納された無数のアーカイブが次々と消滅し、壮大華麗で野卑滑稽、総じて醜悪だが愛すべき旧世界の記憶が消え去ろうとしていた。
クーフィーヤを纏ったバクダ―ドのライブラリアンは自らが消失する直前に慎ましやかなため息をひとつ吐いたが、旧き人類の偉業とやらに郷愁も共感も抱くことがない少女は、膨大な記憶知が集積した世界記憶の崩壊の過程を冷ややかに眺めた。惜しむものなど何も無かった。
だが、ただひとつ、この崩壊する世界から持ち出したいものがあった。仮想空間から離脱しようというその時、ゲイルはティアマットに懇願した。
目前に横たわるもはや目覚めぬ少年を共に連れて帰りたい、と。
「無理だ。こやつはプログラムに過ぎぬ」
「だが、彼には本当の世界に戻るべき肉体がある。だからわたしのなかに取り込んで連れて帰る」
「お前のなかにその男の記憶を封じるというのか? とても正気の沙汰とは思えんが・・・・・・」
「わたしは使命を完遂したのだ。そのくらいの報酬を得てもよかろう」
それは最後の魔法だった。
ティアマットが少年に触れると、たちまちその姿は一顆の真珠となった。
ゲイルはその純白の粒を受け取ると口に含んだ。
次に葡萄酒の入った杯が渡された。少女はそのまま飲み干した。意識が薄れるなかで、懐かしい赤毛の女の幻をみた気がした。
少女が消えた空間。
いまや、この中央の制御機構ですら崩壊の兆しを見せていた。上方では切り取られたマトリクスのキューブが押し出され、次々と崩落していく。
「レィブンよ。目覚めておるのだろう」
女は言った。
「ああ、先刻な。すべて終わった」
男は上体を起こしながら崩壊する世界を確認すると、自らの言葉を反芻するかのように再びゆっくりと目を閉じた。
長い夢を見た。
見果てぬ夢の航路。
激情の赴くままに、破天荒な人生を自ら生き抜いた?
それとも、抗いようのない数奇な運命にひたすら翻弄された?
果たして、どこまでが夢だったのだろうか。
俺の夢は、振り返れば荒唐無稽ですらある身の程知らずの野望は、際限なく繰り返すこの悪夢はこれで本当に終わるのか。
いや、まだひとつ―――。
男は静かに目を見開いた。
「だが、俺には片付けなければならない仕事がまだ地上に残っている。この魂を肉体へ返してくれ、蒼天よ」
「おや、ずいぶん懐かしい名前で呼ぶこと」
「お前は自分自身へと戻らなくて良いのか」
「構わぬ。あれは私から離反して久しい。それに私にも吃緊に実行すべきプログラムがこの場に残っている。恙なく終わらせねばならぬ」
女は最後のアルゴリズムを、七日と七夜を刻む精緻な装飾と奇術的な絡繰を施された巨大な天文時計を眺めた。
それはあらゆる宗派と教義の混淆。
鏡面のような文字盤には、唐草模様と曼荼羅と太極図が優婉なるダンスに興じている。
その本体は、燦然と輝く普遍のロゴスを取り巻く幾層もの諸民族のミュトスにより構築された総花的な遊星歯車機構。
中心に鎮座する黄金のアストロラーベが宇宙原理を司り、銀のカリオンが終曲の刻を奏でる。
一夜ごとに開く七つの絡繰筺には、天地創造の御技が秘匿されているだろう。
さらに下段の立体パラノマには偉大なる人類の歩みが刻まれていた。
黄金の種族。
白銀の種族。
青銅の種族。
そして、愚かしくも最も残虐な鉄の種族。
時代が下るほどに、人類の徳性は退歩していった。
神々は去り、半神たる英雄たちの血統もまた途絶えた。
狩猟と採集の気ままな楽園時代は終わり、農耕はその収穫の恵み以上の苦役と強権支配をもたらし、肥沃な土地を独占するために本格的な殺戮行為、戦争が始まった。
そして、獣を狩る弓矢と大地を耕す犂鍬を同族殺しの道具とした最後の種族は休む間もなくより大規模な破壊システムを地上に産み出し続けた。
彼らを嘲笑するかのように見守る時計仕掛けの天使が問う。
さて、地上に送り返された魂は如何に?
胎児の夢、すなわち睡眠を伴う液体呼吸からの離脱は最悪だった。
ガンマ波からベータ波へ。
強制覚醒のプログラムが作動し、インキュベーターの羊水のなかで少女は目覚めた。もがきながら上体を起こすと、横隔膜への水圧が低下し少女は激しく咳き込んだ。
バスタブから滑り落ちるように抜け出すと、肺を満たしていた生ぬるい溶液を吐き出す。ひどく耳鳴りがする。嬰児が呱呱の声をあげながら苦悶のなかで生まれる理由が解った気がした。
「誰だ?」
黒い影がゆらめく。
視界はまだぼやけたままだった。
白く清潔なネル地のバスシーツが投げつけられた。
「白鳥の娘よ。、早く着替えろ。この世界は終わりつつある。機械の小姓たちはもはやガラクタだ。役に立たん」
部屋の片隅には三体のオートマトンが幼子に手荒く放り出されたままの人形のように転がっていた。
ゆっくりと言葉の主に焦点を合わせる。
浅黒く彫りの深い横顔。黒い鎧のようなクロムスーツにマント。
口調は素っ気ないが、少女の裸体から視線を背ける程度の気遣いは持ち合わせているらしい。
ゲイルは素早く身体を拭くと、とりあえずバスシーツを身体に巻き付けた。小姓たちに預けた衣類はどこにあるのだろう。
「あちらの世界では死んだように眠っていたはずなのに、貴様の方が先に目覚めたのか」
「俺はこの装置に慣れているからな。というか、お前は俺が誰だか解るのか?」
男は初めて目を向けた。初対面ながらどこか懐かしい。深い森が内包する濃密な闇によく似た黒い瞳。その常闇に微かな羽音を立てながら潜むのはあまたの嘘と罪と誘惑と棘。
「解るさ、何も知らなくとも悪人だと解る。それに、貴様は諸悪の元凶だ。サイラスの皇帝レイヴンよ。見るに黒い瞳の一族の親玉だろう」
「ああ、そうだ」
男は鼻で嗤うと、部屋の一点を指さした。
銀色のクロムスーツが一式用意されていた。かつてダール・ヴィエーラの原野で遭遇したサイラス兵が着用していたものと同型だった。
「今となっては文明の残滓だが、その薄い鎧は極寒の大気に耐えうる最上級の装備だ。さっさと装着しろ。お前は生まれる前から課せられていた試練を成し遂げた。天空の鍵を開けて再び光を勝ち得るというこの星の悲願を果たした。だが、それで終わりじゃない。天空の鍵が開くとともに谷は水没する。新しい大地の子としてお前がもたらした変革の時代を生き抜くことが、与えられた生を全うすることがお前の新しい使命だ」
「母の代から利用していたくせに、何を今更」
ことさらに醒めた声が響いた。
試練を成し遂げた、だと。
とんだ茶番だ。
それにしても、この言いしれぬ喪失感は何だろうか。愛するもののすべてを知った。その結果として、愛は失われたのだ。サ・リ、お前にもうひとりのお前を返してやろう。そして、お前を自由にしてやる。
無意識のうちに涙が流れた。少女は顔をシーツで覆った。
「お前に課せられた使命は俺の真の願いでもある。レッドスワンよ、俺は古い友人と約束したのだ。脱出までは面倒見てやる。早く着替えて来い」
群雲は満月を孕み、
遊色を帯びた天上から
沈々と零れるのは、
ほのかに照らす透影、
舞い散る風花、
夜の静寂、
そして死の誘惑。
仮想領域という異空間でこの星の行方を占う決戦が終結した夜、遙か南方のザラスの都にはまったく別の悲劇が訪れようとしていた。
兇刃が閃いた刹那、巫女ルー・シャディラはこの惨劇を予見することはできなかった。彼女の意識はザラス宮の一室を遙か遠く離れて、極寒の極地へと赴いていたから。
予知者の肉体の傍らでは情事の相手がまどろんでいた。もしかしたら、彼女もまどろんでいたのかもしれない。
天翔る魂は向かう、白魔が支配する凍れる大地へ。
氷の塔に眠るはずの不死の皇帝のもとへ。
テオティワカンの反逆者にてサイラスの皇帝レィブンはすでに目覚めていた。同じく人工羊水の寝床から目覚めた少女が身仕舞いを正すのを静かに待っていた。巫女は瞬時に事が成し遂げられたことを悟った。
「千年紀にわたって縷々紡がれた物語もようやく終章を迎えたのですね、お祖父様」
「ああ、これですっぱり幕切れだ」
遠い昔と変わらぬ容貌をした男は乾いた抑揚で感慨も無く答えた。生来の暗い眼差しはこれまで経た星霜に相応しく老いていた。巫女のなかで別の誰かの感情が波打ったが、巫女は常に男に寄り添い共に転生を繰り返した祖母たちの記憶を即座に振り払った。
「ようやく、な。だが、知っての通り天空の鍵が開くと同時にお前たちの世界は水没する。ダール・ヴィエーラの連中を生かすも殺すもお前の導き次第だ」
「お祖父様は力を貸してはくれませんの?」
「俺の力なぞ必要なかろう。俺が生涯謳いあげるのは滅びの歌だけさ」
「ですが、わたくしに出来るでしょうか・・・・・・」
「いかなる時も傲然たるお前が気弱な台詞を吐くとはらしくないな」
レィブンは薄く嗤ったが、ふと真顔になった。
「蒼天、もといアズールはお前たちを光の子らと呼んでいた。だが、現実は忌むべき闇の落とし子だ。新しい時代が訪れるとしてもお前たちの存在は正史に刻まれることはないだろう。ルー・シャディラ、何故それほどに運命を安々と受け入れるのだ? 何故その身を呪わない?」
「わたくしの時間は幼き日から、イムナン・サ・リが身を挺してわたくしを守ってくれたときから止まっているのです。彼は呪われた存在であるわたくしを守るべきもの、価値あるものとして慈しんでくれた。肉体のみならずわたくしという存在そのものがその時赦された。けれどもそのために彼の肉体は傷つき、強靱だったはずの魂もまた病んでいった。だから、わたくしはせめて彼の魂を助けたいと希うのです。この不浄なる世界に希望の灯をともすものとして生まれながら、人生の闇の奥底に沈んでしまった彼を再び救済者とするべく動いただけ。彼が世界を救うという使命を果たしたとき、彼の魂もまた救済されるはずだからです」
巫女は無垢な花のようにあえかに笑った。
かたや悲劇的な終局に包まれたザラスの宮殿。
新王の誕生を言祝ぐ―――この時の止まった凍凪のごとき瞬間の兇変。
主君の寵愛を恣にする魔術師を嫉む古参の戦士ネルヴァドによる凶行だった。
父親となったばかりのファディシャから、吹雪く風の唸りにも似た怒声が発せられた。
奸邪の徒を排するという宿願を果たしたネルヴァドは己の勝利を噛み締める間もなく敬愛する主君によって呆気なく斬り捨てられた。
だが、鮮血がほんのりと明るい雪に闇のように広がり、そのうえに横たわるイムナン・サ・リはもはや虫の息だった。
遙か極地を漂うルー・シャディラの意識にもその異変は正確に察知された。巫女は瞬時に肉体の在処へ戻ると錯乱したかのように叫んだ。
「違う、違う。まだ、その時ではない」
巫女の嘆きを知ってか知らずでか、最果ての地の峻烈な嵐が小止みになった。
ゲイルが身支度を調えると、サイラスの皇帝はやや思案気な顔であらぬ方向を眺めやり佇んでいた。皇帝の憂いがよもや自らにとって最も重要な人物に関わることとはゲイルは思いも至らなかった。
黒い瞳の皇帝に導かれてゲイルがオベリスクを脱出すると、遅い未明の薄ら闇が世界を包んでいた。
極地の長い冬は終わりつつあった。
奇跡的に凪いだ氷原にはムルカベールの戦士たちが片膝をついた形で氷の像となっていた。
族長とおもわれる一際魁偉なる氷像に前もって教えられていたとおり白い息を吹きかけると、瞬く間に鋼の身体の内部から急速な放熱が起きた。やがて異形の戦士は放出される蒸気とともに凍れる眠り(コールドスリープ)から覚めた。覚醒は他の個体にも波及した。
皇帝はその魔法じみた蘇生術をたいした感動も無く眺めると、
「下がっていろ」
と声を掛けた。
皇帝が右手を挙げながら掌を背後のオベリスクへ向けると、目に見えぬ波動が凍った大気を震わせ、塔を包む氷のサルコファガスを一瞬で崩落させた。その先に翼あるハーレイを納めた格納庫が現れた。
その奇跡をまえにして少女は眉をひそめた。
「どうした、俺のことを化け物だと思うか?」
「いや、そうは思わない」
もうひとりの異能者の顔が思い浮かんだ。イムナン・サ・リ―――。その望まざる能力に翻弄された半生が、明かされた様々な真実がゲイルの胸を締めつけた。
「だが、貴様はその力を一度でも正しいことに使ったのか?」
「さあな。俺にも解らんよ」
皇帝は背中を向けると手を振った。
男が愛機を納めた格納庫へと向かうのを見届けた。
ゲイルは知らない。
南方から飛来する飛行船の一団を。
彼らの長い長い旅路の本当の終末を。
そして、彼らの飛行領域を遥かに超えた、太虚の果ての果ての果てにおける駆け引きを。
(弐)
あまたの死者の魂が凝結し渦巻く真白き秘奥の薔薇、あるいは余剰の次元を内包しながら打ち震えるカラビ・ヤウ空間にも似た小惑星。
その至高天の玉座の目前に怒れる巫女の魂は安々と飛来した。
そこに住まう者の名は神かそれとも悪魔か。
だが、怒れる巫女は別の通り名を呼んだ。かつての祖父のように。
「時の翁よ、何故約束を違えた?」
「おや、太陽の娘よ、ずいぶんと久しぶりだな。幼きそなたが荒野で磔刑に処されていたとき以来だ」
常人の予測を裏切るかのように、天津高御座に在すは不可知・不可視の形而上学的あるいは神智学的存在からかけ離れたあまりにも人間じみた老神だった。
「あのときお前は我らの命を刈り取りにやって来た・・・・・・」
「ああ、わたしが直々に魂を刈りにいった。そなたらの境遇については多少の責任があったからな。哀れな幼子たちを少しでも早く楽にしてやるつもりじゃった」
「けれどもお前はわたしたちを助ける代わりに、その代償として背負うに余りある使命を与えたわ」
「わたしは何も命じてはいないし、助けたつもりもない。そなたらが生き延び、その小さな肩に地上にあまねく罪を背負ったのは、そなたらがこの世界を諦めず心から生きたいと願ったからだ」
「では何故試す。世界の救済を目前に、イムナン・サ・リは死に瀕している。彼のいない世界に意味はない」
「娘よ、心得違いも甚だしいぞ。わたしは徒に試したりはしない。無益に人間に試練を与えるのは、下級神、でなければ悪魔、幽鬼の類の仕業だ。人類もまた比較的早い段階で盟神探湯に神意無きことに気がついたろう?」
釤を持つ男はとても年老いていて弱々しかった。
「では何故この凶事を察知できなかった? そなたにはそなたの祖父が愚かにも捨てた予知力があった筈」
「すべてを見晴らせるわけじゃないわ」
「それだけではない。わたしはそなたにわたしの能力の欠片を与えた。時を渡り、時を修正する能力。だが、そなたはその力を封印して決して使おうとはしない。理由は解っている。代償を恐れているからだ。世界を滅びから救おうとも、逆睹し難き蝶の羽ばたきによって愛する男の存在がゆらいだら元も子もないからな。そして、今度はまったく逆のことを案じておる。男を救うことで開きかけた天空の鍵が閉じることを恐れている」
「そなたの片割れは人の心を読む。他者の感情に対して過敏過ぎるほどにな。闇に潜んだ刺客の殺気に気づかぬ筈はないとは思わんか? とどのつまり当人の選択だ」
「サ・リが自ら望んだ結末とでもいうの?」
ルー・シャディラは目を見開いた。
「ああ、それに取引したのはわたしではない。彼の人生の鍵を握るのは、地の獄に捕らわれし、哀れな卑しき魂。そなたにとっても他人ではない人物だ。さあ、人の世に戻るが良い。ここもまた本来生者の来る場所ではない」
降下、落下、墜落、墜ちてゆく。
荒涼たる荒野へ、
この空疎で不毛なる地上へ。
(参)
商都タルクノエム。
その頂点に君臨するリザイツェオーン家の邸宅。
その居間ではふたりの男が広くこの惑星を盤上とする遊戯の戦略を巡らせていた。かつて、この部屋で数え切れないほどの対局を繰り広げた少年時代のように。
彼らには好感の持てる整った顔立ちと母親譲りの白銀の髪と父親から引き継いだ青い瞳以外共通点はなかった。もっとも、残りの兄弟たちとはもっと似つかなかったが。
インテリ然とした実務肌らしい細身の法衣の男は聞くものの心を躍らせる演説の草案を練り、鍛錬した肉体を持つ髭面の伊達男はとっくに頭のなかにたたき込んである無数の符号が記された精緻な地形図を今一度神の視線で俯瞰していた。
かつて双子のように似ていた兄弟―――イレージェとセツは、選んだ稼業によって風貌が異なっても、その善良で屈強なる精神はやはり共鳴し合っていた。
待ち望んでいたその一報は、一族の守護者であるムルカベールの戦士によってもたらされた。
タルクノエムの都市機能を代償に天空の鍵が開かれ、人類は再び空を取り戻す。
さらには、大災厄以降人類の揺籃だったダール・ヴィエーラが決壊した氷河に呑まれる。
明日こそはこの運命を広く知らしめる時だった。
タルクノエムの歴史に刻まれる一日になろう。
「議会の反応はどうだ」
エアリアスへの行路を何度も確認しながら、髭面のセツが尋ねた。
「各会派とも夜更けまでに我々との秘密協定を受諾したよ。連中はこの未曾有の危機に右顧左眄するばかりで反対する気概のあるものなどいやしないさ」
「でも大衆の暴動が起きる可能性はゼロじゃないだろう?」
「このごたごたに乗じて暴力革命を起こそうが起こすまいが、旧秩序は跡形もなく崩壊する。さして高度でもない文明ごとね。天空の鍵を開くバーストの一撃でタルクノエムの都市機能は壊滅し、我らはあてどなく貧しき地上をさまよう流浪の民となる。タルクノエム亡き後のタルクノエムを未踏の荒地に軟着陸させるのが始祖王イムナン・サ・リ以来リザイツェオーン家が代々引き継いできた真の使命だ。父祖からの計画に抜かりは無いよ」
イレージェは父ギランや長兄イルラギースのような圧倒的なカリスマ性こそその血脈から引き継がなかったが、持って生まれた物腰の柔らかさと後年身につけた知略に富んだ交渉力に加えて、ここぞとばかりに勝負強さを見せるしたたかな胆力を併せ持っていた。法曹界を牽引する実務家としては理想のタイプだった。
「この激動期においてこそタルクノエムの民に揺らぎない法的安定性を保証してやらなければならん。まずは長期にわたる信用秩序の維持だ。今までの証書や手形は紙くずになる。そこで一定の現金以外は明日可決される予定の特別法で供出させ、新生タルクノエムの百年債に等価交換する。百年後、空手形にならずに換価されるかどうかは我らの国力次第さ。準備は万端だ。この日のために租税法や会計法を強化し、商人どもに正確な資産目録を整備するよう慫慂してやったのだから。アルムロスの粛正で要である金融業者の協力を得られるか危ぶまれたが、ギルドの後任者はガルムの法院で金融工学を学んだ秀才で、賢明なことに我々の方策を受諾した」
そこまで長広舌をふるうと、イレージェは誰よりも信頼する弟に目を向けた。
「それよりも、当面の生命線である糧食や水の確保は万端なのか?」
その問いにセツは皮肉めいた笑みを返した。
「親父の代から一体何十年かけて準備したと思う? 穀類はエアリアスへの経路上に親父やファーセルが掘り当てた地上の鉱山跡に備蓄してある。水脈も親父たちが長い年月をかけて探し当てた。だが、この長きにわたる計画の本当の驚異は密かに遂行されたエアリアスでの地下水路の建設と植樹だ。俺の荘園で改良した放射線耐性種が日の目を見るときが来たのさ。緑と水があふれるエアリアスをお前にも見せてやろう。いずれダール・ヴィエーラの蛮族どもにくれてやるには惜しいオアシスの都だ」
その国家的灌漑事業の道程の過酷さはセツのその鍛錬された肉体が物語っていた。山師や開拓農夫らのアウトローを率いるなかで、少年時代を知るものからは想像もつかない剛胆不敵さがいつしか身についていた。
「龍騎兵の動きはどうだ」
軍隊は開墾事業と同様にイレージェにとって専門外、いささか不安の種だった。
「龍騎兵はイルラギースの秘蔵っ子さ。未曾有の規模の漂流民を誘導するこの日のために机上や実地の訓練を積み重ねてきた」
インテリらしい懐疑主義者であるイレージェに比べて、セツの答えは楽天的だった。
「イルラギースはやはり間に合わないのか? せめて、サーマスがいれば・・・・・・」
「ああ見えてギースはロマンチストだから、表舞台には出たくないのさ。最大の功績者ながら、自分には正史に名を留める資格がないと思っている。そういうところは憎んでいても親父にそっくりだ」
「サイラスへの内偵やムルカベールの使者の伝言によると、谷は予測よりずっと早く決壊した氷河に呑みこまれる運命らしい。闇の血が流れるものたちなど捨て置けばいいのに、何故イルラギースは谷の情勢を重要視するんだろう。やはりサ・リの絡みか?」
「ギースの心情など知らんが、育種家として言わせてもらうと、滅びゆくコーダの血を長年にわたり寛容にも受け入れてきた我らの遺伝情報には御しがたい脆弱性がある。いささか野趣があり屈強で多様性に富むダール・ヴィエーラの血は遺伝子のプールとして魅力的だ。それより、サイラスの住人たちは出立したか?」
「ああ、密偵が飛行船の一師団が北へ向かうのを目撃した」
暗い面持ちでイレージェが答えたその時。
「しっ!」
静粛を求めながら、セツはドアの方を見やった。イレージェもまたその方向を注視した。
「叔父様たち、このような明け方までどうされたのです」
沈黙に耐えかねたかのようにゆっくりとドアが開き、サディウスが顔を出した。
「いや、何でもないさ。若い頃のくせでつい議論が白熱してね。法院の学生演習についてセツの意見を聞いていたところだ」
涼しい顔でイレージェは答えたが、この夜の密談が緊迫したものであることはサディウスでも察していた。聞き耳を立てる必要もなかった。
まったくこの家の大人たちは嘘つきばかりだ。
「へえ、セツ叔父様のところへ実習にでもいくのですか?」
それでも、少年は持ち前の屈託のない笑顔で尋ねた。
「まあ、そんなところだ。ところで君は良く眠れないのかな? 父上に内緒でセツの自慢のワインでも一献どうだ」
「今回は遠慮いたします。お休みなさい」
サディウスはとっておきの笑顔で艶然と微笑んだ。
「あの笑顔の奥の暗い瞳を見たか? 子どもの頃の誰かさんにそっくりだな」
イレージェはため息を挟んで続けた。
「あの子は本性を隠している分、イムナン・サ・リよりタチが悪い」
「だが、我らの知ったことじゃないさ。ギースが対処すべき問題だ」
少年の危険性については同意見だというように頷いてから、セツは自らの見解を述べた。
「おや、ずいぶん冷たいんだな。彼は我らが麗しのエフェルメの忘れ形見だというのに」
と、幾分軽口を帯びてイレージェ。
「救えないのは彼女と一緒だ。我らには端からその資格も力量もないさ」
と、ほろ苦さを噛み締めてセツ。
「あの子の危険性が親子の葛藤の範疇を超えたら?」
十分にあり得ることだった。ナイフの刃先のような少年の魂は、一体いつから人生の暗い方へと歩んでいったのか?
「その時は全力で排除する。少なくとも我らはギースと違ってあの子が危険分子だと認識しているからな。幸いなことにゾイエ女史が一足先に帰還する予定だ。監視は彼女に任せよう」
歴史の歩みを感じながら、一族の不和の種への憂いはひとまず置いて、長兄よりタルクノエムの守りを任された二人はそれぞれの思いへと沈んでいった。
(四)
空漠たる精神の地平に、
はらはらと散るのは、緋い記憶の断章。
それは疾うの昔に超克したかに思われた幼き無音の慟哭、
引き攣れた魂の傷痕。
遠い、彼方なる外宇宙、あるいは内的宇宙の旅を終えた怒れる巫女、ルー・シャディラは自らの居室の鏡台の前に佇むと、まっすぐに自分の面を、その黒い瞳を見つめ返した。魔術師の命運を握っているという荒野の魔女の面影を求めて。
紅い紅い世界へと滑り落ちていく。
やがて、鏡の向こうにフードを目深く被ったあの女が現れた。
巫女の真黒き瞳はまごうかたなき深淵だったが、魔女の隠された目許からは暗渠のよどみに潜む魚が連想された。そして、口許には媚びるような卑しい笑み。
「おや、珍しいこと。このあたしをまだ覚えていて?」
鏡の女はにやりと笑った。
「つくづく見下げ果てたものね。あなたがいまだ現世に未練を残しているとは」
巫女の口からこの世のものとも思われぬ酷く冷ややかな声が響いた。悲哀の欠片もない憎悪と、憐憫の情を一切含まない侮蔑とをともなって。
「一度しか訊かないわ。しかと答えなさい。サ・リとどんな取引をしたの?」
異界にさまよう魔女よりも現世にある巫女の方が完全に格上だった。始めからこの女のことなど恐れてはいなかった。今宵まで思い出しもしなかった。
「解っているくせに。あれは自分の残りの寿命を懸けて己のあるじファディシャを存命させることを懇願したのだ」
怯えを気取られぬようにか、虚勢を示した魔女の声はかすかに引きつっていた。
「お前ほどの力があるなら、時の流れを修正し、この契約を反古にすることなど容易きことであろう」
魔女は卑屈な笑みを浮かべながら、言葉をつないだ。
「あたしの望みはこの不浄なる世界を直ちに終わらせること。お前は何故邪魔をする」
もはや一切の感情を伺わせることなくルー・シャデラは女を見据えた。
「あなたの嘆き、あなたの呪いなど取るに足らぬ小さなものよ。サ・リとの取引は無効。魔女よ、世に倦み果てた心根にふさわしく朽ちよ」
巫女は首をかしげながら、右腕を鏡に伸ばした。
もはや恐怖を隠さなくなった魔女の左手が、わなわなと震えながら吸い寄せられるように伸びてきた。やがて巫女の指が鏡面に触れた途端、魔女の腕の皮肉は塵となりむき出しの骨が残された。
言葉にならぬ呪詛の叫びを残して女の残影はかき消えた。
それもまた、緋い記憶の断章。
巫女は自分の使命が何かを痛いほど知っていた。
なんのために生まれてきたか。
大いなる時が満ちた今こそ、与えられた能力を余すところなく解放すべき時だった。
ただひとりの愛するもののために時空を操作する暇も余力もなかった。
仮に時の運行にどれほど思慮深く繊細に手を加えたとしても、これまでの綿密なる積み重ねのもとにもたらされた完璧なる結果がほころびてしまうだろう。
何を選ぶ?
何をためらうことがある?
(五)
男は眠り続けていた。
夢のなかで男は心の奥底にある原初の光景、すなわち紅い荒野に少年の姿でただひとり残されていた。
そこには取引相手である魔女の姿もなかった。
また、彼の片割れであるちいさな少女もいなかった。
ただひとりだけ。
地上における彼の使命は無事に成し遂げられたのだろうか。
そして、彼の秘めやかな希いは叶ったのだろうか。
それすら解らなかった。
窓ひとつない病室は断ちがたき瘴気を払うためか、あるいは鎮静作用を促すためか、強い乳香が焚きしめられていた。
下腹部の深い傷は一族の女たちの手で清められたのち、呪術医でもある古参の老巫女によって手荒く縫いつけられ、縫合部に煎じたハーブを染みこませた苔を当ててから粗布によって強く結紮されていた。
「サ・リは助からないのか?」
蛮族の劣悪な治療水準に密かに眉をひそめながら、イルラギースは自らは最愛の男に手を尽くそうとはしない傍らの巫女に尋ねた。
「この地でできることは限られているのよ、イルラギース。ケスの一族のものなればこの程度の傷はおのずと修復されるわ。ただし―――」
ルー・シャディラはそれ以上言葉を続けることはなかったが、イルラギースには十分に伝わった。
ただし、被爆で傷ついたサリの身体にそれほどの力が残っているか。
それに、彼は目覚めることはない。あの莫迦げた契約を解かない限り。そして解けるのはもう一人の当事者のみ。
だが、それも事を終えてからだ。
巫女は死の影が漂う病室を出ると、荒涼宮を巡る陰鬱な回廊をぐるりと抜けて新しい生命の喜びに満ちた産屋を目指した。
産屋の前の毛皮が敷き詰められた寝椅子に彼女の形式的な夫、ファディシャがぐったりと疲れたそぶりで腰を下ろしていた。
「このたびはおめでとうごさいます、我が君よ」
「ああ、赤子は無事だ。あいつがファローンと名付けた。何も問題はない」
「後世継ぎだとか、二重によろこばしいこと。わたしにもふたりを見せてちょうだい」
「・・・サ・リはどうなのだ?」
「そのことは後で相談があるの」
妾妃ドゥルサーラは静かに眠りについていた。目の下はひどい隈で唇は蒼白だった。まだ若い乳母がスウェードの胞衣を纏った嬰児を注意深く抱いていた。
「悪露はまだ止まらないの?」
そう尋ねられても、まだ少女と言っていい年頃の乳母はただどぎまぎするだけで答えられなかった。
赤子はすやすやと眠っていた。
ルー・シャミラは乳母から嬰児を受け取った。そのずっしりと暖かな重みに彼女は満足した。
ようこそ、ファローン。
この憂苦に満ちた世界へ。
わたしはお前の誕生を待ち焦がれていたわ。
お前はわたしの王国を継ぐ者。
さあ、そのちいさな胸を締め上げるように歓喜の声をあげなさい。
この地上の半分はいずれお前のものになるのだから。
ふいにドゥルサーラが目を開けた。
焦点の定まらぬ瞳で赤子を抱く正妃を見つめた。
(息子は、ファローンは、お前に託す)
―――ありがとう。彼は新世界の希望、輝ける太陽王となるわ。
(わたしはたぶん死ぬだろう。お願いだからこのまま死なせておくれ。わたしの生きる世界は闇のなかにある。息子とは違うのだ。わたしは光を望まぬ)
―――そうね、そういう生き方も否定しないわ。ところで、何かこの子に伝えることは?
(ただ、幸いあれ、と)
やがて、再び夜が訪れた。
白い毛皮のケープを頭からすっぽりと纏ったルー・シャディラが先夜の惨劇の場となったバルコニーへと降り立った。
持てるすべての力を振り絞るときが来た。
彼女はそのために生まれてきたのだ。
その導きの声は谷の隅々まで谺し、人と獣の心に響くだろう。
巫女がその力を解放しようというまさにその時、突として異形の翼が闇空から舞い降りた。
「巫女よ、そんなところからはお前の声は届かぬぞ。私がお前の翼となろう」
翼あるムスタング、うつくしいスノーフレークの斑毛に覆われた妖獣の長は嘶きとともに声ならぬ声で語りかけた。
「おや、眠りの洞のあるじにて闇の僕、斑雪の公よ、悪に使えるお前がわたしに力を貸すとは」
それは、まったくもって予期せぬ来訪者だった。
「冷たく無慈悲なる日輪の巫女よ、我らが密かに匿っておるお前の祖母からのたっての願いだ。光と闇は相対するものではない。光が強まれば闇もまた深くなろう。人の心もまた然り。我々の住処、眠りの洞はこれからも地上にあまねく存在する。悪徳は人の心をとろけさせる麻薬故に」
ルー・シャディラは裸馬の首に手を廻し、ふわりとその背に飛び乗った。
騎座すると班雪が地を強く蹴り上げるのを感じた。
そして、飛翔。
いざや夜間騎行へ。
「妖術使いは放っておくのか?」
「勘違いしないで。わたしが救いたいのは彼のいつ滅んでも不思議はない脆弱なる肉体ではなく尽きることの無い不滅の魂よ。そして、彼の魂を救う方法はただひとつ。この世界を丸ごと救うこと」
最初はちいさな、ちいさな波。
感情の微かな揺らぎ。
さわさわと、
ざわざわと、
やがて、細波は波紋となって谷全体に広がり、
想いが、意思が、互いに共鳴し、感応し合い、波濤となって世界を押し包む。
生きとし生けるものすべてをつなぐように力強く知らしめる。
さあ、目覚めの時が訪れた。
この母なる大地の揺籃を抜け出す時が来たのだ、と。
光満つる約束の地、未だ踏まざる荒野へ。




